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鍬形恵斎の鎮魂 1

以前、北斎や歌麿の気持ちを慮(おもんばか)り「恵斎・政美・栄里」の技量にあおられての顛末(てんまつ)が良きにつけ悪しきにつけ影響を被ってしまったお二人の鎮魂をと、書いた事がある。
そろそろ津山美術館に行かなければとの思いもあり、駿河の国興津宿から出た、田中義珍の消息を追ってきた今までの整理をしながら、少し書いておこう。江戸の工夫者鍬形恵斎ー北斎に消された男ー渥美國泰著をみると、177ページに、鍬形恵斎は「前後まことに別人の如し」と−はじまっている。6行目からー赤羽三二郎(三次郎)明和元年(1764)畳屋の倅として江戸竈川岸に生まれた。父は駿州興津の人で田中義珍と言い、のちに下野国那須野猿子村の農業赤羽源左衛門の養子となって赤羽姓となり、やがて江戸へ出て畳職を生業とした人である。ー だから、そこでうまれた「赤羽三二郎」が、15歳頃北尾重政に入門し、17歳で黄表紙の挿絵書きでデビュウして北尾政美となり、その才能を発揮した。寛政6年に津山松平のお抱え絵師になって、「鍬形恵斎紹真」と改めたというのだが、その「鍬形姓」は母方だという記載があったという記憶がある。お父さんが赤羽家に養子縁組しているのだから、母方の姓は「赤羽」ではないのかと不審に思ったものである。それはまた別の伏線に入りそうだからこれで終わる。思い出した、「鍬形」姓は祖母方だった、訂正する。ただ、父方の祖母なのか、母方の祖母なのかはわからない。
興津宿で「田中義珍」の消息を調べてもなかなか要領を得ない。聞き込みでは、「田中町」という一角が清見寺の東北方面「JRの興津駅近辺」にあったという事を聞き、調べにいったがわからない。戦前戦後の一時期には興津町の町役をしている人の中に田中姓の人が何人かいる。また、国道一号線の北側にその田中町というか田中家の一群があったので、そこから別家の田中家が国道の南にできた事から本家の田中家と別家の田中家という分け方が自然と行われて本家の田中家を「本田中」というようになったという事を聞き及んだ。しかし、それ以上は進展していない。この界隈は奥の深い事情をかいま見せてくれる地域であるように思っている。
by kanakin_kimi | 2012-06-23 15:53 | 鍬形恵斎鎮魂


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