カテゴリ:写楽鎮魂( 9 )

光と陰/明と暗/プラズマと闇

光と闇
 わたしは、以前「東州斎写楽」は、「北尾政美」が「鍬形慧斎」になるキッカケの「絵」を描いた時の「仮名」である事を別の言い方で書いた事がある。
 「北尾政美」は兄弟子の「北尾政演(山東京伝)」から多くを学んだのであろう。そして、兄弟子を深く敬愛している。「北尾重政」の屋台骨を引き受け次の者(重政・豊国などの孫)につなげている。それは、単に「北尾派」だとか「鳥居派」・「豊国派」だとかに拘泥する事なく、才能ある若者を「北尾工房」で学ばせたように思われる。それは、「松平正信」をバックアップする集団によって「田沼意次」を追い落とした事の意味しかない「寛政の改革」が、今日から見ると如何に「百年後退の愚革」であったかを物語っており、「田沼時代」がつづいていたら「明治維新」は必要がなかったわけである事を思い知る。結果論とはいえ、とにかく残念でならない。
 その「闇」を象徴しているのが「東州斎写楽」なのだと思うである。
「多くを知るものは、その知るに溺れると痴れ者になる」ことを認識できないようである。「智の巨人」といわれるが「知」の間違いではないのかといぶかる。
 写楽絵を「肖像画」として受け取れるのは、第一期の大首絵だけであろう。しかも、初刷りだけであろう。これは随分高かったに違いない。庶民が手にすることはできないだろう。今でもそうだから。
 いずれにせよ「光と闇」を次のように見る人もいる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
浮世絵師「写楽」の謎と真実
 東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく)、世間では「謎の浮世絵師」と言われています。
 江戸中期に登場した写楽は、その素性が明らかになっていないことから謎が謎を生み、様々な「別人説」が唱えられるようになりました。歌麿、北斎、豊国、山東京伝、十返舎一九、谷文兆、司馬江漢、版元・蔦屋重三郎等々、当時活躍した「著名人」達が次々に別人として疑われ、作品特有のデフォルメされた表情ともあいまって、写楽は日本美術史で特別の地位を得ました。

 海の向こうではシェークスピアの「別人説」もあるそうですが、現代のような記録体系のない過去の時代において、特定の人物の素性を確定するのは極めて難しい作業なのです。
 近年、写楽は阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であったとほぼ確定されています。斎藤十郎兵衛であることは、江戸時代の資料にも名があった「本命」であり、様々な「別人説」はこじつけの感がぬぐえません。











(イ)


(ロ)


(ハ)









  ≪おなじみ写楽の有名作品より≫

  (イ)市川蝦蔵の竹村定之進(いちかわえびぞう の たけむらさだのしん)
  (ロ)大谷鬼次の奴江戸兵衛(おおたにおにじ の やっこえどべえ)
  (ハ)三代目佐野川市松の祇園町白人おなよ
(さのがわいちまつ の ぎおんはくじんおなよ)

 写楽作品は、歌舞伎役者を(超リアルに)描いていますが、作品のタイトルは、「演じている役者名+役柄名」のセットになるため長くなります。(ハ)の場合は、女形ですので、男の俳優名と女の役柄名になりますし、画面上に二人の役者が並んでいる作品では、タイトルはさらに長くなります。

 役者名と役柄が判れば、当然「演目」も判明し、さらに「場面」も推測することができます。
 (イ)で言えば、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」という演目で、娘・重の井が犯した不義のために腹を切らなければならなくなった能役者の父・定之進の苦悩を、名優・市川蝦蔵が演じているシーンということになります。
 ちなみに、蝦(正しくは魚偏なのですが文字が見つかりませんでした)蔵の「えび」の字が現代のように「海老」でないのは、五代目・団十郎が養子に六代目を譲るのに際して、自らの存在を雑魚としてとらえ、あえて「蝦」の字を充てたと言われています。

 絵画は「読み解くもの」との考え方がありますが、その絵師の素性を含め、まさに写楽の役者絵は、読み解くものであるのかもしれません。





 
 さて、そんな写楽に関するトピックを、ふたつ。

 まず、写楽に関する「誤解」を解きたいと思います。
 写楽の名が日本美術界で語られるようになったのは、ドイツ人ユリウス・クルトが写楽の研究本“SHARAKU”を1910 (明治43) 年に、ミュンヘンの出版社から刊行したことによります。この本をきっかけとして、写楽が日本だけでなく欧州でも俄然注目され、浮世絵の大量海外流失にもつながっていきます。

