カテゴリ:シンドローム( 92 )

アインシュタイン・シンドロームを洗い出せ 1

戦争の終焉
 
 コリン・ウィルソンが「時間の発見」(THE BOOK OF TIME)65ページに次のように書いている。 [ アインシュタインの業績は、ニュートンのいう「全宇宙を通じて一定不変の、絶対的、標準的、客観的な時間」など無意味だという事を実際に証明した事であった。]
 とコリンウィルソンは云っているが、反対である。アインシュタインこそ「光速は一定不変で、絶対的で」あると云っており、その結果大きな間違いの渦に貶めてきた。
 しかし、アインシュタインはそれを誰がしているのかも承知していただろう。だから、舌を出した写真が堂に入っているのだろう。バックにいたのはロスチャイルドイルミナティだったろう。
 ニュートンの時代に、やっとリンゴの落下の不思議に着目したという「認識の獲得の時代考証」をすれば分かるはずではないか。ニュートンが語ったのは、「全宇宙を通じて一定不変の、絶対的、標準的、客観的な時間」は「物差し」だからなのである。あなたの机の引き出しにある30センチの物差しを取り出してみてください。そのものさしは、「全宇宙を通じて一定不変の、絶対的、標準的、客観的なものさし」ではありませんか。
by kanakin_kimi | 2014-01-16 17:25 | シンドローム | Comments(0)

土地所有シンドローム

戦争の終焉
 土地の所有が支配の拡大のメルクマールである事は古代から実践されてきた。しかし、それを理論に整理したのは二三百年ぐらい前ではないかと思う。一般的に知られるものは、マルクス・エンゲルスの著作によるものと私は認識している。一人当たりの人間が生活する上で必要最小限の土地専有面積はどれほどであろうか。生活環境にもよるであろうから一概にはいえないけれども、採集生活をしているものには土地所有の概念そのものが無い。だから、今日までの「世界支配のルーツに見る土地所有の拡大」は、極論すれば採集生活者が営む自然と一体になった環境を掠奪する形で進んできたのである。
 では、それが何故「所有権」として成立するのであろうか。暴力によって掠奪する事が正当化されてきた概念はいまだに「世界中に厳然と存在している。」他方では、土地所有の概念そのものが無い採集生活者は移動を繰り返してきた。日本列島に移動してきた「縄文人」の移動要因の一つにそれがあったように思われる。そして、海で隔てられた日本列島で「定住生活」が始まった。今までの経験を記録し伝える事の大切さを学んでいった。
 中国では、いまだに天動説である。何の根拠も無く、世界の中心であると思わせたくて仕方が無いようである。地球が太陽の周りを回っている事は認めるけれども、地球上の世界は中国の周りを回っている国々であると思っており、そのように思わせなければ気に入らないようだ。ところが、東インド会社やイエズス会には頭が上がらないようである。東インド会社やイエズス会は事実上「ロスチャイルド・イルミナティ」の支配下にあるのだけれど、どう考えてもこの構造の原因を理解できないのである。この調子だと、いずれまた国の破綻を免れないのではないだろうか。
 その事のケジメをつけさせておきたいと思っている。そうしなければ、中国国民・わたしは「中国市民」といっておきたい。中国市民は幸せになれないからである。人としての自立が、いつまでたっても支配構造の大衆の位置に置き換えられているからである。
 中国は、世界に先駆けて大航海をした国である。また、その持てる技術や文化は世界が見習ってきた歴史があるのである。それなのに自らそれを貶めるような懐の浅さを露呈してしまう原因は何だろうか。その自信の無さは何が原因になっているのであろうか。何故、日本の安倍総理が神社の参拝をした事に「アレルギー症状のように示すのか」これらは、「ロスチャイルド・イルミナティ」が行っている「戦争作りの謀略」から発している現象だといって過言ではない。
 おそらく、「ロスチャイルド・イルミナティ」による「借金コントロール」だろう。日本の指導者も同じように「日本人・イルミナティ」をつかってこんにちまで「借金・コントロール」をしてきたのだ。そんな借金は気にする事は無い、踏み倒せ。やつらは、それが支配の手づるでやってきたのだ。それに引きずられて大切な事を見失っているのが「日本人・イルミナティ」であり、「中国人・イルミナティ」なのだ。
それでなければ、「ロスチャイルド・イルミナティ」に今までの損害賠償請求を徹底的にやればよい。
おそらく、これからその損害賠償請求訴訟が、世界のあちこちから持ち上がる事になるだろう。中国市民も、東インド会社やイエズス会のやってきた事をしっかり整理して訴訟準備をこそするべきだろう。
いかに謀略をしてきたかという事は、今まで分裂させられてきた事で浮かび上がらなかっただけなのだ。仲間内で仲違いして本当の敵「ロスチャイルド・イルミナティ」にコントロールされてきたのだ。 もういい加減に、中国指導部は中国市民を大切にしろ。
by kanakin_kimi | 2013-12-31 11:16 | シンドローム | Comments(0)

