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告発  1

袴田事件の事件構造

事件現地・清水市街図(当時)
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事件現場・橋本藤作商店専務宅(鎮火後上面図2面)
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46年前の1966年6月30日火災現場から4人の焼死体が発見され、特別捜査本部が設置された時の看板の名称は「横砂会社重役強殺・放火事件」となっている。そして、袴田巌さんが、逮捕され、起訴され、裁判され、判決を言い渡された事件の名称は「住居侵入・強盗殺人・放火」となっている。「袴田事件」という名称は「冤罪の疑いがある事件」という意味合いを持って「再審請求事件」の代名詞として使われているのである。

従って、①「横砂会社重役強殺・放火事件」が発生し、1966年10月31日「特別捜査本部が解散」するまでの全捜査過程を通じてこの名称が使われ、②1966年9月9日の起訴以降静岡地裁から最高裁の上告棄却判決(1980年11月19日)までの全訴訟過程を通じて「住居侵入・強盗殺人・放火」事件の名称が使われている。③そこから、1981年4月20日の再審請求書提出以降「再審請求事件」といわれる、いわゆる「袴田事件」の名称が一般的には使われているわけである。

そこで、ここでいう「袴田事件の事件構造」というのは、「冤罪事件としての袴田事件」⑴と、これが発生する「発端となる事件」⑵としての「横砂会社重役強殺・放火事件」「住居侵入・強盗殺人・放火事件」の「二重構造」になっているということ、それを二重の円であらわしていた。発端となる事件を小さな円で、それを包む大きな円が冤罪事件の袴田事件である。それぞれの事件には、それぞれ真犯人がいる。袴田事件のパターンでは、それぞれの真犯人相互に交流と金銭の授受があることを示すものであった。

しかし、その後研究を重ねてみて、「発端となる事件そのものにも事件構造」があり、そして「冤罪事件としての袴田事件そのものにも事件構造」がある事に思い至った。

それは、①「横砂会社重役強殺・放火」事件が発生し、1966年10月31日特別捜査本部が解散するまでの全捜査過程を通じての名称の中にも、また、②「住居侵入・強盗殺人・放火」事件の全訴訟過程を通じての名称のなかにも事件構造を考えなければならない事を見いだしたからである。

それは、全捜査過程で「事件そのものの隠滅とねつ造」が行われている事である。
そのひとつは、「強盗」という事件がないにもかかわらずこれを「立件」していることである。
そしてまた、藤雄の「自殺」を強引に「他殺」にしていることである。
したがって、これに伴う膨大な「証拠の隠滅とねつ造」が「捜査過程において、いや、訴訟過程においてまで、捜査当局者によって行われている」事である。

さらに、これらの事実が示すことは、「捜査過程」以前の段階で、つまり、事件が発覚する以前の段階で既に捜査当局者の一部の者が「証拠の隠滅とねつ造」に介在していた事を示しているのである。
ちなみに、捜査当局の代表は、静岡県警本部長の高松敬治、県警捜査一課長の池谷真二、清水警察捜査一課長の富安要の各氏である。

そして、あろうことかこの事件の全訴訟期間の過程で膨大な「証拠の隠滅と捏造の看過と事実誤認」が行われ、「犯行着衣」を1966年9月9日起訴状では袴田巌の「パジャマ」としていたが、地裁公判中の1967年8月31日に味噌タンクから発見され(9月3日に証拠として提出し)た「5点の衣類」へ変更(し浜北の実家から押収した布切れを5点の衣類のズボンの共布と断定)するという「不法な訴因変更」までが行われたのである。


法治主義の訴訟構造

これほど膨大な、しかも赤ら様な「証拠の隠滅とねつ造」が行われていることが、捜査過程で発覚しないわけがない。にもかかわらず、「発覚させない状態」に閉じ込めている。「発覚しないためには、どのような仕組みが働いたのか。」
考えるだにおぞましい、捜査態勢の中の人事異動、いじめ、恫喝が秘密裏に行われていたに違いない。あるいは、組織全体が、そのような捜査態勢に異論を差し挟ませない、異常な組織だったのか。
その原因を何に求める事ができるであろうか。
私は「真相解明をしない、あるいは真相解明をしなくてもよいという法律体系」による「法治主義」という「法律を守る事のみに意義を求め、法律を守りさえすれば何でもできる」という「社会的規範」という名の「支配の論理」が「分立を装う三権の府や組織」の発想の根幹をなしているからだと思っている。
したがって、「真相解明」よりも「手続法が優先され重視」された結果、「証拠の扱いに対する不条理」が生じているのだ。そして、それに「疑問を抱かせない仕組みを常識化」させようとしているのだ。
しかし、いまの時代は一般市民が、「専門家に任せている事態」そのものを問題視しているのである。
「三権の分立」というのは、「司法(裁判所)・行政(内閣)・立法(国会)」がそれぞれ独立して干渉させないという「権力相互間の不干渉」を意味していたが、一般市民にとっては「三権」のいずれもから排除されていたのである。したがって、「訴訟構造」がこの影響を受けており、「証拠の隠滅とねつ造」が行われていることが、捜査過程や訴訟過程で発覚しないわけがないにもかかわらず、「発覚させない状態」に閉じ込めていたのである。
行政・立法の内閣・国会の機能に関わる「政党政治」が「終焉」したのと同じである。間接民主主義が終焉し、直接民主主義の時代へと移行する時「行政・立法の仕組みは改革される」のである。同時に、一般市民の直接参加による「司法の仕組みが改革される」検察審査会や裁判員制度などの「専門家に任せるシステムの終焉」の胎動であった。「時は今、民の下なる、文月かな」である。