 この“SHARAKU”の中で、クルトは、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」として位置づけたとされてきました。
 しかし、クルトのほとんどの著作や論文を確認してもそのような記述は見つけることはできませんでした。そもそも木版画独自の芸術性を高く評価するクルト博士が、レンブラント、ベラスケスという時代もバックボーンも異なる西洋の油彩の巨匠を同列に並べる必然性はなかったのです。
 クルトを犯罪者に例えて申し訳ありませんが、博士にはアリバイがあり、尚かつ動機もなかったのです。

 そして何より、真犯人を見つけることができたのです。
 写楽を「三大肖像画家」に組み入れたのは,大正期に活躍した評論家の仲田勝之助という人物でした。1925年(大正14年)に刊行された仲田の、日本で初めての写楽研究本『写楽』にこんな記載があります。

 写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…(略)…一九一〇年…(略)…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。

 ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の写楽研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし,レンブラントやベラスケスと写楽を並べてしまいました。この後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったのでした。

 来年、2010年は、“SHARAKU”の初版刊行からちょうど100年を迎えます。その前に、クルトの「汚名」をそそぐ必要があるのです。



 ご参考までに、日本で公開されたことのある、レンブラント(オランダ)とベラスケス(スペイン)の傑作を・・・。

(左)レンブラント「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」(1630)
(右)ベラスケス「薔薇色の衣裳のマルガリータ王女」(1653-54)




 二つ目のトピックは、先頃まで両国の江戸東京博物館で開催されていた『写楽・幻の肉筆画』展について。

 ゴッホ、モネ、ゴーギャンらヨーロッパの画家たちに、日本の浮世絵が多大なる影響を与えたことは、よく知られています。では、これらの画家はどうして浮世絵を手に入れることができたのか? つまり、よく言えば「流出」、有体に言ってしまえば日本人の誰かが海外に「持ち出し」て、儲けていた訳です。
 その象徴的な出来事として、昨年ギリシャの小さな島にある美術館で、写楽の「肉筆画」が発見されました(読売新聞は一面トップでビッグニュースとして伝えていました)。写楽は、版画の下絵絵師であり、真筆の「肉筆画」と認められるものは過去に一点しかありませんでした。
 この二点目の「肉筆画」は、写楽が浮世絵師を辞めてしまったあとの歌舞伎演目を主題にしているため、研究者の間でも注目作品となっています。

 で、この「肉筆画」を中心に、(もちろん読売新聞の主催で)先頃まで開催されていたのが、『写楽・幻の肉筆画』展です。
 この展覧会で驚いたことがありました。

 
 まず、写楽の肉筆画の繊細さ。版画と違って、細い輪郭線で描かれた人物像は、不思議なリアリティを持っていたこと。

 次に、北斎、広重、歌麿など実に多数の浮世絵が、ギリシャの美術館にあるということは、一体どけほど「持ち出し」されたことか、とちょっと怒ったこと。
 ただし、ヨーロッパで美術品として大事に保管されていたから我々は観ることができたのであって、日本にあったら捨てられていたかもしれない・・・・・この辺が、悩ましい。
    


ギリシャで見つかった
写楽の肉筆画 「扇面」

「四代松本幸四郎の加古川本蔵と
松本米三郎の小波浪」
(よんだいまつもとこうしろう の かこがわほんぞう と まつもとよねさぶろう の こなみ、寛政7=1795年)



講談社文庫。¥620
1993年刊(親本は1990年刊)

 
 さて最後の驚きは、会場出口の物販コーナーでのこと。
 写楽の画集は何種類も販売されている中で、いわゆる研究本は『東洲斎写楽はもういない』という文庫本一種のみが販売されていました。

 実はこの本、我が師匠の明石散人先生と一緒に1990年に出版したものです(文庫化は1993年)。もちろん、「写楽=斎藤十郎兵衛」説に立脚しています。
 20年を経て、まだ取り扱っていただけるということは、うれしいことです。逆に言えば、この本以降に出た各種の「写楽研究本」で、これに勝るものはなかったということなのかもしれません。