ロスチャイルド・イルミナティシンドローム

戦争の終焉・各分野で起きている全てのシンドロームの原因はロスチャイルド・イルミナティとその配下となっていた全てのイルミナティによる混乱によるものである。そしてそれは利益追求を優先する経済主義に起因している。
 
by kanakin_kimi | 2013-12-23 23:08 | シンドローム | Comments(0)

権力力学シンドローム

戦争の終焉・2020年の東京医師会・池田イルミナティ・電通イルミナティ・東京都イルミナティの東京オリンピック乗っ取り作戦が動いている
同床異夢プロジェクト
 「判地紋」だ。東京に大量の土地を買い、軒並みに建てられたビルを買いあさっている輩がいる。東京オリンピックに向けてざわざわと動き出した。その一つが、猪瀬東京都知事引き下ろし作戦である。そのやりかたは、小沢おろしにそっくりだ。おそらく同床異夢プロジェクトだろう。その一角に東京医師会もいるようだ。東電病院を買おうとしている徳洲会に横やりをぶつけている。そして池田イルミナティは国土交通省の権力を握っている。在日孫イルミナティは東京の広大な土地を手当てした。サリン事件の前段状況を呈しているような事態を見抜け。警察権力の浄化を急げ、そうでないと安倍が急いで作り上げているものは諸刃の剣となるのだ。東京オリンピック乗っ取り作戦は動いている。
今何が乗っ取られているかが見えてくる
 NHKが乗っ取られ、自民党が乗っ取られ、民主党が乗っ取られ、大阪が乗っ取られ、と、こうみていくと、東京都が乗っ取られ、天皇制乗っ取りを策してきた者達が、東京オリンピックを乗っ取る事で、日本を乗っ取る気分に浸りたいのだろう。
 ほしいならあげるが、そこにはもう日本は無い。そういう事を知ることになるだろう。中韓イルミナティが日本イルミナティと連合し、池田イルミナティ・孫イルミナティ等の在日イルミナティを総動員している「ロスチャイルド・イルミナティ」の最後のあがきがそこに集約されるようだ。
その時、東京は大津波を防げるか、東京暴動が始まっているのではないのか
 西日本を支配下に置いたという考えにあるようだ。だから、東京乗っ取りに走り始めたのだろうか。どうです西日本の日本人の皆さん「支配されていますか」。失礼しました。でもそう考えると合点がいくのですから不思議ですね。
 藤原鎌足が天智をたらし込み利用して、藤原系天皇体制を作り上げた時代がめぐりめぐってあったのです。それが今日まで引きずっているのです。あれこれいっても、今頃になって乗っ取られたの、どおのといっているのも不思議なものです。何故でしょうね。
くりかえし支配したがる愚かしさ

 そして、また「くりかえし、くりかえし」何故こうも、日本の地にこだわるのであろうか。何故こうも自分のものにしたがるのであろうか。お互いに、認め合う事・相互に助け合う事が何故出来ないのか。何故に上からの目線が欲しいのであろうか。嘆かわしく・愚かしく思われる。
賢くなると、お互いに認め合うし、お互いに助け合う。そして、その関係を持続できるようにお互いにその関係を、どのような環境変化においても再生産する事につとめようとする。
by kanakin_kimi | 2013-12-19 09:31 | シンドローム | Comments(2)

エイリアン・シンドローム

57種類以上がいる
エイリアンは、人類の重層的進化の過程に生まれた地球人の大先輩の末えいだ
人類だけではないのかもしれないというという懸念はある。しかし、哺乳類、爬虫類、鳥類、魚類などのいずれもが人類的な進化の可能性があるとすればどれほどの時間が必要なのか、また、どのような条件が必要なのか私にはわからない。ですから、哺乳類の中でも人類に絞って推考してしまうのである。
考えるために得られた情報は、アポロ計画で得られた情報になる。これとて、どれほど正しいといえるのか解らないけれども、月面で発見されている巨大都市プラントと巨大UFOの年代として云われている一億五千万年前、という特定数字を目安にしている。
その技術が成立するまでにどれほど時間を要するものかということや、そこに横たえられている女性ミイラが同年代だとすれば、今日に見られるエイリアンの身体特徴に至る時間的経過と環境条件推移がいかなるものかをかんがえた。環境条件推移に関係した要因は放射能汚染しか考えられず、予想される医療技術やコンタクトした人の情報にあった細胞再生装置という医療機器を以てしても改善されなかった。それが、染色体異常なのであろう。それを改善する方法は、長期にわたる交配の積み重ねにきたいしているようであった。経験則という極めてみじかな方法しかなかったことが人類にかせられた課題なのだと考えさせられた。地球人は中でも重要な決定的役割を課せられている。
グレイ
http://youtu.be/kZgVl0viBfI
by kanakin_kimi | 2013-08-21 11:25 | シンドローム | Comments(0)

