カテゴリ:政党政治の終焉( 34 )

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 12

政党政治は終わった

明治以降の帝国議会を構成する「議員」は「特権階級と士族・華族」に限られていた。下級士族が参加するようになるのは政党政治を通じてであった。したがって、一般市民が政治に参加できるという形が生まれたのは普通選挙法が決まり、また婦人参政権が決まった時からで、ついこの間のように思われる。
政党政治は、政党が一般市民に対して指導的役割を果たしていたから成り立っていたのである。しかし、政党が特権階級の利益擁護の役割を果たしている事が市民から指摘されるようになって、政党政治が一般市民に役に立っていない事が明らかになってきた。特権階級は、自分たちの利益を擁護するために政党政治を利用していたのである。政権与党をとっかえひっかえしているのもその裏返しであったわけで、一般市民の利益を代表して政権与党となったかに見えた民主党が特権階級から恫喝されるや、一遍に方針転換するというのも「政党政治の限界」をよく表しているのである。もはや、小手先で一般市民を騙すような輩が、それを政治手法だと思っているような低俗な政治理念が通用するはずもない。指導的役割が政党政治に求められる時代ではないのである。
そして、また、一般市民も「自らが、みんなが賢くなるシステムをつくる一員になる」事を自覚するべきで、誰か他に「指導者」を求める時代でもない事を自覚するべきだ。
そして、一般市民のみんなが特権階級から永い間「分断支配」されてきた事実を刮目(めをこすってみる)すべきだろう。このように、具体的な事実が目前に展開されている時に未だに、原発に賛成するものは、自分の利益を守っているつもりが、自分の子供たちの命をちじめているという無様な姿をさらしているのだ。それも、自分の不勉強によるものであれば、・・・・自分自身に問うてみよ。
分断支配されないために、一般市民が何をしておかなければならないかを考えるベキだ。それは、難しい問題ではない、むしろ簡単な事だ。最低限の自分と自分の家族の食い扶持を作るという事なのだ。食う事に心配があると、「分断支配」の餌食となるのです。この分断支配からの「超克」が「ダーチャ方式の家庭菜園です」。既に実践している人たちもいる「田舎暮らし」なのだが、「ダーチャ方式」というのは、国や地方自治体で積極的に「一世帯当たり、60坪の家庭菜園」を運営していくようにするのです。

by kanakin_kimi | 2012-07-15 17:36 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 11

国家と土地の所有権 2

現在進行している、「世界革命」は、当事者の求めているそれぞれの「要求」「希望」「目的」の多様性に関わらず、その共通した「基本的原理」は「労働価値の世界的標準化であり、世界的平準化」なのである。つまり、同じ仕事をすれば、同じ賃金を得る事ができるという「同一労働、同一賃金」の原理が世界化するという事なのである。
世界の人々は、自分のおかれている環境の中での「自分の要求」を実現する事の意味が「世界史の今」を「実現する要求」になる必然性をもっているのである。
当事者の自覚の如何に関わらず「時空を超えた世界革命の実現者」を担っている「とき」なのである。
これまでの、I T の世界的共有の程度ですら、「みんなが賢くなるシステムを実現している」のである。「世界革命」が実現した社会では、その「みんなが賢くなるシステム」は「妨害される事はない」だろう。しかし、まだ現状では様々な妨害が「みんなが賢くなる事」の前に立ちはだかっているのである。冷静に、その事実に向き合う事だ。地球は、地球に生息する全ての生物の共有する環境であり、土地であり、海であり、資源であり、山であり、畑であり、田んぼであり、河である。
そう考えるとわたしたちの「国家と土地の所有権」とは、何なんだろう。

by kanakin_kimi | 2012-07-12 22:07 | 政党政治の終焉 | Comments(1)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 10

国家と土地の所有権

いよいよ土地の所有権問題が、世界的規模で問題になっています。国家という縄張りがその主要な主張となっています。「世界は一家、人類はみな兄弟」という言葉は、世界の人々にとって「共有できる言葉」とはなっていないのでしょうか。
「ボーダー・レス」の象徴として「 E U 」が誕生しました。「ボーダー・レス」は「縄張りはない」という認識を共有しようという事ではないのでしょうか。
「国家の縄張りの主張をやめよう」という共有認識を持とうという事ではないのでしょうか。
そして、「世界遺産」の指定は、その象徴的認識の未来を表したものなのではないのでしょうか。
しかし、他方では「広大な土地を所有している国家ほど、どん欲に土地所有に拘っている。」
元来古代から居住していた先住民族をその居住地から追い出し、追いやったものが作った法律でその所有権からも排除している。
一体、それは何を意味しているのであろうか。「大航海時代を作った民族」によって、それは行われたかに見える。何故自分たちの土地だと、「侵略・剥奪」し「領有権」を主張しているのか。「民族がそういっているのか、それとも、その民族をも支配している支配者が主張しているのか。」何のために、支配者でいたいのか。支配者の所有を誰に認めてもらいたいのか。支配者もそれを、その構図を認識できてはいないようだ。ただ、善良な人々を悲しませているだけではないのか。

by kanakin_kimi | 2012-07-11 17:09 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 9

