カテゴリ:鍬形恵斎鎮魂( 8 )

鍬形恵斎鎮魂 5

田中義珍・赤羽義珍・赤羽三次郎・北尾政美・鍬形恵斎紹真・鍬形赤子紹意の人生を追っていく史料を見いだせないでいる。私の感覚と自身が発する「オーラ」だけに頼っている。「鎮魂 4」までで引っかかっているものがある。渥美國泰氏の「江戸の工夫者鍬形恵斎ー北斎に消された男」の183ページに、増補浮世絵類考などに記載されている文章として次のように紹介している[増]実子は赤子と呼ぶ[只誠本](一号紹意)[増]今猶越前候の藩中たり、門人に美丸というものありしが、故ありて政美の師重政が名跡を継がしむ。但画風大ひに異なりて、豊国が流なり、名を相続して反て絶ゆるにしかず。[無]おとれり
[増]「増補浮世絵類考」、[無]「無名翁随筆」。
というものですが、第一に、北尾重政の名跡を、門人の「美丸」に継がしむ ー というところについて「美丸」という人物はどういう人なのかという問題がある。東州斎写楽が登場したとき、豊国の門に「美丸」はいた。その画技は、17歳にして、東洲斎写楽を上回るのではないかとの評価がされていた。ところが、突然消息を絶ったというのである。この時期に、優秀な絵師の若者が何人か神隠しにあったように消息を絶っているとされている。一体どこへ行ったのか。わたしは、極秘に「鍬形恵斎のプロジェクト集団」に入れたのだと考えている。極秘といっても「公式上」という事なのだと思う。だから、このプロジェクトを解散するにあたって、北尾の名跡を継がせ、豊国の門へ返す意味を持っていたのであろう。第二に、実子は赤子と呼ぶ、号紹意 ー とのところは、鍬形恵斎は妻帯していたのかという疑問はある。そして、仮に実子だとして名は「鍬形赤子紹意」(くわがたせきしつぐおき)だったのか。赤子は「黒船」がきた時にも写生してきたものが残されている。だから、津山藩に確かに鍬形を継承したものがいた事は確かなようだ。
by kanakin_kimi | 2012-07-08 22:11 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(5)

鍬形恵斎鎮魂 4

真をつぐものー「紹真」

ノートルダム寺院を中之島にしている川の名前をまだ思い出さない。(思い出した、セーヌ川だ)橋を渡って、ルーブル美術館を右に見ながらその道をまっすぐに行くとオペラ座の方に行ける。大関さんから教えられたバスに乗るためには、オペラ座の横に来るバスのターミナルに行かなければならない。一人でいった予行演習で覚えていてよかった。そのバスは、ノボテルホテルのあるパリ(シャルル・ドゴール)空港に一直線だ。
それをグーグルアースで見るとさらにおさらいができた。便利になったもんだ。地球規模で鳥瞰できる今日この頃である。
そういえば、「江戸一目図」というのを鍬形恵斎が描いている。「鳥瞰図」にあたるものは昔から描かれている。中国の山水画・水墨画というのは全てそういう手法をとっているから「鳥瞰」した図は古くから描かれていた。しかし、それらは、山水画といわれるところに明確に示されているように「風景画」であり、主人公としての対象が山であり、川・河であり、湖・海・樹木・滝であった。
それは、風景の「切り取り図」「切り絵」であった。
それは必要によっては、「見取り図」でもあった。遠近や大小にはあまりこだわらなかった。
そこに、遠近法を取り入れた「江戸一目図」が表れた。「清明上河図」が先に描かれていたのかもしれないが、日本では「江戸一目図」が初めてではないかと思われる。遠近法を取り入れた事の意味は何だったのか。「人の目線」に忠実にかかれているという事ではないかと思われる。遠くにあるものは小さく見え、近くにあるものは大きく見える。高いものはより上の方に描かれ、低いものはより下に描かれる。そして何よりも、平面的でなく立体的になっている。二次元の平面である「紙」に。三次元の立体である眼前の実態風景を閉じ込めるために「遠近法と立体描法」が工夫され、「紙」の限られた大きさの中に収まるように描いたのである。カメラが風景を広角レンズで写し込んだように。
北斎は、つねに恵斎を追っていた。たどりついたら、その先にいる恵斎を悔しく見つめ、恵斎を追い越したくて仕方がない。どこまでも、努力精進・孤軍奮闘・固守空拳の人である。恵斎は、スポンサーを使い情報を使い・組織を使い・育てる事のできる人である。しかも名誉欲・金欲はない、少なくとも拘った形跡はない。津山に鍬形赤子紹意(つぐおき)をおき、師匠の北尾重政の名跡に門人の美丸を継がせた、と渥美國泰氏の本にはかかれている。文政7年(1824)61歳で亡くなっている。
鎮魂の最後に、赤羽三二郎の思いをどの絵に「描込めた」のか、それは何かを今後の課題とさせていただく事にする。上・中・下巻の絵を描くのにそれぞれに一年ほどかけているようで、詞もまた絵を受けてから書いており、全体で3年余をかけているそうだ。ダ・ビンチの鏡文字や隠し絵があるように、これにも一目ではわからないように「かくしえ・かくし詞」があるかもしれないとの感じがある。実子という「鍬形赤子紹意」の名にも「赤羽の人」という意味と「山部赤人」が掛けられ、「紹意」にも「意次」を反転した思いを私は読み取るのである。「あまりに真を描かんとして・・・」を地でいきてきた「真をつぐもの」の思いに乾杯する。