ホロコースト・シンドローム 2

第7地球人類史が示す
遭遇する事実が想像を絶するものであったり、あまりにも悲惨であったりすると、人は往々にして「そこで立ち往生する」「フリーズする」のである。そして、そこからさらに真実を掘り下げるという作業を止めてしまうのである。やる気を起こさせない作用をするのである。
それが「ホロコースト・シンドローム」である。


 わたしは何故「日独伊三国同盟」だったのかを考えていた。
日本・ドイツ・イタリアは何故同盟を結んだのかという事は別の項で整理するとして、現在の日本の置かれている状況があの同盟を結ぶに至る前段症状と類似しているのではないかと考えたからである。
 そして、どうもそれを誘導している節が見られるのである。その見えざる誘導者は誰かが問題である。山本五十六に真珠湾攻撃をやらせ、アメリカを参戦させ、ヤルタの会談を準備した見えざる誘導者。日本を帝国の一角に誘導し、ムッソリーニやスターリンを追い込み誘導できるものは誰か。その跡に、何が残ったか。誰が儲け、巨大になり、新しい国を設立したか。それらすべてをコーディネイトできるのは誰か。そいつが「ホロコースト・シンドローム」を作った犯人だという事である。
 そいつを絞り込めば「ロスチャイルド・イルミナティ」になったのだ。こんな事は、ロックフェラーには出来ないのだ。いや、今はロックフェラーも「ロスチャイルド・イルミナティ」の一員だろうがね。
by kanakin_kimi | 2013-08-16 16:33 | シンドローム | Comments(0)

ホロコースト・シンドローム 1

第7地球人類史が示す
表現するいずれもが、実態真実を切り取り、そこに主張を塗り籠めたものだ。だから、それそのものが「仮想真実」であって、「実態真実」ではないし、「実態真実」にはなり得ない。ただの「塗り籠めた主張が対立している」だけなのである。

8月15日
 もう、およしなさい。茶番劇のような事をして戦争で亡くなった人々が喜ぶか。
双方のこだわりは、どこにあるのか自問自答しなさい。もっと、深く学びなさい。

「この双方罵り合っている人々は、血のつながりの濃いひとびとだ。」
「この双方の見ているところは、おなじところだ。だから、裏で手をつなぐ。」
「この双方の云っている事は、単なる自己主張だけで平和を生み出すものはないのだ。」
「この双方は、仲良くしたいのか、仲悪くしたいのか。」
「この双方共に同じルーツを持つ人々で、外から日本列島に入ってきた人々同士だ。」
「この双方は、ともに日本列島を支配したい・支配したがりの人々だろう。そして、日本列島住民の代表のような顔をしているがそうではないし、韓国の代表のような顔をしているがそうではないのだ。」
「縄文人の心」「ものの哀れ」を知っている人びとではない。

「縄文人の心」「ものの哀れ」とは、わたしは次のように定義している。
「森羅万象の精霊を敬い、生きとし生けるもの・死にとし死ぬるもの八百万の神々を尊崇する、お互いの存在を認め合い・助け合う。」生き方のこころ、そして覚悟だ。

by kanakin_kimi | 2013-08-15 15:49 | シンドローム | Comments(0)

エイリアンシンドローム 完2

真のアメリカ独立とは

作業中
民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いでチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた[16]。
1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった[17]。
手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアのハリファックスの海軍基地まで移動した[18]。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。
カナダ[編集]
詳細は「カナダ侵攻作戦」を参照
ボストン方面で膠着状態に陥ってる間、大陸会議は戦争の主導権を掴もうと他方面で作戦行動を起こした。大陸会議は当初、フランス系カナダ人を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。
カナダに向け2つの遠征隊が派遣されたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリー准将率いる1,700名の民兵隊は1775年9月16日にタイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオールを落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。合流したモントゴメリー隊とアーノルド隊は12月31日にケベック市を攻撃する(ケベックの戦い)が、カールトンによって完璧に打ち負かされた。その後もアメリカ軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカ側よりも多くの兵力を擁し、戦線を堅守した。
アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返そうと試みたが、1776年6月8日のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは逆襲に転じ、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破る。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反攻を遅らせることができた。
このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論における支持基盤を失った。「だからアメリカに対する武力行使はこの国のあらゆる階層と職業の人々に快く受け入れられ支持されるのだ」[19]
ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイズンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。
ニューヨークとニュージャージー[編集]
詳細は「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」を参照
1776年7月4日、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。
イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のためにロングアイランドとマンハッタンの間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍がスタテン島に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。1776年8月27日、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで大陸軍を駆逐し、ブルックリン・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。
9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日にホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫が放って置かれたまま死んだ。