法律は人を守らない

法律が人を守るというのは誤解であり、錯覚である。しかし、この誤解や錯覚を与え続けているのは「法治国家」の考え方です。どういう事かというと、「法治」とは法でおさめる仕組みの事です。言い換えれば、法で支配する仕組みです。法で支配する仕組みは、法さえ守っておれば何をしてもいいという極論も内包しているシステムです。ところが、その極論と思われる事は日常のものになる。法律によっては、金さえ払えば法律を守るという格好がつくものがある。そうすると、金の有る無しが法律を守る事と守れない事の分かれ目を創る。金がないから子供にひもじい思いをさせる。金がないから、子供を学校に行かせられない。金の有る無しが子供の人生を規定する。この悪循環が「犯罪」を生んでいる事も事実だろう。これが、「法の下の平等」であろうか。「法治主義」の社会では「法の下の平等」は成立しないというのが正解だろう。この事実を見事に表した国がある。モンゴルである。ソビエト体制からの独立再編に際して、モンゴルの指導者たちが選んだ方法である。国の資産を国民一人当たり均等割に配分したのである。その事実は、「平等」に思えた。ところが、それをどのように使うか・使えるかという段階から格差が広がったのである。それを使う立場の「環境の相違」が「格差を拡大した」のである。「環境の相違」こそがネックになっている。子供は自分の生まれる環境を選べない。つまりは、生まれついた環境によって、出発点の「環境の相違」が決定づけられるわけである。だから、「みんなが賢くなるための基本的なシステムは
生まれついた環境の相違をなくすこと」である。それを放置していては、みんなが賢くなるシステムはできない。それは、子供の生活に関しては一切を無料化して保育園・幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学校までの教育費用も無料化し、高校卒業後就職するか大学に行くかは本人の選択制として、必要に応じて大学に行けるようにすればよい。子供を大切にするという事はそういう事である。だから、子供の生活費用の一切を社会的に保障していく事である。「人を守るのは、法律ではない。人を守るのは、やはり人なのである。」

by kanakin_kimi | 2012-07-10 22:22 | 政党政治の終焉 | Comments(1)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 8

世界の文化はまわりもち

「ひとひとりではうまれない」という事が全てに当てはめられ、それは国というものも同じで「国一人では生まれない」という事なのです。ですから、歴史は一つの国の歴史で成立するはずがないのです。その原理を「DNA考古学が示してくれているのです。」そして私は、認識の発達や進化についてもそれを証明する事ができると感じています。それを「認識考古学」と呼ぶ事になるかどうかはわからない。しかし、それが実現すれば、宇宙的な歴史の広がりを把握する「認識考古学による逆行的構成」が可能になるはずだと考えている。この事は、ライフワーク「特殊相対場論」で書く時が近づいている。
さて、ギリシャの遺跡に「白の時代」を創った大英帝国の「歴史の改ざん」はずいぶんと自信のない「イギリス」の姿を見せてくれた。それは地中海文明との比較からのものなのであろうか。おそらくそれは、中国が「大航海時代」を創った事からの反動であろうと考えている。そして、「元」が世界的制覇を成し遂げた時代でもある。西欧の「大航海時代」はそこから学んだのである。それは、中国が相対的に低下していく過程が、西欧の大航海時代の隆盛の過程をつくっていくのである。わたしが、日本史を学んできた時には全く思いもしなかった事である。日本史は世界史の統一的把握のなかにその一部として顕微鏡の風景を広げていく認識作業が必要だ。我々は、簡単にヒーローの存在を創りその他を捨象してしまう。捨象している存在を常に思い出す事は大変難しい。ヒーローを創らない手法、その他を捨象しない手法を作り出す事が大切なのだ。

by kanakin_kimi | 2012-07-08 14:59 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 7