by kanakin_kimi | 2012-06-29 12:04 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(3)

鍬形恵斎鎮魂 3

孫の由稀が行く塾の海外研修旅行への由稀のコンセプトはスイーツだった。彼方此方(あっちこっち)のお菓子屋さんに引きずり回された。足りなくなると、私からコインをもぎ取っていった。ルーブルを後ろに橋を渡り、左に折れて川沿いに歩いていく。私にはどこへ行くのかわからない。川向こうの左に高い建物が見える。あれはたぶんノートルダム寺院だ。迷わないように、目印にメモしておこう。この川は、名前を今思い出せない。この川の中之島にノートルダム寺院はある。ルーブル美術館の川向こうにオルセー美術館がある。歩いている時には気づかなかったが、それを後ろにして歩いていた。川沿いに露天商が店を開いていた。本屋さんもある。しばらく歩いて、右に折れた。由稀が行くところへ私はついていくだけだ。迷った時だけ私の出番だ。どういう判断をしたのかわからないが、小さなスーパーに入った。そこでお菓子と、チーズを買った。質素倹約の君さんの教えが浸透している。もうおしまいという事で帰り道を考える。目印のノートルダム寺院の見えるところに出て、ルーブル美術館を目指す。ルーブル美術館とピラミッドが私のコンセプトである。何故ルーブルを拡張した時にピラミッドを造ったのか、という問題はこの次に書く。ルーブル美術館といえば「モナリザ」である。レオナルド・ダ・ビンチの絵画技術と「江戸職人尽絵詞」の鍬形恵斎の絵画技術を対比して見るのが「私のコンセプト」なのだ。できるだけ観覧者の少ない時間帯を選ばなければ、「モナリザ」には近づけない。対比するといっても、目の前に二つを並べてみる事もできない。そうすると、私の能力でできるかどうかわからないが、「モナリザ」が発するオーラとコピーだけれど「江戸職人尽絵詞」を持っていき、その絵のオーラに期待してそれをシンクロさせて対比するしかないと考えたのだ。それは、もっぱら私のオーラによって引き出しシンクロさせる事になるのだ。だから、できるだけ静かな時が必要なのだ。ひとにはあまりいえない。信じてもらえない事ははっきりしているからだ。説明するのも厄介だし、じゃま臭い。だからいわないでいる。今回の事情では、さらに時間がなかったからその瞬間のシンクロにかけた。簡単にいえば、私の頭の中に切り取った瞬間のオーラの記憶を比較するという事になったのである。小さな手応えはあった。「負けていない」。それで十分だ。
もうひとつ、帰ってきてから比較している対象がある。これは、コピーの間に挟んでいるコピーの一枚だ。「清明上河図」である。あれ程の大作・緻密さ・うまさと比較できるのかと思っていた。私のオーラでシンクロさせ比較した。「負けていない」。恵斎の絵の方が動いている。近くまで行けるのだ。「清明上河図」の方はずいぶん上の方からしか見る事ができず、近づけない。これは何だろうか、この作者が近づけようとしないのだ。「負けていない」それで十分だ。
by kanakin_kimi | 2012-06-28 11:49 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