(2009.9.20 )





《追記》

上記の内容をもとに、『大好きドイツ! エッセイコンテスト』という公募に応募したところ、「優秀賞」を頂戴することになりました。
何故ドイツかといえば、もちろん上にご紹介したユリウス・クルト博士が「写楽」を発見したことによります。そして今年がちょうど100年ということになります。

たまたまこのコンテストのことを知り、100年の節目でもあるので応募したところ、幸いにも賞を頂戴した次第です。ちなみに、私個人はドイツへいったことはありません。

もうひとつちなみに、今年は宝石の1カラットが0.2gと決められた明治42年からも100年めです。

上の内容と重複していますが、受賞作品を掲載いたします。










(2009.10.30 )






「写楽」を教えてくれたクルト ==100年目の新事実==

                佐々木幹雄

 ユリウス・クルト(Julius Kurth)……現代のドイツで、この一世紀前の日本文化研究家の名を知る人は、果たしてどれだけいるのでしょうか? ひょっとしたら、知名度は我が国の方が高いのかもしれません。それはとりもなおさず、クルトが「写楽」という浮世絵師の名を世に広めたという一点につきます。

 1910 (明治43) 年、ユリウス・クルトは浮世絵師・東洲斎写楽の研究本“SHARAKU”をミュンヘンの出版社から刊行しました。その後の研究成果を踏まえ、1922(大正11) 年には「第二版」も出版されています。

 江戸中期に登場した写楽は、その素性が明らかになっていないことから様々な「別人説」が唱えられ、いつしか謎の浮世絵師と呼ばれるようになりました。歌麿、北斎、十返舎一九等々、当時活躍した「著名人」達が次々に別人として疑われ、作品特有のデフォルメされた表情ともあいまって、写楽は日本美術史で特別の地位を得ました。近年、写楽は能役者・斎藤十郎兵衛であったとほぼ確定され、まさにクルトが一世紀前に指摘していた通りだったことが明らかになっています。

 クルトは二つの点で誤解され、まさに誤解がもとで、その名が日本美術研究史に残ったと言うことができます。

 まず第一に、クルトは「写楽御用達」ではないということ。1907年、浮世絵師の喜多川歌麿についてまとめた“UTAMARO”を、1910年には“SHARAKU”の前に、鈴木春信を題材に“HARUNOBU”も刊行しています。クルトは日本の詩歌にも通じ、晩年まで日本の木版画史をまとめることに尽力していて、決して写楽だけを研究していたのではありません。日本文化全般を視野に入れ、生涯をかけて研究を続けた人だったのです。

 そして第二に、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ「三大肖像画家」として位置づけたとされる点です。しかし、クルトはどこにもそんなことは書いていません。恥ずかしながら、私自身も写楽に関する論考を発表した時、この「三大肖像画家」説を披露しましたが、後にクルトのほとんどの著作や論文を確認してもそのような記述は見つけることはできませんでした。そもそも木版画独自の芸術性を高く評価するクルトが、レンブラント、ベラスケスという油彩の巨匠を同列に並べる必然性はないのです。クルトを犯罪者に例えて申し訳ありませんが、博士にはアリバイがあり、尚かつ動機もなかったのです。

 そして何より、真犯人を見つけることができたのです。写楽を「三大肖像画家」に組み入れたのは,大正期に活躍した評論家の仲田勝之助でした。1925年(大正14年)に刊行された仲田の『写楽』にこんな記載があります。

 写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…一九一〇年…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。(一部省略し、仮名遣いを改めた)

 ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の写楽研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし,レンブラントやベラスケスと写楽を並べてしまいました。この後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったのでした。

 これら二つの誤解をクルト本人が聞いたならば、どんな感想を持つかは、もう知る術もありません。

 来年、2010年は、“SHARAKU”の初版刊行からちょうど100年を迎えます。昨ギリシャで見つかった写楽肉筆の「扇」が展観されている今、写楽の名に付随してクルトの名が、また日本人の目に留まっています。

