対立軸
桶狭間の変を見る私の歴史観は、「水軍」であり、「経済的繁栄の実態」であり、「何が何と対立しているかの対立軸」を見ることである。
ですから、織田信長と今川義元という、二人だけの対立軸としては見ていない。
当然,今までの小説などの歴史観でも二人だけの対立軸で見ているわけではないだろうし、実際に現実の中ではそんなことがあるわけがない。
しかし、それにもかかわらず、それを表す時「何が影響するのか」、対立軸をシンプルなものにしてしまう。それは、「表現方法」や「発信する側の考え方」と「受け取る側の能力」などの要素に影響されて、「捨象」したり「表現手法」を加えることになる。
すべての「実態真実」を全て認識できないという「認識限界」が先ず立ちふさがり、その際の「仮想真実像」が出来上がる。
次にその「仮想真実像」を報告し、伝えようとするする時、「論文」や「報告書」としてまとめる。それらの論文や報告書に全て目を通すだけでも大変なことになる。勢い読むひとは少ない。だからどうしても読まれるような、手法へと削ぎ落としてゆく。そうなると、内容が骨格だけになる。
つまり、ストーリーを簡略なものにするのである。日本の昔からの手法・主と客に単純化して、「主」の生涯・出世物語を歴史として見させている。
やむを得ざる「表現原理」なのだろうとも思われる。
しかし、この表現原理は、「書き手」と「読み手」の「評価能力の変化」によっていくらでも「進化」する。「実態真実」に近づける「仮想真実」の進化次第なのである。
いまは、梅田望夫氏が「ウエーブ進化論」で書かれている、「高速道路論」とおなじである。
あらゆる分野でそれが一斉に進んでいるのである。
パソコンを使いこなせるものと使えないものとの間にそれが生じている。と同時に、知識の量の拡大だけでは、左右されない認識のなりたちというものが表面化する。知識の量の拡大だけではなし得ない認識力の魅力が発揮される。賢さと小賢しさのちがいでもある。それはこういうことにも現れる。実態真実は多様であり、関連しないものはなに一つなく、そして、それこそが連続の表れなのである。従って、基本的には、その色々な多様の統一的把握をした上で判断することが出来る能力である。
織田信長を一人の人間としてみるなということであり、今川義元も一人として見ないことである。他のいろいろなものを捨象して表現しているのだ。生駒家や沢彦・前野一族・小六・藤吉郎の技術者集団・丹羽・水野の水軍・今川の水軍・井原・岡部・能島・村上などの動き次第なのである。