鍬形恵斎鎮魂 2

恵斎に対する評価は、まだ十分になされていない。というよりも、何かネックとなるようなものがあり、それが多方面に影響をもたらすという問題が内包されているように感じられる。そこで、タブーが生まれているのではないだろうか。しかも、それがどんどん積み重ねられているように思われるのである。おそらく、このタブーを乗り越えるための真相解明は美術界に籍を置くものからは行い得ない代物のようである。益田孝が自分の見識にこだわっていたらあんな「佐竹本三十六歌仙絵巻の切断によって流転させる」事はなかったはずだ。もしあれにも裏話があるとすれば、「本物は田中親美に写しを創らせながら修復もさせていて、切断したのは田中親美の写し本であったのか。そういえば、誤字・脱字をわざと容れたのは、ひょっとして長明効果か。」なるほど、そういう事だ。
そうだとすれば、私が真相を解明するのはちょうどいいところなのだろう。
たとえば、こういう事もある。恵斎は「多作」である。ちょうど、東洲斎写楽が10ヶ月の間に150枚に及ぶ絵を描いているのと似ている。そして、写楽絵は4期のうちせいぜい2期の一定の部分までが写楽本人の書いたもので2期以降4期までは工房の弟子たちに描かせているものだと考えている。
それとおなじで、恵斎の多作は同じ工房で創られているのだと考えている。北尾重政の工房でも「挿絵」の多作は凄まじいものであるから、それを考えれば「そうだったんだ」と氷解するはずである。
恵斎の父の姓が「田中」で、母の姓が「赤羽」で、祖母の姓が「鍬形」とくればもう「忍び」「お庭番」というルーツを感じさせる。十返捨一九(駿府)・恋川春町(小島藩)など駿河の国出身の人は意外と多い。恵斎をお抱えにした津山松平も白河松平の次男のつながりだそうだ。徳川吉宗の孫だった松平定信が白河へ入り「白河候」といわれていた。その松平定信は、田沼意次ほどのスケールはないけれど、ひとかどの文化人であったようだ。右手で弾圧しては、左手で文化事業に活用していたのだ。「集古十種」と「全国的な地誌の作成」を手がけたのだろう。谷文晁を中心にした狩野派の絵師たちを動員した事があげられるが、その文化事業について書かれたものがあるのかどうか知らない。そういう意味では、書かれた作品からの「逆行的構成」の作業を試みているのだ。そして、「近世(江戸)職人尽絵詞」の絵を鍬形恵斎に描かせたのが松平定信である。しかも、そこに書かれている詞は、上巻 四方赤良(大田南畝・蜀山人・太田七左衛門)、中巻 手柄岡持(朋誠堂喜三二・平沢平角)、下巻 山東京伝(北尾政演・京屋伝蔵)でいづれも寛政の改革でお咎めを受けている(とされている)。朝倉治彦氏は、「定信は何故この三人を使ったのであろうか」とのべている。右手で弾圧しては、左手で文化事業に活用していたのだ。それにしても、恋川春町の自殺説につながる「鸚鵡返文武二道」の挿絵を描いた北尾政美には何故おとがめはなかったのか。何故寛政6年に津山松平にお抱え絵師となったのか。その年に東洲斎写楽が突然現れそして、10ヶ月で姿を消すのである。
集古十種(しゅうこじゅっしゅ)は、ウィキペディアによると、次のように記載されている。
江戸時代に刊行された古美術の木版図録集。その編纂は松平定信を中心に柴野栗山・広瀬蒙斎・屋代弘賢・鵜飼貴重らの学者や家臣・谷文晁をはじめとする絵師によって4年の歳月を掛けて行われた。広瀬蒙斎の序に1800年(寛政12年)とありこの年第一次の刊行がなされたと考えられる。その後も増補されて最終的に全85冊となった。1859点の文物を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房、印璽、扁額、肖像、書画の10種類に分類され、その寸法、所在地、特徴などを記し、文晁等の模写図を添えたもの。
編纂に加わった画人は文晁の他、喜多武清・大野文泉(巨野泉祐)・僧白雲・住吉広行などがいる。彼らは奥州から九州まで全国各地の寺社に赴き、現地で書画や古器物を写しとった。現地調査以外に直接取り寄せることや模本や写本を利用することもしている。(以上)
ここでは鍬形恵斎の名前は出てこない。しかし、さまざまな「略画式」を書かせたのも、定信であろう。何のために略画式を描く事になったのかという事について書かれたものを見ない。「略画式」が必要な事情とは何だろうか。
わたしは、静岡県藤枝古文書会に入会させていただいて間もなくのことだが、「駿国雑誌」「駿河志料」「駿河国新風土記」「駿河記」などの多くの「地誌」が江戸末期に集中して版行されている事を知った。とりわけて、「駿河記」は島田宿の人で、駿河十三宿の元締といわれていた「桑原藤泰(黙斎)」が多難な事情を乗り越えて単独で踏破して取りまとめたものである。しかも「真景図」を書き加えているのである。このように、駿河の国だけでもこれほどの量の地誌が版行されたのであるから三百藩に及ぶそれぞれの地域で「地誌」の版行活動が行われていたであろう事は容易に判断できる。地誌の版行には真景図は欠かせなかったはずである。各地では、一般の村政をとるもの経済的に豊かな商家などでも水墨画や書・画に教養手習いのひとつとして手がけられていた。だから、絵を描く手本となるものの需要は多くあったものと思われる。その需要に応えて、「絵手本」が求められる環境があったという事だろう。そこで、「人物略画式」「鳥獣略画式」「山水略画式」「魚介(譜)略画式」「草花略画式」などが版行された。それがことのほか人気をはくしたので、それを多くの版元で版行させ、各地では地誌作りを進めてその中の真景図や金石文模写の作成テキストとして奨励したのだろう。藤枝宿の奥州屋大塚荷渓の絵を見るとそのテキストが使われたのではと思われる節を感じる。そのように考えると、「北斎嫌いの、恵斎好き」はともかくとして、「北斎に消された男」というのはいかがなものかと思ってしまう。北斎の民間人としての孤軍奮闘の成果という評価と、お抱え絵師としての庇護された中で大きな仕事の一部だけれどその中心的役割を果たし、当時の文化人との交流をしているサロンからは生活臭を感じる事はできない。これは、件のタブーが狭隘なものに貶めているからだと思う。たとえば、恵斎が美人画を鳥文斉栄之に師事していること、花鳥画・山水画を狩野惟信に師事していること、狩野派の絵師もアルバイトをしているだろうし、美人画や春画も求められる事もあろうし、絵師自身も描きたいだろう。それに、格式の高いところからは北斎や歌麿よりも品のいい春画が求められて「鳥橋斎栄里の美人画や春画」が生まれたようにも思う。狩野では描けなくとも別の名では描いていたひともいるのではないだろうかと思うのである。多彩で、多才な恵斎に「タブー」はもう解消してやるべきだ。それでなければ「鎮魂」にならないだろう。
ついでにいえば、民間人で孤軍奮闘している「北斎」の「名前の変遷」とか「癖」とかは簡単に「模倣癖とか偉そうに上からの目線で狭隘化して貶めるのでなく」、常に新しい画風を求め追求している表れの側面なのだと考えるべきだと思う。だから、それに反発して「北斎」に判官贔屓があつまり、結果的に「恵斎」が敬遠されるはめに陥るのだ。それは、また「お抱え絵師」にもいえる事であり「名前の変遷」は、「狩野派の名前を使えない時には鳥文斉や鳥橋斎・北尾姓や鍬形姓・果ては赤羽姓まで繰り出すのだ」という事態で、今でも姑息に「鳥橋斎栄里」の由来がわからなかったものを、「作るひとが出てくる」有様なのだ。こんなことしていると、本物がどんどん失われていくのではないのか。と心配する。
by kanakin_kimi | 2012-06-25 11:11 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

