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告発  番外編 1

死の連鎖

清水市の市会議員が茶畑で変死体で発見された。この事件で清水の暴力団の組長が逮捕された。
これについて、どうやらその暴力団が関係するサラ金から件の市会議員が借金をしていて、その取り立てをその暴力団の組員がしていたようである。その市会議員の名は確か「遠藤頼直氏」だと思った。

清水の巴川の橋のたもとに「ラ・セーヌ」という喫茶店があった。私は,コーヒーが大好き人間だもので、時々行ったものだ。「次郎長通り」につながり、清水港の遊覧船乗り場につながる道路に架かる橋で橋の名前は、「港橋」だったか忘れてしまった。そのラ・セーヌの店主と稲名嘉男市長が件の市会議員に金を貸していたのか、それとも金融会社が不良債権の処理を企業舎弟のサラ金に払い下げて、回収取り立てに件の暴力団が動いたということのようだった。いづれにせよ何らかの関係があるとかの噂があった。

私が会社から解雇されて、裁判闘争をしている時に様々な問題に遭遇することになった。袴田事件の救援会に参加したのもこの時期であった。合化豊年の望月さんが島田事件に関わっていたときは、今そんなことをやっているときではないのじゃないのかと云っていたのに、望月さんには申し訳なく、どういうことだと自分でも不思議に思っている。もちろん、仮処分決定が出て仮賃金が会社から支払われるようになったことも一因だが、何か見えない糸と意図にたぐり寄せられるような感覚が今もしている。

解雇されている間に、県内の労働争議をしている労働者の相互支援組織が県評の指導で進められ、全国金属の缶詰包装や村上開明堂・全国一般のVANジャケット・東海通信・静岡マッチ・安倍川製紙などが主導部隊であった。私が所属していたのは合化労連の合化豊年労組である。
何処の倒産争議だったか忘れているが、その倒産・管財人に倉田弁護士がしており、労働債権の確保をするために倒産争議団からの応援が要請された。倒産争議に暴力団絡みの噂が絶えなかったのは、関わっている管財人にもよるが、借金をしている清水銀座の金物店の倒産にも、ある農家の山が賭博ですった長男の借金のカタに取られたと嘆いていたのを聞いたのもその頃で、件の暴力団と倉田事務所が連動していたようである。

1966年6月30日だったかの新聞に、橋本藤雄の友人談が数行でていた。その友人が、「平垣安治」氏である。その15年後の1981年12月29日馬走の平垣安治宅の納屋で首つり姿で発見された。その話を聞いたのもあとになってからで、テレビ静岡が「烙印」を放映した後のことである。争議団で相談するほどの情報もなく、余裕もなかった。

袴田救援会に新たな波が表れた。袴田事件弁護団に新しく・強力な弁護人が参加してきたと今村会長がいう。そういうことで、救援会の事務所へ小川・小倉・中村の三弁護人がこられたのである。
何処で聞いたか忘れたが、この三人が倉田事務所のいそ弁をしていたことがあるというものであった。私の神経にぴりぴりと走るものがあった。救援運動に悪い影響を与えてはいけないとの考えから誤解の起きないように、聞いてみたことがあったが、怒ったように、反応したのが中村弁護士であった。
その際に、浅野正康氏のことについて尋ねた。中村弁護士は浅野氏を先生と云っていた。そして、先生への信頼の言葉が述べられていた。と同時に、私の質問に対して嫌悪し敵意を見せているように思われた。私が発した質問は、私が抱いている「浅野正康氏」に対する「疑問であり、不審である」。しかも,この疑問は「袴田事件の真相に深く関わる」ものなのである。何故なら、浅野正康氏は「橋本藤作商店」の専務橋本藤雄氏と税務処理について契約していた。
事件前日の6月29日専務宅を訪れていた「人物」を家庭教師が目撃している。そして、その人物が橋本藤雄と雑談している様子を見聞きしている。その後橋本藤雄と一緒にいなくなったのを、家庭教師の供述は示している。ところが、この重要な事実を警察や検事、裁判官は目もくれない。
そして、橋本藤雄の行動についてのタイムテーブルも不明のままにしているのである。
この重大な空白を埋めてくれたのが、平垣安治氏の奥さんのお話だったのである。

