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「小説」の 終焉

「少女のときは止まった」を書いているときにもご忠告をいただいた。「小説」にしたら、というものであった。ご忠告の趣旨は、ありがたく受け取っていた。
しかし、私の中では「小説」は終焉していた。もうそんな時代ではないということである。
もちろん、今もたくさんの小説の読者がおり、小説の書き手もたくさん広がっている。
それなのにわたしは、太田薫氏が1975年に「春闘の終焉」を書いたように、「タイムリー」に2013年に「小説の終焉」を書いておきたいと思ったのである。

75歳の「芥川賞受賞者」が出たことの「本当」の意味を受け止めたいのである。

その作品をまだ読んでいない。紹介された作品の一部を見ただけである。漢字を最小限にしてほとんどを平仮名で書いている。私が追究していることを、この女性も追究していると読み取ったのである。

何故日本語はこれほどややこしいのか、とよく云われている。しかし一方で私は「言語」と「平和の成り立ち」は、相関関係があると考えてきたし、日本の言語の「ややこしさ」はそれを表していたのだ。とりわけ、「八百万の神々を尊崇する民」が、それぞれの持つ話し言葉を大切にして、それをお互いに認め合おうとしている結果なのではないだろうかと考えてきた。
しかし、その一方では自分の話す言葉に誇りを持ちそれを粘り強く主張しないでは残り得ないことも事実である。
言霊信仰があるように、その言葉の「アイディンティティー」を「伝統文化に昇華」させ、「八百万の神々」の一員として認めさせることが必要なのだ。
受け取る側の「受動的努力」だけではだめなのだ。なぜなら「八百万の神々の一員としての存在感」を主体的に発揮しなければならないからである。
もちろん今からでも遅くはないのだ。日本列島住民の話していた言葉や文字が今から復活してもかまわないのだ。日本列島住民が話していた言葉を表現するのを漢字だけで表すことが出来ないのも事実であり、ハングルでは表せないことも事実であろう。「ひらがな」表現はそれを意味していると考えてきた。
しかし、「ひらがな」でも「東北言葉」は表しきれないのも事実なのである。「ほつま」言葉がそれを補われるのであればそれもいいのではないのか。「トンパ」の絵文字がそれを補うことが出来るのであればそれもいいのではないのだろうか。
そんなことを,言っているような気がしている。
「小説」は、「安全地帯」と同義語であると考えてきた。松本清張作品が面白くなくなってきたことと相通ずるものであるようだ。「相棒」や「漫画」作品の方が超えてきているからだと思う。
世相の裏面をえぐり出し、表出する時にこそ「その面白さ」がある。I T 社会は、そのドキュメントを
日常的に一般の人々によってもたらされる時代に、安全地帯から眺められ表現されたものを見ても、面白いはずはないのだ。
間接民主主義が終焉し、直接民主主義の時代に突入した今、「間接民主主義の選挙投票」を呼びかけるようなものだ。

by kanakin_kimi | 2013-01-17 11:08 | 八百万の神々


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