鍬形恵斎の鎮魂 1

以前、北斎や歌麿の気持ちを慮(おもんばか)り「恵斎・政美・栄里」の技量にあおられての顛末(てんまつ)が良きにつけ悪しきにつけ影響を被ってしまったお二人の鎮魂をと、書いた事がある。
そろそろ津山美術館に行かなければとの思いもあり、駿河の国興津宿から出た、田中義珍の消息を追ってきた今までの整理をしながら、少し書いておこう。江戸の工夫者鍬形恵斎ー北斎に消された男ー渥美國泰著をみると、177ページに、鍬形恵斎は「前後まことに別人の如し」と−はじまっている。6行目からー赤羽三二郎(三次郎)明和元年(1764)畳屋の倅として江戸竈川岸に生まれた。父は駿州興津の人で田中義珍と言い、のちに下野国那須野猿子村の農業赤羽源左衛門の養子となって赤羽姓となり、やがて江戸へ出て畳職を生業とした人である。ー だから、そこでうまれた「赤羽三二郎」が、15歳頃北尾重政に入門し、17歳で黄表紙の挿絵書きでデビュウして北尾政美となり、その才能を発揮した。寛政6年に津山松平のお抱え絵師になって、「鍬形恵斎紹真」と改めたというのだが、その「鍬形姓」は母方だという記載があったという記憶がある。お父さんが赤羽家に養子縁組しているのだから、母方の姓は「赤羽」ではないのかと不審に思ったものである。それはまた別の伏線に入りそうだからこれで終わる。思い出した、「鍬形」姓は祖母方だった、訂正する。ただ、父方の祖母なのか、母方の祖母なのかはわからない。
興津宿で「田中義珍」の消息を調べてもなかなか要領を得ない。聞き込みでは、「田中町」という一角が清見寺の東北方面「JRの興津駅近辺」にあったという事を聞き、調べにいったがわからない。戦前戦後の一時期には興津町の町役をしている人の中に田中姓の人が何人かいる。また、国道一号線の北側にその田中町というか田中家の一群があったので、そこから別家の田中家が国道の南にできた事から本家の田中家と別家の田中家という分け方が自然と行われて本家の田中家を「本田中」というようになったという事を聞き及んだ。しかし、それ以上は進展していない。この界隈は奥の深い事情をかいま見せてくれる地域であるように思っている。
by kanakin_kimi | 2012-06-23 15:53 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

