カテゴリ:告発・袴田事件( 39 )

「冤罪」が生まれる原因は、「法治主義」

全ての原因が法治主義

 「法治主義」というのは、「法治国家」という通称の中に閉じ込められている「謀略」だと私は思っている。
 それは、「間接民主主義」という「代議員制・議会民主主義」がじつは、「代議制支配」であり代議員による「間接支配」である事の裏返しであった事を知った。「法治国家」というものも「法支配国家」であり「法支配主義」である事の裏返しであった。
 したがって、そこにある「法の精神」とは「支配の論理」であった。この法律の原理に対する認識が、平和主義とは思いも及ばぬ「裏返しであった事」を知った。
 わたしが、「日本国憲法」を「平和憲法」と認識してきたことに、「大きな誤謬」がある事をしった。
 その原因は「自らが日本国憲法を原理的に追究する事」を怠ってきたという事につきることを知った。それは、「法律」というものを「専門」とする者の領域の問題と云う「認識の誤謬」にあった。
 さて、「法律で支配する国家」は、その「支配の論理」の「法の精神」とはどこにあるのかという事を簡単に知るには、「法治主義」つまり「法律支配主義」を「法律を守りさえすれば何をしてもいい」という事なのだと理解したのである。「戦争」であれば「人殺しが許される」というのもその一つだろう。
by kanakin_kimi | 2014-08-26 10:38 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

袴田巌さんを犯人とする証拠は全てねつ造だ!

「赤みそ一年物」は既に造っていなかった・・・「王こがね味噌」

袴田さんを犯人とした・・「証拠は全てねつ造」

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1966・--------------------------〜----------1967・・・・・・〜---------1968・--
--6・30----8・18--9・9----11・15--~---8・31----------9・12---~--- 9・11 ---
事件発生----逮捕----起訴---- 公判開始--~--五点の衣類出現--家宅捜査-~--結審判決
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---------赤みそ一年物の仕込み-----------------赤みそ一年もの搬出-----------------
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「赤みそ一年物」という前提だからこそ、「五点の衣類をねつ造」する「辻褄が合っていた」が、実際は「赤みそ一年物を作っていなかった」のだ。だから、NO1タンクには三ヶ月ものや半年ものの「樽買い」で浜名味噌などから購入した「色付けようの味噌」が何度も「搬入・搬出」して、それこそ「何度もタンクの底が見えていた」のである。その事を従業員が知らないはずはないのである。それを知らない振りをさせてきた事になるのである。それには、強烈な脅しが必要であった。「箝口令」(かんこうれい)を破ったものに対する強烈な脅し、それが望月倶輔さんの死と繋がっているのか。

ーーーーーー死の連鎖ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1966(S41)年 6月29日-----橋本扶示子(昌子)・橋本ちえ子・橋本雅一郎(藤雄)
-------------------30日-----橋本藤雄(自殺)
1966(S41)年 9月06日-----橋本藤作(こがねみそ無限責任社員、火災後の残金不審) 
1967(S42)年 8月08日-----水野豊司(こがねみそ代表取締役、会社の解散問題不審)
1980(S55)年01月13日----橋本さよ(藤作の妻・)
1981(S56)年12月29日----平垣安治(藤雄の友人66/6/29に3人で会合、藤雄の死に不審)
1984(S59)年04月16日----平垣圓一郎(平垣安治の弟、兄の死・資産略取に不審)
----------------------------望月倶輔(こがねみそ・技術課長、袴田冤罪・疑惑で不審)
1991(H03)年00月00日-----(72又は77才・・・ 不  名 )
2009(H21)年00月00日-----(62才男性・・・橋本昌子の夫雅信氏か)

2014(H26)年03月28日----橋本昌子(佳代子、警察に出頭して真実を話したい・服殺)  
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おなじねつ造でも・・・・従業員の発想ではない
 味噌の醸造の仕事に関わったものが「考えられない事を考えた者」の仕業である事は間違いない。味噌という食品を造っているものが「考えられない事を考えた者」の仕業である事は間違いない。
食品を造っている「味噌会社」をつぶす事を何とも思っていないものの仕業である事は間違いない。それは誰なのか。「死体を動かしたメンバー」であり、藤雄の最後を見ているものであり、藤雄のきていた着衣をわすれることができない者である事が分かるズボンとスポーツシャツの色合い、しかも、袴田さんがはいていたブリーフの色を知っている者であり、わざわざ古いのを探してきた王こがね味噌のサービスマッチ(海野さんが知っているか)・工場事務室の救急箱内のものと同類の絆創膏・味噌金山寺用の大豆や米麦を入れてきた麻袋などを使用している小細工が満載なのである。これはもう、捜査情報を十分に知っている者である事が分かる。その一番のポイントは「絆創膏」である。袴田さんが、火災の際の消火活動でトタンで指にけがをしている事、その時に絆創膏を使っている事を承知している者なのである。