 私にとってドイツとは、一世紀も前に、日本文化に対してとてつもない精力と情熱を傾けて研究したこのクルト博士こそが、完璧にイコールしています。

 ベルリンの書斎で、訪れたことのない東洋の島国・日本へ、直に接することのできない一世紀前の江戸の文化へ、熱く思いを馳せながら、難解な日本語の文献を繙いていたクルト……。写楽から二世紀、さらにクルトから一世紀を経て、日本に暮らす私は、クルトを通して、訪れたことのないドイツへ思いを馳せています。写楽に魅せられたことをきっかけに、クルトの著作を少しずつ集めていますが、いつかはドイツを訪れ、クルトの書斎を見、クルトを生んだ柔軟な文化を持つドイツの空気を吸い込んでみたいという思いに、強く強く駆られているのです。
by kanakin_kimi | 2015-05-28 12:02 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

北斎鎮魂・歌麿鎮魂

編集再録します。
「二人の剽窃」と「栄之と歌麿・北斎の鎮魂」

「葛飾北斎」と云ってもこの時は「勝川春朗」であるが、その春朗が「勝川派」を破門されるという事件がある。

 その原因についていろいろ云われているが、最大の問題は「勝川派」の画風に見切りを付けたのか、他流派の画風を学んでいる事をとがめられていた事が云われている。
寛政五年末に勝川派を破門され、俵屋宗里の名で出すのが寛政七年と云われている。
 ちょうどこの間に「東州斎写楽」が出現しているのである。この事が、北斎と写楽が同一人物ではないかとの混乱を与えている。
 しかし、わたしの中では北斎が写楽ではない事がはっきりとしている。
春朗が勝川派をやめることになる原因は別にある。