佐竹本 三十六歌仙絵巻切断の謎を解く 1

謎が解かれた。というか、このままではいかんな、と思ったのです。それで、何が謎かということをまず言っておかなければなりません。わたしが「謎」と思ったのは、「あれほど文化財を大切に考えていた益田孝が切断して持ち合いするか」ということから出発しています。「切断してまで持ち合いする意味は何だ」ということなんです。益田孝なら、「みんなで金を出し合ってまで①、分散することをさけて保護したわけですから②、写しを作らせながら③、何故原本を切断する必要があるのか④」ということですね。まあ、ついでですから私の結論みたいなものを先に行っておきたいと思います。
「絵巻」は保存にどれほど気をつけていても「老化」に逆らうことができませんから、どこかの時点で「写し」を作ります。「原本」は、虫食いができたり、戦乱で焼けが生じたり、いろいろの保管上のハードルがあるわけです。ですから「写し」を作る段階で既に原本の原文が判読できない部分ができていたりするのです。「誤字・脱字」などがある場合はそれに該当するのではないでしょうか。ですから、「佐竹本三十六歌仙絵巻」として伝えられてきたもの自体がすでに「写し」ではないのか。「原本」である証明や紙質の年代特定など、今の沢口さんの「科捜研」なら簡単にやってくれそうだ。しかも、「写し」は一回ならず、近世に入っても行われていた可能性もあるだろう。その辺はどうなのか。絵師の名手の出現とスポンサーの出現と云う機会がなければできないだろう。
ということで、「切断・分割所有」ということによって、むしろ「その辺をうやむやにしたい」ということだったのではないのか。
この、自分で設定した「謎」を解こうということです。

まず、事実関係については、ウィキペディアに記載されているものを転記引用させてもらいました。

( 佐竹本・三十六歌仙絵巻 )

佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)は、鎌倉時代・13世紀に制作された絵巻物。鎌倉時代の肖像画、歌仙絵を代表する作品である。元は上下2巻の巻物で、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていたが、1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められた。
( 目次 )
 1 概要  2 技法・寸法  3 画風・作者・年代  4 伝来  5 絵巻の分割と所有者
 の変転  6 佐竹本三十六歌仙絵巻断簡の一覧  7 参考文献  8 脚注  9 関連項目

1( 概要 )
藤原公任(966 – 1041)は11世紀初め頃に私撰集「三十六人撰」を撰した。これは、『万葉集』の時代から、平安時代中期までの歌人36名の秀歌を集めて歌合形式としたもので、これら36名を後に「三十六歌仙」と称するようになった。本絵巻はこの三十六歌仙の肖像画にその代表歌と略歴を添え、巻物形式としたものである。上巻・下巻ともに18名の歌人を収録する。下巻巻頭には和歌の神とされる住吉明神(住吉大社)の景観が描かれた図があり、上巻巻頭にも、現在は失われているが、玉津姫明神または下鴨神社の景観図があったものと推定されている。

2( 技法・寸法 )
紙本著色。元は巻子装で上下2巻からなっていたが、上述のように1919年、上巻は18枚、下巻は19枚に分割され、計37幅の掛幅装に改装されている[1]。
寸法は縦が約36センチメートル、横は各幅によって差があり一定しないが、60 - 80センチメートル前後である。

3( 画風・作者・年代 )

各画面は、まず歌仙の位署(氏名と官位)を記した後、略歴を数行にわたって記し、代表歌1首を2行書きにする。それに続いて紙面の左方に歌仙の肖像を描く。上巻・下巻の構成はそれぞれ次のとおりである。
(上巻) - 人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
(下巻) - (住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務

古来、絵の筆者は藤原信実(1176 - 1265)、文字の筆者は後京極良経(1169 - 1206)と伝承するが、確証はない。絵の筆者は数人の手に分かれており、信実筆の可能性が高い後鳥羽天皇像(水無瀬神宮蔵、国宝)よりは様式的に時代が下るものと思われる。また、文字は13世紀前半の作である承久本『北野天神縁起絵巻』(国宝)の第3巻1・2段の詞書の書風に近いことが指摘されている。
以上の画風・書風の検討、また男性歌人像の装束の胸部や両袖部の張りの強さを強調した描き方などから、佐竹本の制作年代は鎌倉時代中期、13世紀と推定されている。
なお、佐竹本の位署・略歴等の文字には誤字脱字の多いことが指摘されている。[2]
描かれている歌人たちは、『万葉集』の時代から、下っても10世紀頃までの人物であり、当然ながら、現実のモデルを前に制作された肖像ではなく理想化された肖像である。画面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則であるが、中で身分の高い斎宮女御徽子のみは繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて、格の高さを表している。36名の歌人の男女別内訳は女性5名、男性31名である。女性歌人は上記の斎宮女御のほか、小大君、小野小町、中務、伊勢で、小大君、小野小町、中務は唐衣に裳の正装であるが、伊勢は唐衣を略す。女性歌人のうち、斎宮女御は慎み深く袖で顔を隠している。また、絶世の美女とされた小野小町は顔貌が見えないように後向きに描かれ、容姿については鑑賞者の想像にゆだねる形となっている。
男性歌人像は束帯姿18、直衣(のうし)姿7、狩衣(かりぎぬ)姿2、褐衣(かちえ)姿2、僧侶2となっている[3]。
男性像では藤原興風、藤原朝忠は後向きの体勢で描かれ、藤原仲文は脚を立膝とするなど、単調になりがちな画面に変化をつけている。なお、凡河内躬恒の図は当初のものが失われ、江戸時代・狩野探幽筆のものに代わっている。紀貫之の文字の部分も後補である。
三十六歌仙は、近世に至るまで画帖、額絵などさまざまな形で絵画化され、遺品も多いが、佐竹本三十六歌仙絵巻は、上畳本三十六歌仙絵巻と並んで三十六歌仙図のうちでも最古の遺品であり、鎌倉時代の大和絵系肖像画を代表する作品と評されている。