「死の連鎖」を・・・・早く止めろ

もう終わりにしろ、元従業員全員が勇気を出して止めさせろ!
by kanakin_kimi | 2014-04-17 13:52 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

冤罪事件についてまわる死の連鎖は検察・警察の責任

5点の衣類は、「犯行着衣でもなく」「袴田さんのものでもない」
「5点の衣類」は・・・・「ねつぞうの証拠」
袴田さんを犯人に特定した唯一の証拠が「5点の衣類」なのです。
 その「5点の衣類」というのは、事件が発生した1966年6月30日から1年2ヶ月経った、1967年8月31日にコンクリート製のNO1味噌タンクから味噌出しをしていた水野源三さんが発見したという事になっています。その時の状況を次のように記載している。「昭和42年8月31日王こがね味噌工場において、従業員水野源三が工場内の一号タンク内の味噌を搬出中、タンクの底部に麻袋(南京袋)に入った血痕付着の衣類を発見した旨所轄清水署に届出があったので直ちに清水署においては捜査幹部を工場に派遣するとともに、県本部に報告があったので、県本部から刑事部長以下捜査幹部を工場に派遣して、現場の見分等の指揮にあたらせた。」と捜査記録は書いている。1966年8月18日に警察は袴田さんを逮捕しました。そこで、「赤みそ一年物」という「設定」で、タンクが空になった時に犯行着衣をタンクに隠したのだ、としたわけです。ところが、その時逮捕した根拠は「犯行着衣は袴田さんのパジャマ」だったはずです。公判が始まって、一年近く経過した段階での状況は、「犯行着衣としてのパジャマが成り立たなくなってきていた」のです。パジャマに返り血が付着していると云ってきていたのだが、鑑定の結果血液の付着が認められない事が明白になってきたのです。そんな時に、たっぷり血の付いた「5点の衣類」がでてきたという事から、「袴田さんは、自分の無実が明らかになった」と喜んでいたのです。 それがどういうわけか、青天の霹靂のごとく「5点の衣類は袴田巌のもの」と断定してきたのです。その理由はこうです。1967年「9月12日 袴田の浜北の実家を家宅捜索した結果、発見されたズボンの裾を切った共切れを発見し(シングルで既製品のズボンであるため長い裾の部分を切断した共切れ)たので、ズボンの製造元および縫製元を捜査した結果、縫製状況、生地、切断状況などが完全に一致し、さらに裁判所の職権で科捜研において同一かどうかの鑑定を進めている。」というもの、また「白ステテコ、白半袖シャツ、スポーツシャツ、グリーン色パンテーの出所についても慎重な捜査を進めた結果、それぞれの製造元、卸問屋、小売店が判明し、ステテコ、白半袖シャツ、スポーツシャツについては、別居生活中の先妻レイ子が買い与えたものであり、パンテーは母親が買い与えた事がそれぞれ証明され、いずれも証拠として採用された。」と捜査記録は書いている。
 いま読んでも、なんと強引な、なんと勝手な事を書いているのだろうと身震いするものです。再審開始決定が出され、その報道の中で「五点の衣類」が映像として出されているので見てください。

 

