人気ブログランキング | 話題のタグを見る

写楽 鎮魂 5

寛政6年5月から寛政7年1月の間10ヶ月の歌舞伎に関わった役者の肖像画を描いたということはおぼろげながら理解できても、どのような内容で、写楽がその中からどうしてあの部分を切り取ったのか、さっぱりわからなかったのである。

いつもの古書店で探していて見つけた。表紙に写楽と書いていたらすぐ手にとってしまう癖がいつの間にか出来ている。
昭和62年5月20日第一刷発行の渡辺保著「東洲斎写楽」は、著者が「演劇評論家」だけあって、歌舞伎に対する造詣が深く、大変貴重な資料となった。

この著者の「写楽像」は、結論は「狂言作家・篠田金治」としているが、私には何故そうなるのかよくわからない。というのは、指摘されている「過程」と「結論」に大きな落差と言うか乖離を感じるのである。

「写楽絵」は、「役者のブロマイド」ではなくて、「芝居の内容を描く絵」「一人一人の役者の姿よりも作品の内容を描こうとした」のだとしている。さらに、「写楽絵」の作者は、「芝居絵の世界のよそものである」、そして、「芝居を見ることができない人間のために、芝居の内容を伝えようとした」といっている。

この貴重な的を射た指摘にも関わらず、何故その目的の対象を「狂言作家・篠田金治」という市井の「一般芝居観劇者」に視点がいっているのか合点がいかないのである。

私は、「写楽絵」を書いた目的は渡辺氏が言われているところとほぼ同じであるが、「上方文化・京文化の錦絵や芝居作品とは違う坂東文化・江戸文化・徳川文化を象徴する錦絵や芝居作品」を創らせたかったのではないかと考えるのである。
 従って、作者の名も上方の錦絵の創始者である「西川祐信」に対抗して、坂東・江戸の「東洲斎写楽」としたところにその目的を象徴しているのではなかろうか。そして、それをみせたい対象は「松平定信ら」支配階級のものであったのであろうと思う。
 だから、「大谷広次」も「団十郎」も勿論描いているはずだと思うのである。それなのに、なぜ「黒キラ刷り」の方に回ってこなかったのかというところには別の重要な意味合いがあるはずである。
おそらく、それは「黒きら刷」の原本の「黒きら」を洗浄した時に浮かび上がってくるのではないかと思うのである。
by kanakin_kimi | 2009-03-18 18:09 | 写楽鎮魂


<< みんなが賢くなるためのシステム... 写楽 鎮魂 4 >>