4( 伝来 )
旧秋田藩主・佐竹侯爵家に伝来したことから「佐竹本」と呼ばれる。大坂在住の文人・木村蒹葭堂(1736 - 1802年)の『蒹葭堂雑録』によると、元は下鴨神社に伝来したものである。

5( 絵巻の分割と所有者の変転 )
この絵巻は前述のとおり、佐竹侯爵家に伝来したものである。1917年(大正6年)、東京両国の東京美術倶楽部で佐竹家の所蔵品の売立てが行われ、三十六歌仙絵巻は東京と関西の古美術業者9店が合同で35万円3千円で落札した。単純には比較できないが、当時の1万円は21世紀初頭現在の約1億円に相当するとされる。あまりの高額のため、業者1社では落札できなかったものである。同年、この絵巻を購入したのは実業家の山本唯三郎(1873 - 1927年)であった。山本は松昌洋行という貿易商社を起こし、中国で材木の輸出、石炭の輸入などの事業を行い、後に海運業で財を成した人物である。朝鮮半島へ虎狩りに行ったことから「虎大尽」の異名を取り、数々の武勇談や奇行に満ちた人物であった。
第一次大戦の終戦による経済状況の悪化に伴い、山本は早くも1919年にはこの絵巻を手放さざるをえなくなった。ところが、時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はどこにもいなかった。
この絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛らの古美術商は、当時、茶人・美術品コレクターとして高名だった、実業家益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行った。大コレクターとして知られた益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできず、彼の決断で、絵巻は歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなった。益田は実業家で茶人の高橋義雄(号:箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号:幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役として、三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとした。
抽選会は1919年12月20日、東京の御殿山(現・品川区北品川)にあった益田の自邸で行われた。この抽選会が行われた建物は「応挙館」と呼ばれ、後に東京国立博物館の構内に移築されて現存している。抽選会には益田自身も参加し、また、旧所蔵者の山本唯三郎にも1枚が譲渡されることになった。益田は、三十六歌仙の中でも最も人気が高く、最高値の4万円が付けられていた「斎宮女御」の入手をねらっていた。通説では、くじ引きの結果、益田にはもっとも人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまった。それで、「斎宮女御」のくじを引き当てた人物が「自分の引き当てた絵と交換しましょう」と益田に提案し、益田は「斎宮女御」を入手して満足そうであったという。もっとも、翌12月21日付け「東京朝日新聞」でこの絵巻売却の件が報道されたのを見ると、益田が最初に引き当てたのは僧侶像ではなく「源順像」だったことになっており、細かい点についての真相は不明である。
これら37分割された歌仙像は、その後も社会経済状況の変化、第二次大戦終了後の社会の混乱等により、次々と所有者が変わり、公立・私立の博物館・美術館の所蔵となっているものも多い。1984年11月3日、NHKテレビで、三十六歌仙絵巻の分割とその後の流転をテーマにしたドキュメンタリー番組「絵巻切断」が放送され、関連書籍が発行されたことにより、この件はさらなる注目を集めることとなった。1986年には当時、東京・赤坂にあったサントリー美術館で「開館25周年記念展 三十六歌仙絵」が開催され、佐竹本三十六歌仙絵37点のうち、20点が出品された[4]。

6( 佐竹本三十六歌仙絵巻断簡の一覧 )
1919年当時の所有者については、参考文献に挙げた『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』による。