 この報道で、「五点の衣類が犯行着衣か否か」ということを、証明するために「DNA 鑑定」が行われました。「五点の衣類に付着している血液が、被害者の返り血の血液であるかどうか」また、「白半袖シャツの肩についている血液は袴田さんのものとしているので」それを DNA鑑定で確認しようとするものです。
 わたしは、「再審請求の枠」にはめられる必要がありませんから、旧証拠を使って「死体は動かされた」事を証明して、犯人は袴田さんではない事を普通の人に理解できるようにしました。
 そして、この五点の衣類問題についても、ごく普通の事実、ごく普通の証明で明らかにできると思っています。ただ、「再審請求」という異常な「法制」が、それを利用するものに有利にしている分、冤罪者にとって大変不利にしているのです。
 ごく普通の事実・ごく普通の証明ですが。「王こがね味噌」の「橋本藤作商店」では、1966年当時「赤みそ一年物」というものは製造しておりません。
ですから、五点の衣類はねつ造です
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1966・------------------------------------1967・---------------------------1968・--
--6・30----8・18--9・9-----11・15--~----8・31---------9・12----~--- 9・11 ---
事件発生--逮捕----起訴----公判開始---~--五点の衣類出現--家宅捜査-~結審一審判決
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---------赤みそ一年物の仕込み------------赤みそ一年もの搬出--------------------------
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「赤みそ一年物」という前提だからこそ、「辻褄が合っていた」が、「赤みそ一年物を作っていなかった」のだから、NO1タンクには三ヶ月ものや半年ものの「樽買い」で浜名味噌などから購入した「色付けようの味噌」が何度も「搬入・搬出」して、それこそ「何度もタンクの底が見えていた」事になる。
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 当時県内で六十数社の味噌製造企業の中で、販売シェアーをトップで走っていたのが、「カネ十味噌」で、今日まで続いています。その専門分野の人々に取材し、調査した時にも「あそこで赤みそ一年物を作っているとは思えないがねー」というものでした。そして、「王こがね味噌」「橋本藤作商店」の技術課長をしていた「望月倶輔」さんに聞いてみたのです。技術屋さんですから、自分が導入した「味噌醸造の促醸法」で「2〜3週間で醸造できる方法があれば、どんどん売れる」「ただし、色合いが薄いので、3〜6ヶ月ものを他社から購入して、それで色付けすればよい」というもので、味噌樽の醸造室で室温を40数度程に上げて、北里研究所の指導を得ながら醸造菌を開発した結果、県内63位から県内3位にまで急成長したのだそうです。望月さんは、素直に話してくださったのです。
 ずいぶん後になってから聞いた事でしたが、私が「望月倶輔」さんからお話を聞いた半年後くらいに亡くなったというものでした。いま考えてみると、あまりにも私自身が鈍感だったんだなあと反省している。そこから分かったのは、今にいたるまで「元従業員に対する箝口令」は、命がけなんです。
 そして、「冤罪」を作ったものは、次から次へと犯罪を続けているという事なのです。検察・警察の罪は重いですよ。
by kanakin_kimi | 2014-04-15 21:40 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

熊本典道元裁判官







by kanakin_kimi | 2014-04-10 16:31 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

検察官の仕事は、秋霜烈日か

検察の即時抗告の意味とは ー 「秋霜烈日」とは「誰のため」
 無実の袴田巌さんを弁護してきた弁護団は、手弁当で通算して48年間弁護活動をしてきた。斉藤準之介弁護士が依頼されてすぐ面会に行ったのが1966年8月22日である。警察がなかなか渋っていて面会させてくれず、やっと5分間だけであったそうである。袴田さんが8月18日に逮捕されて、その日15時間30分の長時間にわたる地獄の取り調べが始まった。しかも、それが連日にわたって続いていくのである。翌日19日は10時間30分、20日9時間23分が司法警察員で、さらに2時間を吉村英三検事の取り調べである。21日は司法警察員が7時間5分、検事が1時間。どれほどひどいのかという事がなかなかうまく表現できない。これはもう一覧表にする方がいいだろう。
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1966(S41)              (取り調べ時間 と調書)
6月30日特捜本部設置       司法警察員     検 事     弁護士