万葉の詞に「ロマン」を求めるものは「真実が見えてこない」


パクビョングシク(朴炳植)が「万葉集の発見」で大伴家持を万葉ナンバーワンの歌い手、と持ち上げているが、「柿本人麻呂」には到底かなわない事を知っている。その本の中軸をなしているのは、「柿本人麻呂論」である。柿本人麻呂は、三つの人生を生きている、という説の本を見たような記憶があるが、今は忘れてしまった。その説が頭のすみにあったからだろうが、私はいつも比較して考えている。
36歌仙絵巻にはこの三つの人の肖像画がある。柿本人麻呂・猿丸大夫・山部赤人の三人である。絵巻では、猿丸大夫が一番若く描かれ、次いで柿本人麻呂、そして山部赤人の順番に表現され描かれている。人麻呂と赤人の間は短い。この三人が同一人物かどうかは、まだ定かではない。しかし、私のオーラはおおいに信憑性を感じている。私のオーラがいうのは・あるいは記憶かもしれないが、百済からきた時は猿丸大夫の名で、天武天皇の和歌指導に引き上げられて柿の本人麻呂の名に、天武の崩御の後事変があり、流刑され顔に赤の入れ墨をされてのち山部赤人に代わったのではないかと思われる。いろいろの比較する史料があればいいのだが、そんなものがあればとうにやっているだろう。猿丸の大夫と人麻呂の同一人物説は「猿丸幻視行」だと思った。また、山部赤人と人麻呂の同一人物説は、「帋灯 柿の本人麻呂」柿花仄著 だったと思う。柿本人麻呂の謎を書く人は多い。しかし、全体を通して書かれたものをまだ見ない。私は四つ目の人生が日本列島に来る前にある事をパクビョングシク(朴炳植)の「万葉集の発見」で見ている。日本に来る前の朝鮮百済である。そうなるとほぼ全体を通して柿本人麻呂の謎に最も肉薄しているのは、「万葉集の発見」の パクビョングシク(朴炳植)という事になる。

by kanakin_kimi | 2012-07-04 14:39 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 6

やわらぎをもって とうとしとなせ


ときどき聞く言葉があります。「平和ぼけ」という詞です。これをきくと、私は「なんと愚かなことを言っているんだろう。」と、情けなくなります。人によっては、その言葉の意味を深く考えもせずに、不容易に使っているのだろうと思います。ですから、そんな時に私は「つぶやくのです」「そんなことを言う人は、日本人じゃあない。」とね。何度でもいいますが、「にほんれっとうじゅうみんは、八百万(やおよろず)の神々を尊崇している民の集まりです。」それを「日本人」と言い表しているだけですが、「八百万の神々を尊崇している民」は、日本列島だけでなく、オーストラリアのアボリジニーやアメリカ大陸などの原住民・諸大陸・諸島などの原住民はすべて「八百万の神々を尊崇している民」だと思います。日本の縄文時代は、まさにそれが「こころのルーツ」になっていますから「15000年の歴史がある」といって過言ではない。ですから天皇家は新参者です。NHKは、「800年の冷泉家」と聞くものに「800年にとじこめた」感があります。ところが、「冷泉家の伝えている事は、天皇家よりもずっと古い、縄文時代(やおよろず)の心を伝えているのです」。何故800(やお)年としたのか、ディレクターは、私のようなおっちょこちょいを挑発したのかもしれない。さて、「平和ぼけ」の詞に戻します。縄文時代から見れば、新参者の天皇家の祖先をかりに「天智天皇と藤原鎌足」ということにしますと、せいぜい1320年前というぐらいです。同じ頃に、近衛兵としてわたってきた金太里(出雲國風土記執筆者)の先輩が「柿本人麻呂」ですから、隔てられている「民族の壁」は、「めくそはなくそ」のたぐいであるわけです。しかし、縄文の心のルーツである「八百万の神々」は、「平和主義」であり、血で血を洗う戦のむなしさから逃げてきたたくさんの民族や人種が、それぞれの文化を持ち込み寄せ合って、今日の「日本文化」があります。ですから、天皇家の文化もその一つにしかすぎません。だれかが日本を支配しようとしてもそれは無理な話です。いくらお金がたくさんあってもだめです。一時、日本列島の土地を大量に買ってもだめです。HAARPで揺さぶってもだめです。あなたの住んでいる国の大地に「日本」を創りなさい。「日本」というのは、現在国名で使われていますが、じつは「八百万の神々を尊崇する民」が住んでいるところ。であるわけで、実在不明であるけれどその名に象徴させて「血で血を洗う戦のむなしさ」から「みんなで仲良く生きていこう」と宣言したのが「17条の憲法」で、その最も大切な条文が「和らぎをもって、尊しとなせ」なのです。

by kanakin_kimi | 2012-07-03 11:49 | 政党政治の終焉 | Comments(1)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 5