証拠法と証明構造

証拠と云うのは、ある証明目的にたいして行う物的・状況的証明手段であろうと考えています。しかし、その証拠は法的にどのように保障されているのか、法的にどのように規定されているのか、証拠としての認知はどのように確保されるのだろうか。刑事訴訟法に証拠裁判主義がその原理として、規定されている。しかし、それであるならば被疑者の自供を求める必要はないはずであるが、未だに長時間に渡る取り調べが行われており、その被疑者の人権確保のためにビデオ撮影などが行われるに至っている。しかし、本人供述は上申書を書くようにすれば事足りるので、取り調べそのものを廃止すべきなのであり、本末転倒というべきである。刑訴法に証拠裁判主義が規定されているのは、証拠法の規定ではなく証拠に基づく裁判を行えという「刑訴法の規定」なのである。原理としての証拠裁判主義を徹底すればいいだけなのである。
そこで、わたしは「証拠法」が「刑事訴訟法」から独立した法律としての機能と権能を付与確立させなければならないと考えるのである。「証拠法」は、証明する作業が科学であるから「科学法」である。法律が「科学法」として確立されると、科学法は真相解明主義であるから法体系全般の内部矛盾が浮き彫りにされる事になるだろう。これは極めていい事なのだ。
真相解明を恐れるものが、今日まで「証拠法」の法的確立を妨害しているのではないかと考えている。


「刑事実務証拠法」が石井一正氏の書籍で出されているが、これは法曹界の便宜的な処理的扱いなのであろうか、どの法律に準拠しているのか明確ではない。
私見では、「証拠裁判主義」を規定しながらも、手続き中心主義の刑訴法であり、「法治主義」の社会規範に影響されている実態における救済策的な法曹界内部の妥協の産物なのであろうか。
このように、一般市民は、そこからも排除されている。「証拠」を隠滅したり、ねつ造したりする事ができないようにしておかない現行法では、いつでも冤罪は起きるのである。科学法としての証拠法を確立する事は、「再現性の確保」が「担保」された「証明構造」を持つ事になる。例えば、「火災」が発生した場合の証拠保全も、被疑者を確保した際に身体検査をする場合の証拠保全も、死体解剖する際の証拠保全も全て「科学法である、証拠法」によって規定されておくべきだろう。「袴田事件」という「冤罪事件」の発生を見ると、その事を明瞭に物語っている。五点の衣類が袴田さんのものだという事の証明をどのようにしたかを見てもわかる。年老いた母親一人だけのところを見計らって、家宅捜索をし、タンスの引き出しから見つけたといって、布裂の輪っかを手にあげた。年老いた母親には葬式の腕章のように見えた。これが後に、五点の衣類のズボンの共布と断定し、袴田巌のものだと断定した。この証明構造は正しいであろうか。警察官が家宅捜査でここにあったと言えば、証明されたことになるのか。そこにあったことを証明する証拠はないのである。感性豊かな人は、ここで気づいてくれるだろう。タンスにあったと云った捜査員が取り上げた「輪っかの布裂」は「葬式の腕章」であったのか、「五点の衣類のズボンの共布」なのかという事がどういう意味を持っているかという事である。「葬式の腕章であれば、証拠のねつ造が明白」になり、「犯行着衣としているズボンの共布であれば、捜査員はどこからその共布を持込んだのか」という「ねつ造行動の行程」が見えてくるからである。この輪っかを「決定的な証拠」として、「控訴棄却」を出したのは、東京高裁控訴審の裁判長横田敏雄氏である。当時の法曹界では良識のある裁判官であると評価されていた「横田判決」はその後の足かせとなっている。「横田敏雄」氏にどのような圧力が働いたのか。その気になれば、調査させる権力を持っているはずである。このことは、最高裁調査官にも云える事である。

告発 1、袴田さんは無実です。

「真相解明をしないシステムが冤罪を作る」

46年前の1966年(昭和41年)6月29日から30日未明に掛けて、「王こがね味噌」の登録商標を持つ「橋本藤作商店の専務・橋本藤雄宅の火災現場から4人の焼死体が発見された事件」が発生し、袴田巌さんは、その容疑者として8月18日に逮捕された。事件発生から「50日目」である。
7月1日に設置された捜査本部は、「袴田巌を50日間泳がせていた。」と記者会見で述べていた。つまり、事件発生直後から「袴田巌を犯人視した、見込み捜査が行われた事を捜査本部自らが暴露したのである
by kanakin_kimi | 2012-10-29 20:04 | 告発・袴田事件


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