8月17日パジャマの血液と油鑑定出る。被害者宅四十九日忌(内偵捜査期間49日間)
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-----18日(6:40任意同行・19:32逮捕)--15:30------否認                
-----19日-------------------------------10:30------否認 
-----20日--------------------------------9:23-----否認-------2:00
-----21日(身柄留置送検・接見禁止決定)--7:05------否認------1:00
-----22日-------------------------------12:11------否認-------------0:05(面会)
-----23日-------------------------------12:50------否認
-----24日-------------------------------12:07------否認
-----25日-------------------------------12:25------否認              
-----26日-------------------------------12:26----- 否認           
-----27日-------------------------------13:17----- 否認
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この日、袴田さんに対して10:05から12:17までポリグラフ検査いわゆる嘘発見機を使っている。翌日9月28日のS紙の見出しに「嘘発見機に反応〜」と出ている。
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-----28日-------------------------------12:32------否認--------------0:15(面会)
-----29日(検討会・取調官4→6人)--------7:19------否認
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(検討会の決定方針)ー袴田の取り調べは情理だけでは自供に追い込む事は困難であるから、取調官は確固たる信念を持って、犯人は袴田以外にはない、犯人は袴田に絶対間違いはない、ということを強く袴田に印象づける事につとめる。(捜査記録より) この確認はまさに、何が何でも自白させる事の意識付けに他ならない事を雄弁に物語っている。そして、取調官を4人から6人へ増員している事の意味は、司法警察員の増員だけではなくて、検察取調官をもあわせた警察・検察の合同取り調べである事を明確に示している。   
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------30日(10日間留置延長)--------------12:47-----否認
------31日--------------------------------11:32-----否認-----2:00-------------------
--9月--1日--------------------------------13:18-----否認-----------------------------
--------2日--------------------------------11:15-----否認-----2:00-------------------
--------3日(検討会)------------------------11:50-----否認-----2:00----0:15(面会)
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(検討会)構成は、高松敬治本部長・山下利彦刑事部長・池谷真二捜査一課長・村松仁(鈴木完扶法医室長)鑑識課長・沢口金次清水署長・富安要刑事課長・取調官(松本久次郎・松本義男・岩本広夫・住吉親・森田政司)、規定方針通り、強力に取り調べを進める以外にないとの結論。(捜査記録より)斉藤弁護士が3回目の面会を行った。したがって、その後に上記検討会を行ったようで、さらに強力な取り調べが行われたことが見て取れる。
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--------4日---------------------------------16:20-----否認----------------------------
--------5日---------------------------------12:50-----否認----------------------------
--------6日---------------------------------14:40-----6 通----------------------------
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A紙の見出しに「奇しくも社長死亡の日〜」というのがある。またこの6通の最初の一通目は、「私がやりました。」という一行だけのものである。それを持っていって、鑑定人の鈴木俊次氏に鑑定書を提出させたのである。だから日付が9月6日付けなのである。鈴木俊次鑑定人は納得していない、その証拠である。これまで19日間否認をつづけ、地獄の取り調べに耐え続けた袴田さんの驚異的な忍耐力こそボクサーの打たれ強さを示している。常人にはとても耐えられなかった事だろう。その上、たったの三回で合計しても35分間しか弁護士接見を許さなかったという中で、それでもそれが袴田さんを支えた事を示しているのである。9月7日付けA紙の見出しは「袴田の口を割る事は至上命令〜」と出て、取調官へのプレッシャーも相当なものである事を示している。
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--------7日(時間が分からない)--------------------------1通------------------------
--------8日----------------------------------3:00------1通-----3:00-----------------
--------9日----------------------------------7:00------2通-----7:00---1通---------
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9月9日は、吉村英三検事がこの事件の犯人として「袴田巌さん」を特定して、静岡地方裁判所へ「起訴」の手続きをしたのである。この日は、「拘置延長期間満期日」であった。つまり、袴田さんを釈放しなければならないのである。袴田さんを犯人であると特定できる証拠はほとんどないのである。だから、何が何でも継続して拘置して「自白調書を取るために起訴手続き」をしたのである。その証拠が10日以降も取り調べが続いており、分かっているだけでも10月13日の日付で分かる供述調書までがある事である。
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-------10日----------------------------------------------------------------2通--------
-------11日---------------------------------------------1通---------------1 通-------
-------12日---------------------------------------------1通---------------1 通--------
-------13日---------------------------------------------1通----------------------------
-------14日---------------------------------------------1通----------------2通-------
-------15日---------------------------------------------2通----------------1 通-------
-------16日---------------------------------------------1通----------------1 通------
-------17日---------------------------------------------1通----------------1 通------
-------18日---------------------------------------------1通---------------------------
-------19日---------------------------------------------1通---------------------------
-------20日---------------------------------------------1通---------------------------
-------21日----------------------------------------------------------------------------
-------22日---------------------------------------------1通--------------------------
-------23日----------------------------------------------------------------------------
-------24日---------------------------------------------1通---------------------------
-------25日---------------------------------------------------------------------------
-------26日---------------------------------------------1通--------------------------
-------27日------------------------------------------------------------------2通-----
-------28日----------------------------------------------------------------------------
-------29日----------------------------------------------------------------------------
-------30日-------------------------------------------------------------------1通----
-10月01日---------------------------------------------1通--------------------------
---------2日-------------------------------------------------------------------------
---------3日----------------------------------------------1通-------------------------
---------4日-------------------------------------------------------------------------
---------5日------------------------------------------------------------------2通----
---------6日-------------------------------------------------------------------------
---------7日-----------------------------------------------1通---------------2通----
---------8日------------------------------------------------------------------------
---------9日-------------------------------------------------------------------------
-------10日--------------------------------------------------------------------------
-------11日--------------------------------------------------------------------------
-------12日--------------------------------------------------------------------------
-------13日------------------------------------------------1通---------------------
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----------------------------(調書の合計)---------------司面28通------検面17通----
-10月31日(特別捜査本部解散)--------------------------------------------------
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11月15日静岡地裁は第一回公判が始まり、1968(S43)年9月11日最終公判において「判決」は、異例の捜査批判とともに、供述調書45通の内44通を排除したが、9月9日付けの検面調書(検事がとった供述調書)のみ証拠採用した。しかし、この一覧表でお分かりのように、9月9日の段階で検面調書としての最初の供述調書が生き残る事自体不合理で、それほどまとまった供述調書になっていたのであれば、起訴後にまで不法である事を承知の上で供述調書を取る理由がない。したがって、これらの調書を裁判所に提出したのがいつなのか明確になればそのトリックが分かるはずである。そして、9月9日付の検面調書は第一回公判が始まる寸前までに整理して、差し替えた事が明白である。これが秋霜烈日の正体か。
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by kanakin_kimi | 2014-04-03 17:33 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