デラウェア川を渡るワシントン、エマヌエル・ロイツェ画
チャールズ・コーンウォリス将軍がワシントンを追ってニュージャージーまで進軍し、大陸軍は12月早くにデラウェア川を渡ってペンシルベニアまで後退した。このニューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会がありながらしくじってはいたが、5,000名以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。
大陸軍の前途は多難であった。大陸軍と共に撤退を繰り返していたトマス・ペインは「今が兵士の心を試す時だ」と書き記した。使える兵力は5,000名足らずになっていた。兵士は1年で就役期間が終わるので12月末がくれば、1,400名まで減ることになっていた。大陸会議は絶望のうちにフィラデルフィアを捨てた。ただしイギリス軍の占領に対する大衆の反抗は強くなっていた。
ワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、クリスマスの夜に密かにデラウェア川を渡って12月26日、トレントンの戦いで1,000名近いヘシアンを捕虜にした。コーンウォリスはトレントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、1777年1月3日のプリンストンの戦いでイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシントンはアメリカ側の士気を高めることができたので、その後、モリスタウンで冬の宿営に入った。ニュージャージーの民兵は冬の間もイギリス軍やヘシアンに嫌がらせを続け、イギリス軍はニューヨーク市周辺まで撤退することになった。
大陸会議とワシントンは、ボストン包囲戦のころから情報・諜報戦略を展開しており、占領されたニューヨークを中心とした情報収集、諜報活動では、地域の支援の少ないイギリス軍よりも優位に立っていた。トレントンの戦いの勝利は諜報活動が成果を収めた一例である。ヨーロッパ諸国との情報通信は早くから行われており、この情報優位は終戦まで続くことになった。
イギリス軍の戦略はいつの段階でも国王に対する忠誠を誓って結集してくる王党派の者達の支援を期待していた。1776年2月、ヘンリー・クリントン将軍は2,000名の兵士と海軍の船隊でノースカロライナに侵攻したが、王党派の部隊がムーアズ・クリーク橋の戦いで殲滅されたことを知って引き上げた。6月にクリントンは南部の主要港であるサウスカロライナのチャールストンを占領しようとしたが、この時も南部の王党派の決起を期待していた。これは戦争を遂行するには手軽な方法に見えたが、海軍は砦の攻撃に失敗し、王党派の者が町の背後から攻撃を仕掛けることも無かったので、作戦は失敗した。南部の王党派は組織力が弱く効果を表せなかった。1781年までロンドンの上級官僚は、南部から逃げてきた王党派の言葉を信じて、蜂起があるものと思っていた。
サラトガとフィラデルフィア[編集]
イギリス軍が1777年の作戦計画を練り始めた時に、北アメリカには2つの主力軍があった。カナダのカールトン軍とニューヨークのハウ軍であった。ロンドンでは、ジョージ・ジャーメインがこれらの軍隊の作戦を承認したが、連絡の不行き届きと指揮官のライバル意識のために連携がうまく行かなかった。ハウはフィラデルフィアの占領に成功したが、北部の軍隊はサラトガで降伏して失われてしまった。1777年の作戦行動の後、カールトンとハウの2人共に辞職した。
サラトガ方面作戦[編集]
詳細は「サラトガ方面作戦」を参照
1777年に最初に動いたのはジョン・バーゴイン将軍に率いられたカナダからの遠征隊であった。その目的はシャンプレーン湖とハドソン川の回廊を確保し、アメリカ植民地全体から見てニューイングランドを孤立させることであった。バーゴインの侵略は2方面から行われた。バーゴイン自身は約1万名の兵士を率いてシャンプレーン湖からオールバニに向かうものとし、もう1隊はバリー・セントリージャーに率いられる約2,000名の部隊でモホーク川渓谷を下り、オールバニでバーゴインと合流するというものだった。