--歌仙名 と 1919年当時所有者/現所蔵先/文化財指定など備考--
柿本人麿 森川勘一郎出光美術館重要文化財
凡河内躬恒 横井庄太郎(古美術商)個人蔵未指定江戸時代の補作(狩野探幽筆)
大伴家持 岩原謙三(芝浦製作所社長)個人蔵重要文化財
在原業平 馬越恭平(大日本麦酒社長)湯木美術館重要文化財・重文指定は2000年
素性法師 野崎廣太(中外商業新報社長)個人蔵重要文化財
猿丸太夫 船橋理三郎(株屋)個人蔵未指定
藤原兼輔 染谷寛治(鐘淵紡績重役)個人蔵重要文化財
藤原敦忠 團琢磨(三井合名会社理事長)個人蔵重要文化財
源 公忠 藤田彦三郎(藤田組)相国寺承天閣美術館重要文化財
斎宮女御 益田孝(三井物産社長)個人蔵重要美術品
源 宗于 山本唯三郎(松昌洋行社長)個人蔵重要文化財
藤原敏行 関戸守彦個人蔵重要文化財
藤原清正 藤田徳次郎(藤田組)個人蔵未指定
藤原興風 大辻久一郎個人蔵重要文化財
坂上是則 益田英作(益田孝の弟)個人蔵重要文化財
小 大君 原富太郎(生糸貿易商)大和文華館重要文化財
大中臣能宣 高橋彦次郎(相場師)サンリツ服部美術館重要文化財
平 兼盛 土橋嘉兵衛(古美術商)MOA美術館重要文化財
住吉明神 津田信太郎東京国立博物館重要文化財
紀 貫之 服部七兵衛(古美術商)耕三寺博物館重要文化財・詞の部分は後補
伊 勢 有賀長文(三井合名理事)個人蔵重要文化財
山部赤人 藤原銀次郎(王子製紙社長)個人蔵未指定
僧正遍照 小倉常吉(小倉石油社長)出光美術館重要文化財
紀 友則 野村徳七(野村財閥創始者)野村美術館重要文化財
小野小町 石井定七(相場師)個人蔵重要文化財
藤原朝忠 小林寿一個人蔵重要文化財
藤原高光 児島嘉助(古美術商)逸翁美術館重要文化財
壬生忠岑 西川荘三東京国立博物館重要文化財
大中臣頼基 益田信世(益田孝の子)遠山記念館重要文化財
源 重之 嶋徳蔵(大阪株式取引所理事長)個人蔵重要文化財
源 信明 住友吉左衛門(15代)(住友銀行創設者)泉屋博古館重要文化財
源 順高 橋義雄(三越呉服店理事)サントリー美術館重要文化財
清原元輔 高松定一(3代)(名古屋商工会議所会頭)五島美術館重要文化財
藤原元真 嘉納治兵衛(7代目)(白鶴醸造)文化庁重要文化財
藤原仲文 鈴木馬左也(住友総理事)北村美術館重要文化財
壬生忠見 塚本與三次個人蔵重要文化財
中 務 山田徳次郎法人蔵重要文化財

7( 参考文献 )
馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984
サントリー美術館『開館25周年記念展 三十六歌仙絵 佐竹本を中心に』(特別展図録)、サントリー美術館、1986
伊藤敏子「佐竹本三十六歌仙絵巻の成立をめぐって」、『秘宝三十六歌仙の流転絵巻切断』、日本放送出版協会、1984所収
真保亨「三十六歌仙絵の展開」、『開館25周年記念展 三十六歌仙絵 佐竹本を中心に』(特別展図録)、サントリー美術館、1986所収
『鈍翁の眼 益田鈍翁の美の世界』(特別展図録)、五島美術館、1998

8( 脚注 )
◎1919年に「切断」されたとする資料が多いが、刃物等で「切断」したのではなく、つないで
 あった料 紙の継ぎ目をはがしたものである。
◎伊藤敏子、1984
◎真保亨、1986
◎同展覧会の図録によると、次の20点が出品された。人麿、業平、素性、公忠、宗于、敏行、兼
 盛、住吉 明神、貫之、伊勢、遍照、小町、朝忠、高光、頼基、重之、信明、元輔、元真、仲文。

9(省略します)
by kanakin_kimi | 2012-05-29 18:27 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

「二人の剽窃」と「栄之と歌麿・北斎の鎮魂」

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「葛飾北斎」と云ってもこの時は「勝川春朗」であるが、その春朗が「勝川派」を破門されるという事件がある。

その原因についていろいろ云われているが、最大の問題は「勝川派」の画風に見切りを付けたのか、他流派の画風を学んでいる事をとがめられていた事が云われている。
寛政五年末に勝川派を破門され、俵屋宗里の名で出すのが寛政七年と云われている。ちょうどこの間に「東州斎写楽」が出現しているのである。この事が、北斎と写楽が同一人物ではないかとの混乱を与えている。
しかし、わたしの中では北斎が写楽ではない事がはっきりとした今、春朗が勝川派をやめることになる原因は別にあると確信している。