袴田事件の報道特集

戦争の終焉


























by kanakin_kimi | 2014-04-02 12:39 | 告発・袴田事件 | Comments(5)

真犯人が動き出した

橋本昌子さんが殺された

事件性がないと云っているのは誰だ

速やかに司法解剖をすべきだ

 また同じ事を繰り返させるつもりか。

 いまから48年前から起き始め、そして、33年前からまた起き始めた事件を「事件性なしとして、自殺で処理した奴は誰だ!」それからも延々と「殺し!の手口は続いている。」冤罪・袴田事件を作ったものどもの悪行の軌跡が示している。

告発  番外編 1を再録少し追記する。

死の連鎖

清水市の市会議員が茶畑で変死体で発見された。この事件で清水の暴力団の組長が逮捕された。
これについて、どうやらその暴力団が関係するサラ金から件の市会議員が借金をしていて、その取り立てをその暴力団の組員がしていたようである。その市会議員の名は確か「遠藤頼直氏」だと思った。

清水の巴川の橋のたもとに「ラ・セーヌ」という喫茶店があった。私は,コーヒーが大好き人間だもので、時々行ったものだ。「次郎長通り」につながり、清水港の遊覧船乗り場につながる道路に架かる橋で橋の名前は、「港橋」だったか忘れてしまった。そのラ・セーヌの店主と稲名嘉男市長が件の市会議員に金を貸していたのか、それとも金融会社が不良債権の処理を企業舎弟のサラ金に払い下げて、回収取り立てに件の暴力団が動いたということのようだった。いづれにせよ何らかの関係があるとかの噂があった。

私が会社から解雇されて、裁判闘争をしている時に様々な問題に遭遇することになった。袴田事件の救援会に参加したのもこの時期であった。合化豊年の望月さんが島田事件に関わっていたときは、今そんなことをやっているときではないのじゃないのかと云っていたのに、望月さんには申し訳なく、どういうことだと自分でも不思議に思っている。もちろん、仮処分決定が出て仮賃金が会社から支払われるようになったことも一因だが、何か見えない糸と意図にたぐり寄せられるような感覚が今もしている。

