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告発 袴田事件  番外編3

特捜本部幹部のねつ造指示に抵抗していた人々

既に何回かにわたって述べてきたが、基礎捜査を行っている春田警部補等の仕事に対して、1966年7月16日を境にして「膨大な捜査資料の整理」と称して、高松敬治県警本部長・池谷真二県警捜査一課長・富安要清水警察捜査一課長等特捜本部幹部の指示で「袴田巌に見込みをつけた捜査資料への改ざん整理」に移行し始めた。
これに合わせて、「防犯」の部所から「黒柳警部補」を応援で派遣させていたのである。
このようなことは、死体の解剖を担当していた二人の解剖執刀者である、鈴木俊次氏にも山下英秋氏にも及んでいた。山下英秋氏は、当時清水総合病院の前身である「県立富士見病院」の院長をしていた。院長と云っても「県の職員ですからね」とおっしゃっていた。専門は「内科」で、今までに解剖について経験しているのは50体ばかりでね、死体鑑定なんて専門じゃないから、県の職員だからやれと云われたからやりましたけど、イヤードキドキしましたよ。周りに一杯警察の方がいて、ちょっとしたことでもどっちかられたものでね。私が担当したのは、橋本ちえ子と雅一郎です。ええもちろん二人の正面顔写真は添付しておきましたよ。
鈴木俊次氏は、開業医で警察嘱託医でもあった。お会いするために電話をかけた。お会いいただけるということで、アポイントが取れた。10分もしないうちに、鈴木俊次氏から電話が入った。一応問い合わせをしたんだが「あってはいかん」ということだったので、申し訳ないがあえません。というものであった。
鑑定書に示された鈴木俊次氏の抵抗の跡は、私が発見したのは「鑑定にないけれど、明らかに凶器がくり小刀ではないことが、それとわかる顔写真」を外さず添付したことであり、鑑定書の報告日時である。
鈴木俊次氏の「鑑定書」の「報告日時」は、「昭和41年9月6日」となっているのである。何故これが鈴木俊次氏の抵抗の跡かというと、「特捜本部の指示にそって,書いたけれども納得がいかないから、提出を遅らせていた」のだ。
山下英秋氏は、7月25日と28日に提出されたことになっている。それは、横から口を出したひとの下書きの跡をなぞっていったようなものだろう。その下書きのモデルは、7月10日付けの提出になる、寺田勇太郎警部補の「実況見分調書」である。検死には、鈴木完扶氏が立ち会っている。おそらく、山下英秋氏の横にも鈴木完扶氏が立ち会っていて、横から口を出していたのだろう。そして、鑑定人二人のうち先づ先ず、「山下英秋氏を攻略して、下書き通りの鑑定書を出させた。」
ところが、警察嘱託医の鈴木俊次氏は、「刺し傷による出血死」までは書かせたが、なかなか提出してくれない。
検察は「9月9日静岡地裁へ起訴」することを予定していた。
8月18日に逮捕して、連日11時間以上の取り調べを行い、9月6日もうろうとしている袴田巌氏の指をつかんで指印をおさせ、供述調書を造ったのである。
そして、それを急いで鈴木俊次氏のところへ持っていき、「袴田が犯行を認めたよ、鑑定書を提出してくださいよ。」といってきた。鈴木氏は最後の抵抗の証として「9月6日付けの鑑定書を提出した。
こういう事情を物語るものだったのです。
このようなことが,調書のあちこちに書き残されていたのです。
真実を書き残すために努力している者と、真実を隠蔽しねじ曲げている横暴な権力行使との闘いが展開されている痕跡がそこにあるのです。市民がそれを見抜かなければ、支える事は出来ないのです。
by kanakin_kimi | 2013-01-21 17:03 | 告発・袴田事件


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