それは、「東洲斎写楽の絵の出現」と関係している。

 勝川派の画風を踏襲している春朗もまた役者絵を描いていた。
寛政五年の中頃以降寛政六年の四月末までの間に北尾政美の描いた役者絵を見たのであろう。
春朗はその出来映えに驚愕して、ショックを受け、以来役者絵から撤退することになった
のではないか。
そして、それ以来結果的に、北斎の作品のオリジナリティの前に常に政美がおり慧斎がいたことになったのであろう。北斎は徒手空拳、絵の道を追求していく。
また、もう一人の剽窃の人は喜多川歌麿である。
それは、蔦屋重三郎に見出され、重三郎とともに蔦屋を発展させてきたという自負をもっている歌麿が蔦屋をやめることになった事件である。
「松葉楼装ひ 実を通す風情」の大判錦絵黒雲母刷りの豪華版がこの事件の発生を証明していると思うのである。
この作品についての謎を追求していく事でそれが明らかになるのではないかと考えている。
 今の段階で云える事は、これほどすばらしい作品であるのに、歌麿の代表的作品の中に何故これが含まれていないのかという事である。わたしが見る限り、歌麿の作品の中でも群を抜く程の出来映えだと思うのである。
これはどういう事か、歌麿筆 となっている作品「松葉楼装ひ 実を通す風情」はわたしの見立てでは、これが「歌麿」の作品であれば、間違いなく『歌麿』の最高傑作と言っても過言ではない。
ところが専門家の評価は必ずしも同じではない。
もしも「最高傑作」との評価がされているならば、
「浮世絵大系 6 歌麿/栄之」(監修菊地貞夫、昭和50年11月30日集英社刊)「名宝日本の美術22  歌麿」(執筆狩野博幸、監修太田博太郎・山根有三・米沢嘉圃、昭和56年3月20日小学館第一刷)には掲載されていないはずがない。
また、「太陽浮世絵シリーズ 歌麿」(監修渋井清一九七五年一月二十五日初版第一刷平凡社発行)にも掲載されていない。
そしてまた、「浮世絵名品撰 歌麿」(福田和彦編著 KK ベストセラーズ発行)にも掲載されていなかった。
さらに、「原色日本の美術17 浮世絵」(菊地貞夫 編著小学館発行)にも、歌麿の作品が掲載されているのにこの作品は取り上げられていない。
 結局「写楽・歌麿・北斎・広重 四大浮世絵師展 中右コレクション」(監修中右瑛 神戸新聞社発行)に始めてみることができた。
 実際のところは、この本からの逆行的構成を試みたのである。
「歌麿の代表作」なのであれば、これが採用されない筈がない。ところが、これを「歌麿の代表作」として採用されないばかりか、この作品そのものをも採用されていない。
 これは一体どういう事なのであろうか。どうやら、「作品そのものの評価以外の問題が内在している」と言う事を示しているようである。
 それは何かというと、「歌麿の作品ではないのではないか」と言う疑いをもっていたからではないだろうか。たしかに、「歌麿筆」のサインは書かれている。そうであるからが故に発生した問題が由来しているように思えてならない。わたしの推理では次のように考えている。
その問題と言うのは、浮世絵の美人画の大家であると評されていた「鳥文斎栄之」と「喜多川歌麿」の間に生じた問題で、一説では「歌麿が栄之の作品を揶揄し中傷した」という事を発端にして、栄之の弟子である『鳥橋斎栄里』が自分の作品を歌麿の作品の中に紛れ込ませていた。
歌麿がそれと知らずに「歌麿筆」のサインをしてしまって、後になってそれと気づいた時のショックが『蔦屋』にいられなくなってしまった原因になったのではないだろうか。
その『因縁』の絵が、「松葉楼装ひ 実を通す風情」だったのではないかと思うのである。
そして、それを描いた「鳥橋斎栄里」は鍬形慧斎であり北尾政美である、とわたしは考えている。
 後年の鍬形慧斎紹真を思うに、養子の名を「鍬形赤子継意」としたところなどは、過去のいたずらを恥じているようにも思えるし、自分の名に「紹真」を入れた事にも、田沼意次を心底尊敬していたのにも関わらず、松平定信の云うがまま協力してきた事への忸怩たる思いを感じるとともに、「真実を注入する覚悟」を観るのである。
 したがって、彼の作品の中にちりばめられた真実の注入を掘り出すのが彼の作品を所蔵している人々の責任であると断言しておこう。
 何せ現物でなければそれを見いだす事が出来ない隠し絵で、定信に突きつけた覚悟の作品である。
同時に、わたしはこれをダヴィンチの「モナリザ」と、自分のオーラの上で比較したし、上海万博で出ていた「清明上河図」とも比較したが勝るとも劣らないものであった。
「職人尽絵詞」の「詞」を書いた人は、上巻−大田南畝(四方赤良・蜀山人)・中巻−朋誠堂喜三二(手柄岡持・平沢平格)・下巻−山東京伝、の三人である。それぞれ当時の大家が、老境の遺言を一年がかりでしたためた覚悟の文章である。徒や疎かには出来ない「詞書」だろう。
 一方では、それを承知で、反田沼派の定信は寛政改革と云う時代の陥穽に身を置きつつ、なにがしかやろうとした時に外された。その身を白河夜船で松浦静山に「甲子夜話」を通じて、また谷文晁等のプロジェクトを通じて、そしてなにより鍬形慧斎の画業に「江戸文化の華」を形成する仕事をしたのである。さまざまの仕掛けに、耐えられる大局観が鍬形慧斎にはあったのである。この総合力はどこからくるのであろうか、一介の畳屋の息子三二郎を起点とすると見えてこない。同じ畳屋でも公儀・大名屋敷に出入りする畳屋となれば情報収集の忍びを連想させる。赤羽という名字持ちである。父の田中義珍もまた東海道耀海寺の大檀家に並ぶ田中家の出である。田沼意次を陥れる一団がこの近辺に常宿していたと考えられる。
by kanakin_kimi | 2012-06-24 14:44 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

写楽 鎮魂7

「写楽絵」は、松平定信が鍬形慧斎に「江戸歌舞伎」を見ることができない遠方の諸大名の子女に臨場感ある絵本を「鍬形工房」で制作させたもののようで、その後「蔦屋」で「黒キラ刷り」にして出したもののようである。
しかし、どうもそれだけでは説明がつかない問題がある。
それは、第一期の「大首絵」である。「大首絵」は「役者絵」「錦絵」というよりも、まさに「肖像画」である。
鍬形慧斎は定信の指示で多くの仕事をしている。「農書」「地誌」「名所図絵」「職人尽くし絵」「鳥瞰図」「真景図」「山水・草花・魚貝・略画式」など、「百科全書」を思わせる。
定信は、谷文晁等の絵師に「集古十種」をつくらせるプロジェクトを進めており、鍬形慧斎もその一員だったのではないかと思われる。
一方で、鍬形慧斎は松平の指示で狩野派の絵の技術を学んでいる。狩野派の「鳥文斉栄之」からも学んでいる。「鍬形慧斎」の名で描けない春画は「鳥橋斎栄里」の名で書いているのではないかと考えている。
また、鳥文斉栄之は時おり「細田栄之」の名で描いており、鳥橋斎栄里も又「細田英里」の名で山東京伝の肖像画を描いている。
この肖像画をみれば、写楽の第一期大首絵「尾上松助の松下造酒之進」や「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」と比べみてあらゆる点で同じ人物の描いた肖像画であることが見出せる。
でも、こんなことは専門家は百も承知のことでしょうから驚くことではない。
従って、「細田英里」=「鳥橋斎栄里」=「鍬形慧斎」=「北尾政美」=「東洲斎写楽」ということになり、「鳥橋斎栄里」は後「礫川永里」の名に変えて教訓物「風流女今川」を描いている。
このように考えると、私としては合点がいき、これによってこそ「写楽」の鎮魂となるのではないかと思うのである。
by kanakin_kimi | 2009-09-23 21:37 | 写楽鎮魂 | Comments(2)