解雇されている間に、県内の労働争議をしている労働者の相互支援組織が県評の指導で進められ、全国金属の缶詰包装や村上開明堂・全国一般のVANジャケット・東海通信・静岡マッチ・安倍川製紙などが主導部隊であった。私が所属していたのは合化労連の合化豊年労組である。
何処の倒産争議だったか忘れているが、その倒産・管財人に倉田弁護士がしており、労働債権の確保をするために倒産争議団からの応援が要請された。倒産争議に暴力団絡みの噂が絶えなかったのは、関わっている管財人にもよるが、借金をしている清水銀座の金物店の倒産にも、ある農家の山が賭博ですった長男の借金のカタに取られたと嘆いていたのを聞いたのもその頃で、件の暴力団と倉田事務所が連動していたようである。

1966年6月30日だったかの新聞に、橋本藤雄の友人談が数行でていた。その友人が、「平垣安治」氏である。その15年後の1981年12月29日馬走の平垣安治宅の納屋で首つり姿で発見された。その話を聞いたのもあとになってからで、テレビ静岡が「烙印」を放映した後のことである。争議団で相談するほどの情報もなく、余裕もなかった。

袴田救援会に新たな波が表れた。袴田事件弁護団に新しく・強力な弁護人が参加してきたと今村会長がいう。そういうことで、救援会の事務所へ小川・小倉・中村の三弁護人がこられたのである。
何処で聞いたか忘れたが、この三人が倉田事務所のいそ弁をしていたことがあるというものであった。私の神経にぴりぴりと走るものがあった。救援運動に悪い影響を与えてはいけないとの考えから誤解の起きないように、聞いてみたことがあったが、怒ったように、反応したのが中村弁護士であった。
その際に、浅野正康氏のことについて尋ねた。中村弁護士は浅野氏を先生と云っていた。そして、先生への信頼の言葉が述べられていた。と同時に、私の質問に対して嫌悪し敵意を見せているように思われた。私が発した質問は、私が抱いている「浅野正康氏」に対する「疑問であり、不審である」。しかも,この疑問は「袴田事件の真相に深く関わる」ものなのである。何故なら、浅野正康氏は「橋本藤作商店」の専務橋本藤雄氏と税務処理について契約していた。
事件前日の6月29日専務宅を訪れていた「人物」を家庭教師が目撃している。そして、その人物が橋本藤雄と雑談している様子を見聞きしている。その後橋本藤雄と一緒にいなくなったのを、家庭教師の供述は示している。ところが、この重要な事実を警察や検事、裁判官は目もくれない。
そして、橋本藤雄の行動についてのタイムテーブルも不明のままにしているのである。
この重大な空白を埋めてくれたのが、平垣安治氏の奥さんのお話だったのである。

それを再録すると、「清水の料亭・(大花)で会合する約束であったようで、大花に行ったのだが、三人が顔を揃えたところで、浅野氏の都合が悪くなったということで、会合は取りやめて、専務の車で送ってもらって帰ってきた。」というものであった。

だから、その後の藤雄の消息をしっているのは「浅野正康氏」だけなのである。これを、無視していることは、「浅野正康氏」を「この事件に表面化させられない事情がある」ことを示しているのだが、それこそとんでもないことなのである。

しかも、1981年11月15日清水市矢倉神社で開催された、高杉晋吾著作「地獄のゴングが鳴った」出版記念と現地に救援会を作るための準備集会と講演会が行われた。事件現地においてはじめて冤罪事件の「袴田事件」が先ず集会の紹介として報道された。そして、集会の内容についても報道されたのである。事件の関係者にとっては「衝撃的」なものであったはずである。
その集会からひと月あまり後の12月27日に平垣安治氏は馬走の家を出かけていった。28日にも帰らなかった。奥さんは、仕事の関係で、よくあることだと多寡をくくっていた。29日に納屋にみかんをとりにいったら、そこで予想もしない安治氏の「首つり死体」を発見した。
安治氏が「誰に会いにいったのかは、ほぼ状況判断できる。」「浅野正康氏以外に考えられないのだ。」事件前日の6月29日、最後に顔をあわせたのは、藤雄・正康・安治の三人だからである。
また、平垣安治氏の「首つり自殺」に家族が不審を抱いていた根拠は、両肩にそれぞれロープの紐の輪っかがあり、額に陥没の傷があり、しかも、下着に失禁の汚れがないなどの「首つり自殺」を否定している事実があったからである。そして、連絡もしていないのに、浅野正康氏が安治氏の弟の圓一郎氏と医者を連れてきた。こちらが呼んだ医者を追い返し、両肩にあった輪っかを、こんなものあんまり問題にすると本人のためにならないからこちらで処分しておくといってポケットにいれ、自殺ということで、処理されてしまった。
平垣安治社長がなくなって、東洋スーパー化学は、いつ会社を閉鎖したのか、平地した跡地には「ル・セール」というレストランが建っていた。
それから、平垣安治氏の残された家族は、馬走の家を追い出されるように引っ越しさせられていった。そして、私たちが今村ギャラリーで袴田事件展示会を開催している最終日ごろに、三人の婦人がギャラリーをおとづれた。私たちに何を求められてこられたのか、わからぬまま静岡から逃げるように遠くに行かれたようであった。その後、東京の救援会の方にも顔を見せられたというお話を聞き,東京に住んでいるらしいということを知った。