それが東洲斎写楽の絵の出現と関係しているのではないかと思う。

勝川派の画風を踏襲している春朗もまた役者絵を描いていた。
寛政五年の中頃以降寛政六年の四月末までの間に北尾政美の描いた役者絵を見たのであろう。
春朗はその出来映えに驚愕して、ショックを受け、以来役者絵から撤退することになったのではないかと考えている。
そして、それ以来結果的に、北斎の作品のオリジナリティの前に常に政美がおり慧斎がいたことになったのであろう。
また、もう一人の剽窃の人は喜多川歌麿である。
それは、蔦屋重三郎に見出され、重三郎とともに蔦屋を発展させてきたという自負をもっている歌麿が蔦屋をやめることになった事件である。
「松葉楼装ひ 実を通す風情」の大判錦絵黒雲母刷りの豪華版がこの事件の発生を証明していると思うのである。
この作品についての謎を追求していく事でそれが明らかになるのではないかと考えている。
 今の段階で云える事は、これほどすばらしい作品であるのに、歌麿の代表的作品の中に何故これが含まれていないのかという事である。わたしが見る限り、歌麿の作品の中でも群を抜く程の出来映えだと思うのである。
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これはどういう事か、歌麿筆 となっている作品「松葉楼装ひ 実を通す風情」はわたしの見立てでは、これが「歌麿」の作品であれば、間違いなく『歌麿』の最高傑作と言っても過言ではない。
ところが専門家の評価は必ずしも同じではない。
もしも「最高傑作」との評価がされているならば「浮世絵大系 6 歌麿/栄之」(監修菊地貞夫、昭和50年11月30日集英社刊)「名宝日本の美術22  歌麿」(執筆狩野博幸、監修太田博太郎・山根有三・米沢嘉圃、昭和56年3月20日小学館第一刷)には掲載されていないはずがない。また、「太陽浮世絵シリーズ 歌麿」(監修渋井清一九七五年一月二十五日初版第一刷平凡社発行)にも掲載されていない。そしてまた、「浮世絵名品撰 歌麿」(福田和彦編著 KK ベストセラーズ発行)にも掲載されていなかった。さらに、「原色日本の美術17 浮世絵」(菊地貞夫 編著小学館発行)にも、歌麿の作品が掲載されているのにこの作品は取り上げられていない。
結局「写楽・歌麿・北斎・広重 四大浮世絵師展 中右コレクション」(監修中右瑛 神戸新聞社発行)に始めてみることができた。実のところは、この本からの逆行的構成を試みたのであるが。
「歌麿の代表作」なのであれば、これが採用されない筈がない。

ところが、これを「歌麿の代表作」として採用されないばかりか、この作品そのものをも採用されていない。
これは一体どういう事なのであろうか。どうやら、「作品そのものの評価以外の問題が内在している」と言う事を示しているようである。
それは何かというと、「歌麿の作品ではないのではないか」と言う疑いをもっていたからではないだろうか。たしかに、「歌麿筆」のサインは書かれている。そうであるからが故に発生した問題が由来しているように思えてならない。わたしの推理では次のように考えている。
その問題と言うのは、浮世絵の美人画の大家であると評されていた「鳥文斎栄之」と「喜多川歌麿」の間に生じた問題で、一説では「歌麿が栄之の作品を揶揄し中傷した」という事を発端にして、栄之の弟子である『鳥橋斎栄里』が自分の作品を歌麿の作品の中に紛れ込ませていた。歌麿がそれと知らずに「歌麿筆」のサインをしてしまって、後になってそれと気づいた時のショックが『蔦屋』にいられなくなってしまった原因になったのではないだろうか。
その『因縁』の絵が、「松葉楼装ひ 実を通す風情」だったのではないかと思うのである。そして、それを描いた「鳥橋斎栄里」は鍬形慧斎であり北尾正美であるとわたしは考えている。
by kanakin_kimi | 2010-09-20 18:44 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(1)

鍬形蕙斎の工房 1

寛政6年、いわゆる,「写楽」が舞台に上がる年である。10ヶ月で書かれた絵の枚数
の多さだけでなくて、それらの絵の内容にも一人でかかれたものとは思われない質
の違いを感じられるものがある。
このことは多くの方々の指摘にもあるようだ。
その理由は何だろうか、と。
一人ではなく複数の人々がかいていると考えると、北尾派の「工房」があり、ここで
作っていたのではないか、ということが閃いた。
しかし、そこにいたるためには、それ相応の人的なつながりや実績、有力なスポン
サーがなければならない。
赤羽三二郎が北尾派の創始者北尾重政に15歳で入門して北尾政美となり、黄表
紙などの挿絵という、絵を写し取るだけでなく、話の内容を切り取り表現するという
高度な能力を磨いていった。
三二郎の父は、駿河の国興津の田中某の縁籍で江戸に出て畳屋に養子入りした。
この興津宿は清見寺の寺町といっていい知る人ぞ知るという由緒ある地域である。
清見寺には天武天皇の位牌があり、近辺には「清見長者」のいわれが伝わるなか
なか謎を秘めたところがある。
寛政6年(1794)ちょうど写楽が出現した年に、美作の国津山藩(松平)のお抱え
絵師になり、寛政7年名を改め鍬形蕙斎となる。鍬形は母方の名だといわれる。
松平定信は寛政5年には老中を辞めているが、その後も寛政の改革は進んでいる。
by kanakin_kimi | 2010-02-22 20:42 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)