写楽 鎮魂 6 特別展の紹介  

写楽の肉筆画 ギリシャで発見 

 独特の役者絵で知られる江戸時代の浮世絵師、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が扇面に「忠臣蔵」の一場面を描いた肉筆画が、ギリシャ国立コルフ・アジア美術博物館に所蔵されていたことが明らかになった。学習院大学の小林忠教授らによる国際学術調査団が鑑定し、真筆と判定した。写楽の肉筆画は極めて珍しく、貴重な新発見といえる。見つかった扇面画には、歌舞伎の代表作「仮名手本忠臣蔵」を題材に、四代目松本幸四郎が演じる加古川本蔵と松本米三郎が演じる小浪(こなみ)が描かれている。調査団に参加した美術史家・辻惟雄(のぶお)氏によると「知られている肉筆画と比べたところ、落款や役者の表情のとらえ方が極めて似ていた」という。内藤正人・慶大准教授は「写楽の正体に迫る重要な資料」としている。(08年8月4日付産経ニュース伝統芸能のニューストピックより引用)

日本・ギリシャ修好110周年記念特別展「写楽 幻の肉筆画」
 ギリシャに眠る日本美術〜マノスコレクションより

開催期間
2009年7月4日(土)〜9月6日(日)
開催場所
江戸東京博物館 1階 展示室
          ギリシャ国立コルフ・アジア美術館(所蔵)
e0011938_20301284.jpg

by kanakin_kimi | 2009-04-28 20:56 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

写楽 鎮魂 5

寛政6年5月から寛政7年1月の間10ヶ月の歌舞伎に関わった役者の肖像画を描いたということはおぼろげながら理解できても、どのような内容で、写楽がその中からどうしてあの部分を切り取ったのか、さっぱりわからなかったのである。

いつもの古書店で探していて見つけた。表紙に写楽と書いていたらすぐ手にとってしまう癖がいつの間にか出来ている。
昭和62年5月20日第一刷発行の渡辺保著「東洲斎写楽」は、著者が「演劇評論家」だけあって、歌舞伎に対する造詣が深く、大変貴重な資料となった。

この著者の「写楽像」は、結論は「狂言作家・篠田金治」としているが、私には何故そうなるのかよくわからない。というのは、指摘されている「過程」と「結論」に大きな落差と言うか乖離を感じるのである。

「写楽絵」は、「役者のブロマイド」ではなくて、「芝居の内容を描く絵」「一人一人の役者の姿よりも作品の内容を描こうとした」のだとしている。さらに、「写楽絵」の作者は、「芝居絵の世界のよそものである」、そして、「芝居を見ることができない人間のために、芝居の内容を伝えようとした」といっている。

この貴重な的を射た指摘にも関わらず、何故その目的の対象を「狂言作家・篠田金治」という市井の「一般芝居観劇者」に視点がいっているのか合点がいかないのである。

私は、「写楽絵」を書いた目的は渡辺氏が言われているところとほぼ同じであるが、「上方文化・京文化の錦絵や芝居作品とは違う坂東文化・江戸文化・徳川文化を象徴する錦絵や芝居作品」を創らせたかったのではないかと考えるのである。
 従って、作者の名も上方の錦絵の創始者である「西川祐信」に対抗して、坂東・江戸の「東洲斎写楽」としたところにその目的を象徴しているのではなかろうか。そして、それをみせたい対象は「松平定信ら」支配階級のものであったのであろうと思う。
 だから、「大谷広次」も「団十郎」も勿論描いているはずだと思うのである。それなのに、なぜ「黒キラ刷り」の方に回ってこなかったのかというところには別の重要な意味合いがあるはずである。
おそらく、それは「黒きら刷」の原本の「黒きら」を洗浄した時に浮かび上がってくるのではないかと思うのである。
by kanakin_kimi | 2009-03-18 18:09 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