それを再録すると、「清水の料亭・(大花)で会合する約束であったようで、大花に行ったのだが、三人が顔を揃えたところで、浅野氏の都合が悪くなったということで、会合は取りやめて、専務の車で送ってもらって帰ってきた。」というものであった。

だから、その後の藤雄の消息をしっているのは「浅野正康氏」だけなのである。これを、無視していることは、「浅野正康氏」を「この事件に表面化させられない事情がある」ことを示しているのだが、それこそとんでもないことなのである。

しかも、1981年11月15日清水市矢倉神社で開催された、高杉晋吾著作「地獄のゴングが鳴った」出版記念と現地に救援会を作るための準備集会と講演会が行われた。事件現地においてはじめて冤罪事件の「袴田事件」が先ず集会の紹介として報道された。そして、集会の内容についても報道されたのである。事件の関係者にとっては「衝撃的」なものであったはずである。
その集会からひと月あまり後の12月27日に平垣安治氏は馬走の家を出かけていった。28日にも帰らなかった。奥さんは、仕事の関係で、よくあることだと多寡をくくっていた。29日に納屋にみかんをとりにいったら、そこで予想もしない安治氏の「首つり死体」を発見した。
安治氏が「誰に会いにいったのかは、ほぼ状況判断できる。」「浅野正康氏以外に考えられないのだ。」事件前日の6月29日、最後に顔をあわせたのは、藤雄・正康・安治の三人だからである。
また、平垣安治氏の「首つり自殺」に家族が不審を抱いていた根拠は、両肩にそれぞれロープの紐の輪っかがあり、額に陥没の傷があり、しかも、下着に失禁の汚れがないなどの「首つり自殺」を否定している事実があったからである。そして、連絡もしていないのに、浅野正康氏が安治氏の弟の圓一郎氏と医者を連れてきた。こちらが呼んだ医者を追い返し、両肩にあった輪っかを、こんなものあんまり問題にすると本人のためにならないからこちらで処分しておくといってポケットにいれ、自殺ということで、処理されてしまった。
平垣安治社長がなくなって、東洋スーパー化学は、いつ会社を閉鎖したのか、平地した跡地には「ラ・セーヌ」というレストランが建っていた。
それから、平垣安治氏の残された家族は、馬走の家を追い出されるように引っ越しさせられていった。そして、私たちが今村ギャラリーで袴田事件展示会を開催している最終日ごろに、三人の婦人がギャラリーをおとづれた。私たちに何を求められてこられたのか、わからぬまま静岡から逃げるように遠くに行かれたようであった。その後、東京の救援会の方にも顔を見せられたというお話を聞き,東京に住んでいるらしいということを知った。

これまでのお聞きした話を通信に要約を書いたことがあるけれど、お会いした三人の婦人のうち平垣安治さんの奥さんと娘さんがいだいている恐怖感は、「誰か」からの「脅迫」であり、「資産の強奪の理不尽」であるようだった。それがこちらにも伝わるほどの、ぴりぴりしたものであった。
浅野正康氏と平垣圓一郎氏は、二人の奥さんが姉妹である。圓一郎氏は昭和59年4月16日に死亡と届がされている。昭和59年というのは1984年である。つまり、安治氏が1981年12月29日「首つり死体で発見」されているのであるから、その3年後ということになる。

実は、ここにある「死の連鎖」は、「真相」が表に出ないように、するかのように事件発生以来続いている。

1966(S41)年 6月29日    橋本扶示子・橋本ちえ子・橋本雅一郎
      30日    橋本藤雄
1966(S41)年 9月 6日    橋本藤作(こがねみそ・無限責任社員) 
1967(S42)年 8月 8日    水野豊司(こがねみそ・代表取締役)

1981(S56)年12月29日    平垣安治(藤雄の友人・東洋スーパー化学社長)
1984(S59)年 4月16日    平垣圓一郎(東洋スーパー化学社長?)
               望月倶輔(こがねみそ・技術課長、取締役)

  

                            
by kanakin_kimi | 2013-01-01 17:21 | 告発・袴田事件


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