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ロスチャイルド・イルミナティを洗い出せ A

戦争の終焉
 
 私は、ここで武田氏が云う「反日日本人」の部類にはいるのかもしれない。少なくとも最近まで小学校・中学校・高等学校で学んできた社会科や歴史で学んできた事に支配されてきた事を大きく転換される事になった。それを武田氏のお話はきわめて分かりやすく整理してくれた。(以下のものである。)



 しかし、それと同時に何故私が「反日日本人」と武田氏に規定される部類の人間であるのかを自分で考える事にした。わたしは、昭和18年(1943)生まれである。二宮・若菜小学校・布引中学校・兵庫工業高等学校と進んで、昭和37年(1962)豊年製油株式会社西宮工場に工員として就職し、1996年に退職するまで、先輩達に教わり勉強しながら働いてきた。私は、ひといちばい社会矛盾に対する闘争意識が強い人間であり、他人の評価に頼らず・おもねらず・期待せず、自分で自分を厳しく評価する事を心がけてきた。だから、いきおい独善とか、わがままという評価に出くわす事が多かったが、その都度その評価に負けない厳しい自己評価を自分に律してきた。
 就職してから一年後試用期間が過ぎると本採用となり本工と通称する工員になった。本採用となると自動的に「豊年製油労働組合」の組合員になったのである。そして、「労働組合の青年婦人部の活動や組合員としての活動に参加し、先輩達からの指導を受け、自分の判断でその中から自分に合う活動を選択していた。」私が、試用期間の時、配属された精製工場の周辺の草むしり作業を指示された。工場全体が停止しているのである。私には何が起きているのかあまりはっきりとした認識がなかった。労働組合がストライキを決行したという事のようであった。それがどういう事態であるのかの認識がなかったのである。事務所前広場の方で、集会をしているようであった。しばらくすると、「ワッショイ・ワッショイ」という声が聞こえてきた。地の底からわき出すような声である。草むしりをしている私の目にタンクとタンクの間から、鉢巻きをした人たちが腕を組んで4列縦隊になってデモ行進をしているようであったのがちらりと見えた。しかし、当時の自分は全く関心がなく、景色として通り過ぎていった。
 後から聞いたところでは、戦後初めてのストライキであったらしく、委員長をしていた「秋山志圭明氏」は、懐に辞表を持って悲壮な覚悟を強いられて決断したストライキだったそうである。そして産業別組合の合化労連に加盟したのである。だから、きわめて緊張感のあるストライキだったのである。そして、試用期間の私は本採用となるまでは気が抜けない立場にある事を感じさせられたが、同時に、組合員にもなれない人たちがいる事を知る事になった。臨時作業員である、通称「臨時工」の人たちであった。ほとんど同じ仕事をしている「臨時工」を「本工」である作業員が作業の指示をしているのである。わたしの「試用期間」と「臨時工」は同じ立場であった。私は、そこに雇用差別の現実をいやという程見せられる事になった。だから、臨時工の本採用化の闘いは、自分が組合員になったときの闘いの柱になっていたのである。そして、それがやっと実現したのに20年かかっており、しばらくして「パート採用」という新たな雇用差別が発生した。知ってか、しらずにかそれは女性労働者のご都合に影響されていた。会社側がそれを利用したのである。
 私の会社つとめの始まりの環境はこのようなものであった。もちろん当時としてもまだましな方であり普通の風景であったのである。そのような中にいた私が抱いていたイメージは、天皇の名の下に軍部からいじめられてきた一般民衆の立場であった。広く世界を教えられる事のなかった一般民衆がどのような受け止め方をさせられていたのかという立場を理解しているのであろうか。
 支配層である「天皇や軍上層部」「産業資本・企業家」たちの家族子女が受け止めていた認識と一般民衆が受け止めていた認識の違いはどれほどの隔たりがあったのであろうか。その隔たりが、利用されているのであろうと思われる。
 日本という国家を世界史の中で統一的に把握する史観は、学校では教えられていない。私は、労働運動を通じてその学校で自学してきた事が、武田氏の云う事を理解できる認識を獲得しているけれども、「反日日本人」という規定をされているならば、その「隔たり」をこそ解消する努力をされる事を期待したいものである。もちろん、されている事を評価しているが。