写楽 鎮魂 4

「秘密にする強い必要性」とは何か。

近所の「古書店」でいつものように手頃な古文書はないかと特別何の目的というものもなく探していた。ふと手にとった和本に「星月夜萬八実録 四(巻7/8)(天明六年)」と読める写本があった。

見てみると、田沼意次やその子意知に関するずいぶん執拗な、誹謗・中傷するもののように思われ、これはなんだ!と、すぐ購入した。著者は「林泰教(はやしやすのり)」とある。この著者の名で検索しても「星月夜萬八実録」の翻刻本が売られている事がでるだけで、「著者/林泰教」氏の事についてはわからなかった。そこでとにかく全体像を知りたいと思い「翻刻本/星月夜萬八実録/翻刻者棚橋宗馬」を購入した。
翻刻者によれば、翻刻するに際し、自分の所蔵する写本だけでなく、東京大学図書館、天理大学図書館の所蔵する写本で校訂して、翻刻作業を行ったとしている。

私の斜め読みしたところでは、「田沼政権失脚を狙って」「水戸治保卿によって意次罷免を成し遂げ」た「松平定信」が、特定できないが松平につながる林述斎を連想させる人名「林泰教」をもって限定出版したものであろうと思われる。

この「星月夜萬八実録」は全部で十巻になる。棚橋宗馬氏の翻刻活字本は、現代文を含めて193頁である。

何故このことを「写楽 鎮魂」に書くのかというと「秘密にする強い必要性」が「松平定信」と関係するからである。それに「星月夜萬八実録」等という命名も洒落た事をするではないですか。
by kanakin_kimi | 2009-03-13 17:53 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

写楽 鎮魂3

しかし、上方浮世絵師が蔦屋で仕事をしていたというはなしは聞かない。
あるとすれば、寛政五年十月頃上方から十年ぶりに江戸に帰ってきた重田市九(十返舎一九)が並木五瓶
の紹介で山東京伝に、また京伝の紹介で蔦屋で仕事する事になったという事実である。
ブログ「求愚庵日記」の草舎人(伊藤公芳)氏による「十返舎一九伝」では、上方で錦絵を創始した流光斎の弟子の松好斎を江戸に呼び寄せ、松好斎を中心に、第一期は松好斎が、それ以降は一九が担当して「写楽絵」が版行されたとしている。
わたしは、上方の錦絵も「写楽絵」につながる要素があることをはじめて知りました。
しかし、私には腑に落ちない「オリ」がのこりました。それは、強力に「秘密」にしなければならない要素です。
「写楽」の正体を秘密にしなければならない「強力な要素」とは何なのか。それを明らかにしなければ、「写楽」も浮かばれないだろう。
WBCの日本:韓国戦で、14:2の7回コールド勝ちという凄みを見せてしまった。見ていると政治的指示に従っていたものとガチンコ勝負に力を発揮したものとの色分けが見えてしまった。オリンピックで見せたそれにこの政治的指示の混乱があの結果を生んでしまった事に合点がいったのである。「なべつね」の権力に屈してその「政治的指示」を受け入れた「星野J」があの結果になるのは当然だったのだと納得したのである。本当に「野球を面白く」し、本当に「韓国」との「友好」を大切にするならば「ガチンコ勝負」をしなければいけない。
「写楽」を本当にその「芸術性」を大切にするならば、外国の評価によってみ直されるようなていたらくをくり返してはいけないと思う。外国の研究者によって「写楽の謎」が解明されて、初めて見直される何ぞはやめてほしいのだ。このことと一緒なのだ。もう、いいかげん「写楽」は卒業しなけりゃあと、ため息が出るのだ。
知っているくせにひた隠しにしている専門家の奴らに腹が立っている。「目垢がつくから」とか「値段が下がる」とかいって、「真実を隠す奴ら」にいい加減頭にきている。
「お遊びだよ」ってすましているようだが、もう許される事ではないと思う。秘密にしている事が多くの無駄をつくっているからだ。見てみるがいい、著作権も切れているのに公開しない美術品のたくさんある事。「國華」だって中身をITで公開すればいいではないか。
小沢問題でも、いずれ三すくみになって収拾がつかなくなるのではないか。
アメリカは、軍事費削減を徹底して行わなければ「経済改革」にならないのだ。その支援の一つとして海外派兵している軍隊の撤退は当然であり、小沢発言を圧殺する等ハ見当違いも甚だしいのだ。いわんや、政治資金規正法関連で小沢氏の秘書を逮捕するなら、自民党関係についても徹底してやらなければおかしい事になるわけで、それをやらずに曖昧な事をすると「三すくみ」になるのだ。
真実を明らかにしないで、いると「アメリカの改革」もできなくなるのではないか。
オバマさんもこの問題は、きちっとしないといけない。従来どうリの圧力がけでねじれをつくっている場合か。
by kanakin_kimi | 2009-03-08 00:20 | 写楽鎮魂 | Comments(1)