モホーク族の指導者ジョセフ・ブラント。インディアンだけでなく白人王党派の部隊も率いた。この肖像画は宮廷画家ジョージ・ロムニーが1776年にロンドンで描いた
バーゴインは6月に進発し、7月初めにはタイコンデロガ砦を占領した。その後、アメリカ軍が木を切り倒して道を塞いだためにバーゴイン軍の歩みは鈍くなった。物資を確保するために分遣隊を派遣したが、8月にアメリカの民兵隊とベニントンの戦いを行い決定的に敗れて1,000名近い兵力が失われた。
一方、セントリージャーの部隊は、その半分をモホーク族の指導者ジョセフ・ブラントが率いていたが、スタンウィックス砦を包囲した。アメリカの民兵隊と同盟インディアンが包囲されている味方を救出するために向かったが待ち伏せされて、オリスカニーの戦いで蹴散らされた。2回目の救援隊はベネディクト・アーノルドが率いていたが、セントリージャーは包囲を解いてカナダに退却してしまった。
バーゴインの軍隊は総勢6,000名まで減った。このような痛手を受けたにも拘らず、バーゴインはオールバニへの進軍を続けることを決めた。このことが後に大きなしっぺ返しを食うことになった。大陸軍の将軍ホレイショ・ゲイツは8,000名の部隊を率いて、サラトガの南約10マイル (16 km)の地点に陣地を築いた。9月、バーゴインは大陸軍の側面を衝こうとしたが、フリーマン農場の戦いで反撃された。バーゴイン軍の状態は絶望的なものに変わって行ったが、ニューヨークのハウ軍がオールバニに向かっているという期待があった。しかし、そうはならず、ハウ軍は船で回航してフィラデルフィアの奪取に向かっていた。大陸軍には民兵が続々と集まり続けており、10月の初めには総勢11,000名に達していた。次に挑んだベミス高地の戦いでも撃退されたバーゴインは10月17日に降伏した。
サラトガは戦争の転換点となった。ハウ軍によってフィラデルフィアは奪われたが、アメリカの革命勢力は自信と決意を取り戻した。さらに重要なことは、この勝利によってフランスをアメリカ側に付かせてイギリス軍と対決できるようになったことであった。イギリス軍にとってはこの戦争がより複雑なものに変わってきた[20]。
フィラデルフィア方面作戦[編集]
詳細は「フィラデルフィア方面作戦」を参照
ハウ将軍は1776年にニューヨーク市を占領して、当時の革命勢力の首都であるフィラデルフィアの占領に目を向けた。ハウは緩くりと動いて、チェサピーク湾の北端に15,000名の部隊を上陸させた。ワシントンは11,000名の兵士をハウ軍とフィラデルフィアの間に配置したが、1777年9月11日のブランディワインの戦いで敗北して後退した。9月26日、大陸会議は再びフィラデルフィアを捨てた。ハウはさらにワシントン軍を打ち破ってフィラデルフィアを抵抗もなく占領した。ワシントンは10月初めにジャーマンタウンの近くに宿営していたハウ軍とジャーマンタウンの戦いを、さらに12月初めにはホワイトマーシュの戦いを行ったが、どちらも決定的な勝敗には至らず、退いて待つことにした。


バレーフォージを巡回するワシントンとラファイエット
ホワイトマーシュの戦いの後で、ワシントンはバレーフォージを冬の宿営所とした。そこはフィラデルフィアから約20マイル (32 km)の所にあり、次の6か月間を過ごした。冬の間に1万名いた軍隊の2,500名が病気と寒さで死んだ。1778年の春、シュトイベン男爵の訓練の甲斐あって大陸軍は蘇った。シュトイベンはプロイセンの近代的な戦法を教え、訓練され規律ある軍隊を築き上げた。
イギリス軍の総司令官はハウからクリントンに代わった。フランスが参戦したことにより、イギリス軍は戦略を変えて、フランス海軍の脅威の対象となったニューヨーク市を防衛するためにフィラデルフィアを放棄した。1778年6月28日、ワシントンは撤退するクリントン軍を追ってモンマスの戦いを行った。この戦いが北部では最後の大きな戦闘になった。クリントン軍は7月にニューヨーク市に到着したが、それはデスタン伯爵がフランス海軍を率いてアメリカの海岸に現れる直前のことであった。ワシントン軍はニューヨーク市の北にあるホワイト・プレインズに戻った。両軍ともに2年前に対峙した地点に戻ったが、戦争の様相は変わり始めていた[21]。
国際戦 1778年-1783年[編集]

