ロスチャイルド・イルミナティを洗い出せ 118

戦争の終焉・生きる覚悟
葉がくれは「いきるかくご」 
 生きていくのに覚悟がいるのです。小さい時には小さいときの覚悟がいるし、年を取って足腰が毎日のように痛い人にはその覚悟がいるのです。その覚悟が出来ていないと、子供が子供らしくない振る舞いをし、年寄りが年寄りらしくない振る舞いをするのだ。
 わたしは、年寄りの覚悟が出来ていないから年寄りにはなれない。一生年寄りにはなれない。それでいいと思っている。それでも私もそれ相応の覚悟をしている。それは、「明日に死すとも可成り」と思えるように、「長寿で、ぼけない」でいられるよう、生きていく覚悟だ。
 西郷隆盛が、懐に常に入れていた本があるそうだ。佐藤一斎の「言志四録」がそれで、「言志録」246条、「言志後録」255条、「言志晩録」292条、「言志耋(てつ)録」340条、計1133条のうち101条を選んで書き写して金科玉条とし、座右の戒めとしていたそうである。
 佐藤一斎を知るきっかけは、藤枝古文書会に入れてもらったからである。会の旅行がくまれて、岩村藩のツアーを三代目の会長の八木さんが研修旅行係の時に組んでくれた。杉井四郎会長の時だった。藤枝市には、岩村藩の飛び地があったのだ。現在すんでいる前島もその一つだったのである。
 その佐藤一斎がこの前島の村政にどのように関わっていたか興味がわいてきた。Wikipediaを見ると、「永元年10月20日(1772年11月14日)、岩村藩家老・佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれた。寛政2年(1790年) より岩村藩に仕えた。12、3歳の頃、井上四明の門に入り、長じて大坂に遊学、中井竹山に学んだ。
 寛政5年(1793年)に、藩主・松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。
 儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等、いずれも幕末に活躍した人材たちがいる。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。」となっている。 松崎慊堂はWikipediaを引用すると「肥後国益城郡木倉村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれる。祖父は米光氏の源蔵という農夫だった。恵芳と名のる僧が源蔵の姉娘のもとに住みつき、この夫婦の間にできた松五郎という子が後年の松崎慊堂である。11歳頃に浄土真宗の寺へ小僧として預けられたが、生まれつき読書が好きで学問で身を立てるために13歳頃に国元から江戸に出奔し、浅草称念寺の寺主・玄門に養われ、1790年(寛政2年)昌平黌に入る。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び1794年(寛政6年)に塾生領袖となる。述斎が当たっていた朝鮮通信使の応接は、慊堂が代行した。
1802年(享和2年)に掛川藩校教授となり、1811年(文化8年)には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行し、1815年(文化12年)に致仕。1822年(文政5年)から江戸目黒の羽沢・石経山房(木倉山房)に隠退して、塾生の指導と諸侯への講説にあたった。
 蛮社の獄により捕らえられていた、門人・渡辺崋山の身を案じて1840年(天保10年)に病をおして建白書を草し、老中・水野忠邦に提出する。慊堂は建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の『慎機論』が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来政治誹謗の罪などは聖賢の世にあるべき道理がないということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし公にしない反古を証拠に罪を問うならば誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。この文書の迫力でまず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。他の門人として、塩谷宕陰・安井息軒などがいる。
 文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから慊堂と同等の名声を維持することができたといわれた。狩谷棭斎らの町人学者と交遊し、はじめ朱子学を学んだがその空理性を嫌い、考証学を構築した。」となっている。 
 吉田松陰は、佐藤一斎に師事しているが、かの有名な維新の志士を育成輩出した「松下村塾」の名前はどこからきているのかと思っていたが「松蔭」の名に由来するものだと思っていた。ではその松蔭はどこに何に由来するのかを考えると「松下人」という名に思い至った。松崎慊堂の号の一つである。
「松崎 慊堂(まつざき こうどう、明和8年9月29日(1771年11月5日) - 天保15年4月21日(1844年6月6日))は江戸時代後期の儒学者。名は密または復。字は退蔵・明復。別号は益城・松下人。諡号を五経先生という。墓所は東京都目黒区の長泉院。(Wikipediaより)」
 吉田松陰は佐藤一斎とともに松崎慊堂からも教えを得ていたのであろう。私は、伊豆に松崎という地名があるから 松崎慊堂は、そこの出身であろうと思っていたが、これは外れた。しかし、韮山の江川太郎左衛門とは師弟の関係をこえた付き合いがあったようである。林述斎の次男が「鳥居耀蔵」であるが、ある時松崎慊堂が江川太郎左衛門に会いにいく時に「鳥居耀蔵」がお供をして旅をしている。あの時期「寛政の改革」で松平定信が老中首座につき田沼意次が失脚する、相良藩取り潰しに関わる鳥居耀蔵の暗躍を見る思いがするのである。若干、時期のづれがあるようだが。
 それと関係があるかどうかは分からないが、「耀海寺」が興津宿にある。ここは、鍬形慧斎の父「田中義珍」の出身地であり、田中家の菩提寺となっているようである。
by kanakin_kimi | 2014-02-08 16:12 | 洗い出せ・そして公開せよ | Comments(0)


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