これまでのお聞きした話を通信に要約を書いたことがあるけれど、お会いした三人の婦人のうち平垣安治さんの奥さんと娘さんがいだいている恐怖感は、「誰か」からの「脅迫」であり、「資産の強奪の理不尽」であるようだった。それがこちらにも伝わるほどの、ぴりぴりしたものであった。
浅野正康氏と平垣圓一郎氏は、二人の奥さんが姉妹である。圓一郎氏は昭和59年4月16日に死亡と届がされている。昭和59年というのは1984年である。つまり、安治氏が1981年12月29日「首つり死体で発見」されているのであるから、その2年4ヶ月後ということになる。

実は、ここにある「死の連鎖」は、「真相」がおもてに出ないようにするかのように、事件発生以来続いている。
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1966(S41)年 6月29日    橋本扶示子・橋本ちえ子・橋本雅一郎
          30日    橋本藤雄
1966(S41)年 9月 6日    橋本藤作(こがねみそ・無限責任社員) 
1967(S42)年 8月 8日    水野豊司(こがねみそ・代表取締役)

1981(S56)年12月29日    平垣安治(藤雄の友人・東洋スーパー化学社長)
1984(S59)年 4月16日    平垣圓一郎(東洋スーパー化学社長?)
               望月倶輔(こがねみそ・技術課長、取締役)
2014(H25)年 3月28日    橋本昌子
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そして、とうとう橋本藤雄氏からの遺言で助けられた昌子さんが、今度は邪魔になってか、殺された
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当時も今も、会社や商店の倒産に食い込み資産を奪いとっていく手口で、市内の広範囲にひろがっている。そのひとつを例に挙げると、金指造船の元会社役員石上舜而氏の自宅も競売でとられているのである。その土地登記簿謄本には「遠藤頼直市会議員殺人事件の犯人」と知られる名前などが出ているのである。それらが競売で素人が手を出せるはずはなく、最終的に浅野正康氏の妻清子名義になったのか、その後は分からない。
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by kanakin_kimi | 2014-03-31 11:33 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

真犯人が動いた

「袴田事件」被害者遺族が死去再審決定翌日に発見
 の見出しに、しまったそっちに動いたか。袴田さんの方もさらに警戒しなければ、と
わたしが、28日に「真犯人が動く」と書き、「袴田さんを守れ!」と祈ったのは、おなじ「真犯人」でも、「発端となる事件の真犯人」ではなく、「冤罪事件の真犯人」だったのである。
 「冤罪事件の真犯人」というのは、捜査誘導できる権力を握っている側が犯人でないものを犯人として全捜査を誘導終結させた者あるいはグループを云うのである。こんなリスクの大きい事に手を出すには、それなりの見返りなくしてはやらない。焼け跡の現場からは、数千万円の預金通帳が無くなっているのである。だから、社長の橋本藤作さんが「市ちゃん、もっと金があったはずだが・・」と、経理課長の市川さんに聞いていた。その橋本藤作さんは、しばらくして9月6日(あの、逮捕後20日目の最初の自白調書を強引に取り、それを持っていって、鈴木俊次鑑定人に鑑定書を提出してほしいと迫った日)に死亡しているのである。そして、いままた「昌子さんは殺されたのである。」事件性はないなどという事が通用する状況ではないのである。昌子の供述調書を作ったおじさんだって、昌子さんが出頭する決意をしたとなれば「 A 」に相談せざるを得なかったのだろう。「 A 」の手配は早い。冷静で目立たない女性が精神安定剤と称して一服盛ったのであろう。そして病院を手配しているのである。
 これらのグループは、いままで何人殺してきたと思うのだ。元従業員だって、金縛りにあっているのだ。警察に云おうものならすぐに手配されると恐れている状態ではないのか。
速やかに司法解剖をすべきだ
by kanakin_kimi | 2014-03-29 20:53 | 告発・袴田事件 | Comments(2)