「写楽」鎮魂 2

写楽が描いたとされる第一期の「大判錦絵」は28枚だといわれている。それは、寛政6年5月の三座を描いている。
1、都座「花菖蒲文禄曾我」 11枚
2、桐座「佐々木岸柳 志賀大七 敵討乗合話」
    「花菖蒲思簪」(浄瑠璃)       7枚
3、河原崎座「恋女房染分手綱」
      「義経千本桜」(切狂言) 10枚    合計28枚である。

しかし、今日でも芝居公演の役者のブロマイドは、公演をやってから版行するのではなく、公演内容をあらかじめ練習中か事前再現した上でブロマイドを作り、公演の宣伝に使うのである。このことは今までの謎解きをしてきた方々は、当然織り込み済みのはずだろう。

また、写楽の絵は「写実的な絵」であり、「デフォルメ」しているとまで云われるぐらい真に迫っていた。そのような描き方をするのは「江戸浮世絵」では「勝川派」であろう。

寛政5年頃に勝川春朗として15年やってきたその絵でさえ、とても写楽の比ではない。
ここで勝川春朗が勝川派から破門されるというのであるが、むしろ、春朗自身が後に写楽の名がつくその絵を見て「役者絵」を書くのを断念するほどのショックを受けたのではあるまいか。

一方、「上方浮世絵」では肉筆画は古くから行われていたが、版画は江戸浮世絵から遅れること30年、寛政3年になって、はじめて流光斎如圭によって創出された所である。(上方浮世絵の周辺、羽生紀子氏発表よりの知見)

が、その出来栄えはすばらしく寛政6年の時期には「写楽絵」は上方絵師によるのではと思わせるほどのものである。
by kanakin_kimi | 2009-01-23 17:09 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

「写楽」鎮魂 1

「北斎」は、安永7(1778)年、勝川春章の弟子になり、翌年「勝川春朗」で役者絵数枚を発表デビューしている。
鳥居派の役者絵が誰を見ても同じパターンの顔に描く形式主義であるのに対して、勝川派の役者絵は役者その人を描く、写実主義である。

「写楽」の役者絵は、「役者の姿絵」というより、「役者その人」を描き、しかも、その所作・所作の瞬間を凝視して、その瞬間の怒り・悲しみ・等の想いの「気と情念」を描き出して見る人の心を鷲ずかみにしている。
それは、勝川派の写実主義をはるかに超える絵となっている。

勝川春朗はデビューして15年、それを寛政5年末頃までにどこかで見たのであろう。その後勝川春朗は役者絵から撤退する。

その絵には「写楽」という名はなかった。その大首絵には役者の名と役名がかかれ、瞬間の情念が描かれ、その役どころなどの説明や模様デザインが記されていたのではないかと思われる。
したがって、その時のものは黒きら刷りではなかった。

東州斎写楽の名が書かれ、黒キラになっているものがその当時のものではないのかと思っている。黒キラがはげ落ちたその下に、それが現れてくる。
by kanakin_kimi | 2009-01-13 10:07 | 写楽鎮魂 | Comments(0)