1778年、北アメリカの反乱は国際的な戦争に変わった。サラトガの戦いで大陸軍が勝利したことを知ったフランスは1778年2月6日にアメリカ合衆国と同盟条約を結んだ。1779年6月には、ブルボン家盟約を更新し、スペインがフランスの同盟国として参戦した。しかし、スペインは当初フランスとは異なり、アメリカ合衆国の承認を拒んだ。スペインはその植民地帝国の中で同じような反乱を助長するのではないかと神経を尖らせていた。オランダも1780年に参戦した。3国共にイギリスの力を削ぐことを期待して戦争の初めからアメリカを密かに財政的に援助していた。
さらにラファイエットやコシューシコ、プワスキら欧州の義勇軍が参加した。1780年イギリスの対アメリカ海上封鎖に対し、ロシアのエカチェリーナ2世の呼びかけで武装中立同盟が結成され、イギリスは国際的に孤立した。
ロンドンでは、国王ジョージ3世がより多くの軍隊を送ってアメリカを従わせるという希望を諦めていた。というのもイギリスはヨーロッパでの戦争に捉われていたからである。「ペンシルベニアを保持しておこうなどと考えるのは冗談だった」とジョージ3世は言った。ニューイングランドを回復する望みも無くなっていた。しかし、国王は「アメリカの独立は決して認めない。永久に続くように見える戦争を無制限に引き伸ばして、命令に従わない者を罰してやろう」と決心した[22]。国王の計画は、ニューヨーク、ロードアイランド、カナダおよびフロリダの3万名の防衛軍を維持し、他の部隊で西インド諸島にいるフランスとスペインを叩くことだった。アメリカを罰するために国王が考えたことは、アメリカの海上貿易を破壊し、港を砲撃し、海岸に近い町(例えばニューロンドン)を襲って燃やしてしまうことであり、アメリカの先住民を送って辺境の開拓地にいる市民を襲わせることだった。これらの活動でアメリカの王党派を刺激でき、大陸会議をばらばらにし、「反逆者を嫌がらせ、気を揉ませ、貧しいままにしておけば、自然にかつ当然の帰結として不満と失望が後悔と自責の念に変わた暁には」国王の権威の下に戻ることを願うようになるとジョージ3世は考えた[23]。この計画は王党派や忠実なアメリカの先住民族の破壊や金のかかる戦争を無制限に引き伸ばすことも意味しており、またフランスやスペインが艦隊を集めてイギリス諸島を侵略しロンドンを占領する危険もあった。イギリスはヨーロッパの連合軍を処理した後で、反抗している植民地を再度従わせる計画にした。
海上戦の広がり[編集]
詳細は「アメリカ独立戦争の海軍作戦行動」、「アメリカ独立戦争におけるフランス」、および「アメリカ独立戦争におけるスペイン」を参照
独立戦争が始まった時、イギリスはアメリカ植民地に対し圧倒的な海軍力を誇っていた、帝国海軍には100隻以上の戦列艦と多くのフリゲートやその他小さな艦船があった。ただし、老朽艦が多く、最初の海軍大臣サンドウィッチ伯爵が非難していたようにあまり整備が行き届いているとは言えなかった。開戦後の3年間、海軍は主に陸上兵力の移送と商船の護衛に使われていた。アメリカ植民地側には、戦列艦など1隻も無く、イギリスの商船を襲う私掠船に頼るところが大きかった。私掠船は、フランスが戦争に加担する前からそしてその後もフランスのイギリス海峡に面した港を拠点として活動していたので、帝国海軍を困らせ英仏関係をこじれさせていたが、その物質的な戦果の割には戦争全体に与える影響が小さかった。大陸会議は1775年10月にアメリカ海軍の創設を承認したが、小さなものだったので主に商船への襲撃に用いられていた。ジョン・ポール・ジョーンズ船長が1778年4月24日に英国艦HMSドレークを捕獲し、アメリカ海軍では最初の英雄になった。このノース海峡の海戦はイギリス海軍に対する最初のアメリカ艦船の勝利でもあった[24]。