再審開始で初めて事件の真相が公的に明らかになる

袴田さんを守れ!
 検察の「即時抗告方針」は、「真犯人側に袴田さんを殺させるつもりのようだ」
 わたしは、弁護団と違って事件の真相解明を行ってきた。そこから見えるものは、真犯人側が動きを見せるという事である。「再審開始」によって、裁判のやり直しになるわけである。つまり、いままで出された全ての証拠を使って審理をやり直す事になるわけである。そうなると、いままで明らかにされなかった真実が公的に明らかになる。それは、私がいくら口を酸っぱくして真実をブログで公開しても、インパクトが全然違うのである。私が実名を出して公開しても、無視してきたのである。
 味噌工場で働いてきた従業員の口を塞ぐために、何度も会合を持ってきたのである。それを望月倶輔さんからは、「いまでも従業員が集まって交流しているよ」とお聞きした事があったが、その望月さんがどういうわけかしらないけれども、しばらくしてから亡くなったという事を聞いた。このような口を塞ぐ見えない圧力があるように思われるのである。だから、再審開始・死刑と拘置の即時停止は画期的でいいのだけれども、「真犯人側が検察と連携している事を懸念している」のである。だから、「検察が即時抗告を出したらその間に袴田さんを殺して事件を闇に葬るのではないか」という恐れを心配しているのだ。
by kanakin_kimi | 2014-03-28 10:38 | 告発・袴田事件 | Comments(1)

327・再審開始決定出るー即時釈放ーの正しい判断

327再審開始決定でる

  2014年3月27日10時、事件発生から48年目にしてやっと「再審開始決定」が出た。わたしは、1981年から関わってきたから、それから云うと33年目という事になる。感慨深いものがある。大出良知先生が静大の助教授だったころに教え子を連れて、袴田事件資料展にこられた事がある。その時に、「金澤さんこの事件は永く懸かるかもしれませんよ。頭が真っ白になっているでしょうね。」といってられたのを思い出す。
 今村高五郎会長が亡くなられてから、救援会を辞し個人で「真相解明の活動」を続け、「告発・袴田事件」の名で出そうと公開のタイミングを探っていた。どういう出し方をするのがいいのか、分かりやすく、信憑性が伝わる描き方を探っていた。
 そして、なにより真犯人たる人に自ら名乗り出るよう促すものにした。それが、「少女の時はとまった」である。
 本にして出版するという方法を従来の人たちはとっていた。幸い、2005年頃より「ブログ」を無料で提供されるという時代になった。日記を書くように「告発・袴田事件」も出せる「少女の時はとまった」では人物名の頭文字をローマ字表記にし、ある記者のブログに触発される形で2011年12月22日から書き始めた。翌年の2012年6月29日にはおわれるようにした。そして「少女」に警察への出頭をブログを通して促したのである。しかし、それがなされない場合は再録段階から実名を公開する事を付記した。
 「告発・袴田事件」では、袴田巌さんが無実である事の最短距離の証明に心がけた。それが「死体は動かされた」である。また、基礎捜査の資料が改ざん・ねつ造される過程や真相を残そうとする捜査員の姿勢を踏みにじる幹部の諸行、死体鑑定書への改ざん介入への抵抗の跡を明らかにした。旧証拠の中にもこれまで使われていない無実を証明する証拠を明示した。この事件を通して何故冤罪が発生するのかの構造的な問題を浮き彫りにした。さらに、法体系の欠陥について、一事不再理、証拠法の不存在、法治主義と手続き主義など法の精神が欠如している事を述べた。これらは、いまだにたくさんの冤罪がある事に対する警鐘であり、冤罪に取り組んでおられる諸兄へのノウハウの提供となれば幸いである。
 亡き今村高五郎会長の遺志もまた、多くの冤罪をなくすための一里塚を作れと云われていたのである。


 
by kanakin_kimi | 2014-03-27 20:55 | 告発・袴田事件 | Comments(0)