反日日本人というレッテルの間違い
 はじめに云っておかなければならない。規定するのは概念規定としてであればいいが、人をそういう概念と同一の考え方をしている場合でも変化する事もあるのであるから「レッテル」のような規定の仕方はするべきではない。というのは、わたしが武田氏のお話を聞いて、なるほどそうだったのかと感心させられ学ぶ事が多いのだけれど、そのわたしにも「反日日本人」というレッテルが貼られるものですから、嫌だなあと思いながら武田氏の云う事をずーっと聞いてみたのです。口頭でおっしゃるものですから「口頭技術」が所々で、ねじられ曲げられする事があるのです。
 書き言葉、で記されていくと「証拠」がそこに明示されるから、後戻りして、さっき書いていた事といま書いている事との間の矛盾をどう考えればいいのかという事がすぐにできるのです。でも、おしゃべりは、それを分からなくする事が多いのです。
 さて本題の方ですが、「反日日本人というレッテルの間違い」についてです。武田氏(これ以降はさんとします)のお話は、結局「天皇制がずっと続いてきたこと」が、日本人社会の世界に冠たる実績を作り上げる根源のように収斂させている事がま違いの根源だと思います。それは、「森羅万象の精霊を敬い、死にとし死ぬるもの・生きとし生くるものを八百万の神々として尊崇するものの見方考え方が、生き方とその覚悟を形成している。」のであり、それは「縄文文化に根ざしている」ことなのです。天皇制は多寡だか1300年前にそれまでのルーツを神話にし、消去して形成されているのですから「天皇制」を引き合いに出すならその歴史をきっちりと整理するべきでしょう。現在に色濃く残されている縄文文化は。東北以北と沖縄ではないでしょうか。天皇制の神道は支配の論理による一神教の系統ですが、縄文文化のそれは、多神教を明確にしているのです。天皇制の神道は、それを取り込んで封じているのでずっと秘密にしてきたのです。武田さんのもう一つの間違いは、戦争という超法規的状況をイメージさせながら「国際法で取り決めているものによって法的判断をしている」という、「混乱させる誘導」をしていますが、根底的には「法治主義」で、国際法に従っておれば殺しても間違いではなく正しいとしています。つまり、法律を守りさえすれば何をしてもいいのだとする考え方なのです。その法律を誰が作っているのでしょうか、という問題にはとんと頭が回っていないのでしょうか。
 日本の先輩方が、本当は何を守ってきたのでしょうか。515事件や、226事件、日本の一番長い日は日本の一番醜い日としてきたものは何だったのでしょうか。武田さんのお話の分かりやすさや、感じ入るところがたくさんありながら、日本人を形成している一番大切なところを間違われては困るのです。
 天皇制の一神教ではなく、縄文文化の多神教なのですよ。だから、お互いを認め合う生き方であり、その人の文化を大切に認め合うのです。全国津々浦々、祭りがあり、民謡があり、食文化があり、そしてそれをよりよいものにしていくのです。
 
ロスチャイルド・イルミナティの下僕達
 「天皇制」の評価の違いが、武田さんをして云わしめているようです。ですから、そこから分水嶺のように分かれているように思われます。その隔たりを利用されてもいます。終戦後のどさくさにどのようにして入手したのか、一等地にパチンコ屋があり、そのパチンコ屋がほとんどが韓国朝鮮の進駐軍と云う立場を利用していた事、旧内務官僚の中曽根らが軍の物資を横流しするなどしながら連携していた様子が語られているし、大杉栄殺人事件の責任の身代わりになった甘粕がフランスを経由して満州に行き満映社主をしていたり、ロスチャイルドの下僕をしていたものが読売新聞の社主になったり、さまざまな事実がいま語られ始めています。それらの事実が真相を語るようになった時に、武田さんがいう「反日日本人」のレッテルは変化するのだと思います。
 その時までに、ロスチャイルド・イルミナティが「原子力発電所を買わせて、借金漬けにする収奪戦争」に加担する人たちは、差し詰め「収奪戦争の先兵」なのですから、その事におとしまえをつけておくべきではないでしょうか。それでなくても、ロスチャイルドの作ったイスラエルが、311の6代の地震を9代に小型原子爆弾で大津波にしている事実をネタニヤフがいっているのです。早く体制作りをしようとするならば、これらの真実を共有のものにして、虚心坦懐に語り合う事だと思うのです。
by kanakin_kimi | 2014-03-09 15:20 | 洗い出せ・そして公開せよ


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