ジブラルタル包囲戦
フランスが戦争に加担したことで、イギリス海軍の優越性はそれ程のものではなくなってきた。しかし、フランスとアメリカの連合軍は1778年のロードアイランドの戦いや1779年のサバンナの戦いではうまく機能しなかった。その原因の一つはフランスとアメリカの軍事的な優先順位が異なっていたことにあった。フランスは、アメリカの独立を確保する前に、西インド諸島にあるイギリスの占領地を取りたかった。フランスからアメリカに対する財政的な援助は既に厳しい段階に来ていたので、1780年7月にロシャンボー伯爵が率いる大部隊が到着するまでは、軍事的にあまり有効な結果に繋がるまでには至らなかった。
スペインがアメリカ側で参戦した意図には、1704年にイギリスに占領されたジブラルタルとメノルカ島を奪い返すということも含まれていた。3年以上にわたってジブラルタルの包囲戦を行ったが、イギリス軍守備隊は頑強に守り抜き、1780年のサン・ビセンテ岬の月光の海戦におけるロドニー提督の勝利の後は補給も適って防衛できた。それでもフランスとスペインは何とかジブラルタルを取ろうとしたが、失敗に終わった。メノルカ島の方は1782年2月5日にフランスとスペインの連合軍で奪取に成功し、スペインは独立戦争後も正式にイギリスから領有を認められた。
西インド諸島およびメキシコ湾岸[編集]
西インド諸島では多くの戦闘が行われ、特に小アンティル諸島では何度も支配者が入れ替わることがあった。1782年4月のセインツの海戦でイギリス海軍のロドニー提督がフランス海軍のド・グラス伯爵の艦隊を打ち破り、フランスとスペインの連合軍が目指していたジャマイカなどイギリス植民地奪取の望みを絶った。1782年5月8日、スペイン領ルイジアナ総督であったベルナルド・デ・ガルベス伯爵が、バハマのニュープロビデンス島にあったイギリス海軍基地を占領した。このような結果にも拘らず、フランスが占領したトバゴ島の小さな島を除いて、1783年の休戦後は西インド諸島での支配関係を開戦前の状態に戻すことで合意された。
メキシコ湾岸では、ガルベスが1779年にマンチャックの戦い、バトンルージュの戦いおよびナチェズの戦いでミシシッピ川沿いにあったイギリスの基地を占領した。ガルベスは続いて1780年にモービルを占領し、1781年にはペンサコーラのイギリス軍基地を降伏させた。この結果、スペインは1783年の休戦時に東フロリダと西フロリダを獲得できた。
インドおよびオランダ[編集]
北アメリカの戦争の余波はインドでの英仏間の争いにも飛び火し、1780年の第二次イギリス=マイソール戦争という形になった。マイソール王国の支配者でフランスとの同盟の中心人物であったティープー・スルタンがマドラスのイギリス政府に対抗した。第二次イギリス=マイソール戦争はマンガロール条約で休戦となった。これはインドの歴史でも重要な文書である。というのも、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからである。ウォーレン・ヘイスティングはこれを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えた。
1780年イギリスは武装中立同盟に関わったネーデルラント連邦共和国に対し先手を打って攻撃した。武装中立同盟はヨーロッパの数カ国が中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであったが、その結果はヨーロッパではイギリスが孤立する形になった。イギリスはネーデルラントが公然とアメリカ反乱軍を援助するのを許したくはなかった。アメリカ独立戦争によって刺激されたオランダ急進派の扇動とオランダ政府のアメリカに対する友好的な態度が、イギリスの攻撃を呼ぶことになった。第四次英蘭戦争は1784年まで続き、オランダの商業経済に破壊的な影響をもたらした。
終戦への道[編集]
by kanakin_kimi | 2013-08-13 18:32 | シンドローム | Comments(0)

エイリアンシンドローム 完

真のアメリカの独立とは何か、が今問われている
アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう, 英: American War of Independence)は、 1775年4月19日から1783年9月3日までのイギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。作業中・Wikipediaより引用
この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。
アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。
アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)による財政危機の解消を目的としたものであった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。
1767年にイギリス本国議会がタウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃された。だが、このとき茶に対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。
1773年の茶法によって東インド会社の茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。
1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地と和解するようはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。
一連のイギリス側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままであった。
戦争が始まったとき、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵隊が存在するのみで、これが自らの地域防衛にあたっていた。独立戦争前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。開戦時、一部を除いてこの民兵隊のほぼ全てがアメリカ軍に加わった。民兵の装備は簡単なものであり、ほとんど訓練されておらず、通常は制服も無かった。当時、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらなかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが数では勝り、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、アメリカ軍はイギリス軍正規兵がいない地域で効果的に王党派の活動を抑えた[4][5][6]。


イギリス軍に従軍したドイツ人傭兵。ヘシアンと呼ばれた。
1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍が成長を続ける中、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。1775年10月13日、大陸会議が大陸海軍のための艦船建造に承認を与えられたことによりアメリカ海軍が発足、この時4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊も1775年11月10日の大陸会議決議により結成され、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争を通じ、延べ約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、どの期間においても武装した兵士は9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。これは、戦術的選択の結果であったが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった側面も存在した[7][8]。
1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味で傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた[9][10]。
「アメリカ独立戦争におけるドイツ」も参照
アフリカ系アメリカ人および先住民族[編集]
アフリカ系アメリカ人は解放奴隷も奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者を主人に持つ奴隷を徴募した。大陸軍側においても、1776年1月、人員不足解消のためジョージ・ワシントンは奴隷徴募の禁止令を撤廃した。ロードアイランドとマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で[11]、2万人以上がイギリス軍に従軍した.[12]。
ミシシッピー川から東にいた先住民族の大半が戦争に巻き込まれた。多くの部族社会は戦争へのかかわり方を巡って分裂することになったが、それまでアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、先住民の多くはアメリカと敵対する道を選択した。およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦ったと推定されており、その中ではイロコイ連邦の約1,500名が最大であった[13][14]。
マサチューセッツ[編集]
詳細は「ボストン方面作戦」を参照
開戦前のボストンでは反抗的活動が続き、1774年にイギリス政府は懲罰のためマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、この政策は民衆の間に反発を広げる結果となり、新たに本国から任命された役人は辞職したり暴徒に追われてボストン市内を逃げ惑うことになった。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。


