デルタ航空191便墜落事件30年

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1985年8月2日デルタ航空191便墜落
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 エストリッジはフロリダ大学で電気工学を学び、卒業後はIBMへ入社した。同社でプログラマとして活躍していたが、1969年にIBMボカラトン研究所へ異動となり、研究職を続けていた。

そして1980年、パソコンが盛り上がりを見せてきた。IBMもパソコン市場への参入する機会を狙っていた。ボカラトン研究所でも、所長のウィリアム・ロウが先頭となり、パソコンの新規開発プロジェクトを秘密裏に進めていた。エストリッジは自ら希望してそのプロジェクトへ異動した。

エストリッジは個人的にAppleIIを所有していて、既にパソコンに大きな興味を寄せていた。

そのプロジェクトは当初、わずか14人のメンバーで進められた。メンバーはもちろん足りない上、全くの新規事業だったが、IBMは彼らに短期間での成功を求めていた。そこでエストリッジは、パーツの自社開発をハナから諦めることをロウに進言した。規格を公開して他社パーツを作らせて組み立てる「オープンアーキテクチャ方式」を選んだのだ。この方法にはロウも納得し、ゴーサインを出した。様々なパーツが集められ、PCは組み立てられていった。結局そのチームがIBMとして直接開発したのはBIOSのみだった。OSですらMicrosoftに外注したが(それがPC DOSである)、そのMicrosoftもOSを外部調達してちょっとした改修をした上でIBMに提供したというのだから面白い。

 また、これまで個人ユーザへ製品を発売したことのなかったIBMは、販売ノウハウも持たなかった。エストリッジはアメリカの家電小売店と流通について提携を進め、誰もがIBMのパソコンを購入できるようなお膳立てもした。そして完成したパソコンが「IBM PC」だ。

プロジェクトが開始してからわずか1年での市販化は驚異的なスピードだ。1981年、発売に際してエストリッジはIBM PCの発表会に登壇してプレゼンを行ったのだという。IBM PCは売れに売れた。IBMはいきなり計画した5倍もの受注を受けることとなった。

 エストリッジは製品発表会以後有名となり、パソコン雑誌の表紙を飾ったり、インタビューを受けるような立場となった。すると、他社から引き抜きの声もかかるようになった。その最たるものが、Appleのスティーブ・ジョブスからの誘いだった。数百万ドルの報酬と、Appleの社長の地位を提示してきたのだ。しかしエストリッジはその誘いをあっさり断ってしまう。IBMに愛着があったのだろう。

 その後エストリッジは、プロジェクトを成功させた功績を買われ、1984年にIBMの副社長へ抜擢された。ところが運命のイタズラは恐ろしい。翌1985年に彼の搭乗した航空機がダラス近郊で墜落し、突然に亡くなってしまったのだ。残念ながらエストリッジは、その後のパソコン市場がIBM PC(と互換機)一色になっていく様子を見ることはなかったのだった。ちなみに、エストリッジ以外のプロジェクトメンバー数人(大部分ともある)も同航空機に乗っていて亡くなっている。残念なことだ。

 そして、既にIBMはパソコン事業から撤退してしまっている。もちろんそのエッセンスは未だにWindowsコンピュータの中に脈々と生きているが、IBMブランドのパソコンはもう存在しない。もしIBMを愛していたエストリッジが存命だったら、歴史はどうなっていただろう…そう思わざるを得ない。(前回記事より一部転用)
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ずさんな航空事故レポート
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NTSBは、調査以下の事故報告書を発行します。これらのレポートは、古いレポートはすぐにオンラインになると、1996年から発行されたレポートのためにオンラインで入手できます。リストレポートでは、イベントの日付、レポート日付、市、州によってソートです。データをソートするために、これらの見出しのいずれかをクリックしてください。
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レポート番号    NTSBタイトル
AAR-86から05デルタ航空社、ロッキードL-1011-385-1、N726DA

事故日報告日シティ状態カントリーNTISNumberレポート
1985年8月2日1986年8月15日ダラスTXPB86-910406PDF
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調査報告書を公開せよ
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10年前のレポートが公開されていない類似事故
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イースタン航空66便着陸失敗事故
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イースタン航空66便
出来事の概要
日付1975年6月24日
概要ウインドシア
現場Flag of the United States.svgジョン・F・ケネディ国際空港
乗客数116
乗員数8
負傷者数
(死者除く)12[1]
死者数112[2]
生存者数12
機種ボーイング727-225
運用者Flag of the United States.svgイースタン航空
機体記号N8845E
イースタン航空66便着陸失敗事故(Eastern Air Lines Flight 66)とはアメリカ合衆国で発生した航空事故である。事故原因としてウインドシアが初めて注目された事例でもある。

事故機と同型のイースタン航空 ボーイング727-200
目次 [非表示]
1 事故の概略
2 事故原因
3 参考文献
4 脚注
事故の概略[編集]
1975年6月24日、イースタン航空66便はルイジアナ州ニューオーリンズを出発し、目的地のニューヨークまで目前であった。ジョン・F・ケネディ国際空港の22L滑走路に着陸すべく最終アプローチ中であったが、直前に着陸した航空機は雷雨を通過した際にダウンバーストに遭遇したが、なんとか着陸していた。なかには墜落寸前の危険な目にあったイースタン航空のトライスターもあった。しかし地上の管制塔ではそのような強い風は観測されていなかったことから、滑走路を閉鎖する措置は講じなかった。
しかし66便は、着陸アプローチ中に巨大なウインドシアに遭遇した。まず大きく機体が持ち上げられた後で、雷雲の中心からの強い下降気流につかまっていた。そのため速度の低下と急激な降下率という致命的な状況に陥ってしまった。その結果、滑走路の手前2400フィート(約730m)の地点にあった誘導灯に激突し左翼外縁が引き裂かれた。機体は大きく旋回し大破し炎上した。この事故では誘導灯が航空機が接触した場合には倒れる構造でなかったため、機体を引き裂いてしまった。この事故で乗員乗客124名のうち12人が救助されたが、病院で3人が一週間後に死亡した。最終的な生存者となった客室乗務員2名と乗客7名は、いずれも事故機の機体後部に着席していた。なおNTSBでは事故後7日目以降に死亡した搭乗者は死者数としてカウントしないことになっている。
事故原因[編集]
当初は操縦乗員の操縦ミス説もあったが、気象学者の藤田哲也が、事故原因はダウンバーストに事故機が突入したことによると証明した。事故機は高度500mを飛行中にダウンバースト(マイクロバースト)に遭遇し急激に高度を失っていた。この時に操縦乗員は計器ではなく外の対象物の視認に努めていたが、あいにく激しい雨のため視界はきかなかった。そのうえ大型ジェット機が地表付近の下降気流に押し下げられているとは思っても見なかったことから、大きく機体が押し下げられていることに気が付いていなかった。ようやく最期の瞬間になって着陸復行して地表への激突を回避しようとしたが手遅れだった。
なお、NTSBはウインドシアの規模から推測して着陸をやり直すのは難しかったとしている。そのため、事故の最大の要因はウインドシアが発生している気象条件の下で着陸しようとしたことであるとした。また藤田がドップラー・レーダーにより事前にある程度予測可能であることを立証したことから、世界各地の空港にドップラー・レーダーが配備された。
参考文献[編集]
デビッド・ゲロー「航空事故」(増改訂版)イカロス出版 1997年
by kanakin_kimi | 2015-08-01 21:59 | 洗い出せ・そして公開せよ | Comments(0)


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