信頼関係を創る「戦争放棄」

世界が、日本の動向に注目するような、しかも従来とは質が違うことにお気づきでしょうか。
世界の大半は、西欧の近代技術から取り残され、それゆえ居住する地域の資源といい土地と環境を奪われ続け、蹂躙され続けてきました。
日本は、先輩方の先見と努力のおかげで、それを最小限にとどめ、西欧の近代技術から徹底的に学ぶ方針を立て猛進して行ったのです。よかったことも悪かったこともあります。
しかし、日本が鎖国政策をとってきた江戸時代の「田沼意次の時代」が大きな主体的転換点であったのですが、それを叩き潰した。「松平定信」を無理やり引きづり出したのは田沼治世に不満を抱く御三家の一部と林述歳・鳥居耀三親子の洋学・蘭学を排斥したことです。
「徹底的に学ぶ」ことを忘れたやから達によって、100年以上の遅れをとってしまったのである。
それを、明治・大正・昭和で一気に取り返そうとしたのでしょう。経済の下部構造のみならず、政治・文化の上部構造も激変に耐えねばならなかったのです。ここまで、よくがんばってきました。
この歴史から何を学ぶかということですが、何かひとつをあげることは出来ません。良くも悪くも、あれかこれかの決断に至る過程もさることながら、決断をしたものだけを一人の人間であらわすのはもうよしましょう。現実にはそんなことはありえず、多くの人々が関わりあって来たのですからすべてを公開することです。このことの意味するものは「徹底的に学ぶ」徳川家康の「集団指導体制の原理」をさらに一歩進めた「人が自立するための、みんなが賢くなるシステム」を作ることです。「民を支配するために」「徹底的に学ぶ」「指導者になる」のではなく「みんなが自立するために、みんなが賢くなる」という「原理」なのです。
米軍に守られているからの「戦争放棄」ではなく、「世界の大半は、西欧の近代技術から取り残され、それゆえ居住する地域の資源といい土地と環境を奪われ続け、蹂躙され続けてきた人々との信頼関係を築く「戦争放棄」なのです。

by kanakin_kimi | 2012-07-02 11:29 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

ときはいま たみがしたなる ふづきかな 4

世界は「民」が「主人公」となり「民」のための「民」による「直接政治」を実現する時がきた

間接民主主義が成立して久しく、その統治を三権分立と政党政治の議会制民主主義による代議制統治支配の構造を進めてきた。しかし、それは「資本の論理」とそれを擁護し優先する「特権階級」による代議制支配であった。それが、如何に民の生活・精神・文化を貶めているかが明確になってきた。それが、福島原発によって明らかになり、大飯原発再稼働を強引に進めている姿勢に表した。
彼らは、「民」を優先せず、「外的権力の圧力」を優先した判断しかできないようだ。その事の結果や未来がどのようなものになるのかという現実の手本が、我々の目の前にある。
つくられたギリシャの歴史と、現実のギリシャのユーロ離脱の今、その真実がどこにあるかがわかる。わたしは、かねがね不思議に思っていたものだ。「古代ギリシャ文明」というものと「ギリシャ神話」と日本の「縄文時代の文明」との大きな隔たりである。この混乱を、学校の教える教科書には「混乱」そのものの増幅でしかなかった。なぜ、それほどの文明の歴史を持つギリシャが、その文明の遺跡や遺物を大英博物館にとられたままにしているのだ。何故ギリシャ自身で保管管理し、研究する事をしないのだ。実は、そこに「ギリシャという国の実情」を明らかにしているのだという事を認識させられた。大英帝国の「支配とたかりの構造」としての結果が「今日のギリシャ」にしていたのだ。日本は、そんな事を許しては行けない。世界政府のイルミナティの支配を許していては、ギリシャと同じ道へ転がり行く事になるのだ。「日本の民の声」を無視して「原発政策をー世界政府(イルミナティ)の言いなりになって」進めるんじゃない!!。

by kanakin_kimi | 2012-07-01 22:28 | 政党政治の終焉 | Comments(1)

責任が取れるのか 2

国会は、もはや国民が選んだ人々の「議員」で構成されているという姿ですらない。あれ程の惨事を呈した東日本大震災と福島原発の現状に対する責任ある対応を示すことすらできない政府。
その政府が、大飯原発の再起動を認めるのか。今ですら責任を取れない、とることすら既に認識の外にある。そういうものたちの認める権利がどこから生まれているのか。彼らは、日本の誰から選ばれているのか。
いよいよその「震源地」に踏み込んできた。
これが「無政府状態」というのだ。
責任の取れないことを、誰のために認可するのだ。
by kanakin_kimi | 2012-06-21 22:48 | 政党政治の終焉 | Comments(0)