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真実の構造 3

多くの悩みを抱えている人は、体にもその影響が及び変調を来すものである。
身体と心は一体のものである。しかし、それはゴムひもで結ばれたような関係で、ある時は遠くにはなれている時もあるし、ある時は身体と密着して身体の中に閉じ込めてしまっているような事もある。
私は、此のゴムひもで結ばれたような関係について「本能からの観念体の一人歩き」とよぶことにしている。

人が生まれたとき、本能に支配された生活をしている。しかし、今日の進化した人は「本能からの観念体の一人歩き」の「機能というか能力」をもってうまれる。

生まれて、周りの人たちの協力を得て学習していく。情報とそれを扱うシステムがより便利により豊富になっていくに従い、脳力成長の時間は益々短縮される。

他方では、脳力成長と身体的能力との間にアンバランスが生じ始める。それぞれの個体で自分で自制できない問題が発生する。ところが、周りの人はその事を認識できないためにその個体との間に齟齬が生じる。その現象が今起きている。

それは、人類が誕生した時にも生じていた。本能に支配されている者たちの生活パターンの中で、本能から独立する観念体の一人歩きの能力を身につけた個体が発生したのである。

周りは、「本能に支配されている者」である。個体「本能から独立する観念体の一人歩きの能力を身につけた者」との間にどんな問題が発生するかはもはや明らかだろう。
by kanakin_kimi | 2005-06-29 16:47 | 特殊相対場論 | Comments(1)

真実の構造

「真実」は、「実態真実」と「仮想真実」がある。

ロマンティストは、「真実は一つである。」という。よく聞く言葉である。しかし、「真実は一つ」と考えている人には「真実」をつかむ事は出来ないと思うのです。

「蓮華が泥沼に根を張っていてこそ、あの大きな花を咲かせる。」という事実を「例えばなし」にされるように、水面を境にするか、あるいは「表」と「裏」の境にするか、いづれにしろ「人の思い」の「様々」はそれぞれ「真実」なのである。それが「まちがっていようが」「まちがっていなかろうが」「そう思っているという事実は真実なのである。」

それは「実態真実」ではなく「仮想真実」なのであろうか。いや、これは「実態真実」と「仮想真実」の複合と云った方がいいだろう。というのは、「人の思い」というものは時々刻々変化する。物体としての身体というものの変化と、精神としての認識というものの変化の違いがもたらしているからではないだろうか。
by kanakin_kimi | 2005-06-26 13:51 | 特殊相対場論

実態真実と仮想真実

「真実」には、「実態真実」と「仮想真実」があります。
「実態真実」は、「実態」そのものの「真実」であります。他方、「仮想真実」は「データ」や「情報」などを使って人の「認識」がそれを組み立ててできた「真実」であります。
人は、「学問」で「真相解明」を行い、飽く事なく「仮想真実」を「実態真実」にちかづけてきました。つまり、「実態真実」を認識するために、「実態真実」により近い「仮想真実」にしようとして、「認識」をたかめてきたのです。

「仮想真実」は、それ故、人の存在するだけの「多様」さがあったのです。そして、その「多様」さは「人の認識の相違」そのものでもありますし、「多様な文化」としてあらわれています。

より実態真実に近い美しい音を求めて、「音楽」があるように、殺し合う実態真実を否定して、ともに生きる事を追究する「平和学」が生まれなければおかしいのです。
by kanakin_kimi | 2005-06-25 20:21 | 特殊相対場論