レキシントンの戦い
1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」[15]という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。
by kanakin_kimi | 2013-08-13 08:50 | シンドローム | Comments(0)

エイリアンシンドローム

人類史が微かに見えてきた     3
わたしの認識では「エイリアンは、地球人類の先達である」。我々地球人類が持っている基本的な情報だけでは、これを認識するのは困難だろう。しかし、わたしの認識はそれに到達できる。何故かというと、わたしは「特殊相対場論」を立ち上げ、さらにそれを豊富にするために「特殊相対場論研究所」を設立し、研究した考え方などをこのブログを通じて公開した。たいしたものじゃあないとは思うし、「縄文人の心」を持っていればそれほど難しいものではない。
とにかく、わたしは知らない事ばかりだから、毎日が勉強だ。「特殊相対場論」は、素直な考え方だから、変に弄くり回さない。だから、「エイリアンは、地球人類の先達である」事が認識できたのだ。
日本で「i p s 細胞」を発見した人も、弄くり回さない人だから発見できたのだ。ノーベル賞なんかもらうから、周りから弄くりまわされているだろうが、できたら返上した方がいいのではないかと思う。ノーベル賞も「ロスチャイルド・イルミナティ」の支配の手法の一つになってしまっているからだ。
日本の天皇制も「ロスチャイルド・イルミナティ」の手駒にされているようだから、欲しいのだったらあげるよというぐらいでなきゃあ支配下に置かれてしまうのだ。日本の政治学会でも定義している神島二郎の指摘した「指導者原理」と云う奴さ。組織の指導者を支配機構に組み込めば組織を支配できるという手法だ。明治維新の時から「ロスチャイルド・イルミナティ」は「玉を握るという手法」を長州が「明治天皇」でやっているのを把握している。
http://ayarin.iza.ne.jp/blog/entry/894513/
しかも、「神道」が支配の論理に組み込まれて、「縄文人の心」「ものの哀れ」からはなれた。そんな「天皇制」に日本の象徴の意味も役割も果たせるはずがないのである。だから、英国王室に世界の王室を統合させるべく誘導してきた「ロスチャイルド・イルミナティ」の手法にズッポリはまっている。挙げ句の果てが「悪魔主義」「サタニズム」の儀式も皇室外交になっているから、カナダの原住民の子供の生き血の入ったワインを飲まされたり、人肉料理を食わされたりしているのである。今その問題がイタリアで沸騰しているし、裁判で英国王室のエリザベス女王・ヴァチカンの前法王(教皇)ヴェネディクト・現法王・枢機卿・大司教等30数名が罪刑を言い渡され逮捕状も出されている。彼らは、それを無視しているのであるから、世界的な国際法上からも「アナーキスト=無政府主義」を宣言しているのだ。こうなると、権威も何も自ら放棄したものとなるだろう。「ロスチャイルド・イルミナティ」の大本営からしてこの有様になっている。これが誰かがいう「第三次世界戦争」の意味なのだ。これを隠すために、中東などで「争乱を作り」、今また中国・韓国を利用して33階位のケリーが日本への紛争をけしかけている。それに呼応して長州の安倍が舞台に上がっているのだ。「ロスチャイルド・イルミナティ」の罠を知り・落としどころを模索する海舟のひ孫もいる。誰が出てこようが、「縄文人の心」を忘れたものには解決できなかろうし、勝つ事は出来ない。
しかも、時代はもはや間接民主主義・間接支配の政党政治の終焉を明確にしており、世界市民・各国市民・日本市民が直接政治に参加する仕組みを作り、世界にそのモデルを提供する時代になっているのだ。
「ロスチャイルド・イルミナティ」は、「宇宙政策」でも失策を演じ「宇宙船=月のエイリアン基地に小型水爆をぶち込んだ」ようだ。NASAの分裂と「ロスチャイルド・イルミナティ」傘下の「NSA」問題は切り離せない。闇NASAが「月のエイリアン基地に小型水爆をぶち込んだ」わけだし、その機密をスノーデンが持っている事も考えられる。これは世界市民に情報公開するNASAと「ロスチャイルド・イルミナティ」支配の闇NASAの闘いでもある。とわたしは考えている。もはや、南海地震の脅しにおつきあいしている時代ではない。アメリカ軍部が「ロスチャイルド・イルミナティ」の資産押収に動かなければならない時代なのだ。
それが、本当のアメリカの独立戦争だ
by kanakin_kimi | 2013-08-12 17:56 | シンドローム | Comments(0)