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911が、日本の国家主義者の出番をつくった

日本と西ドイツが戦後の経済成長を成し遂げ世界の中でその経済力を盤石にした。
しかし、ドイツは「東西ドイツの統一」というネックを抱え、「EU形成と其の後の運営の負担」によって余力を持ち得ない。
他方、一人、日本が経済力を発揮できる条件にあるだけに、卑屈な程に対米従属の対外政策をとってきたことと関連して、そこから反射的に国家主義が吹き出しているように思われる。
それは、911でとったアメリカの何でもありに進めた、傍若無人さが利用されたようでもある。
瞬間風速では、確かにあのとき、アメリカの謀略と強引なイラクへの侵略、アメリカに反対するものは敵だと言わんばかりの恫喝があったから、背筋に冷風を感じ、対応できる態勢にしておかなければとの思いを抱いたのも事実だった。
しかし、アメリカの良識もまた、歴史的にそのような「謀略」によって、アメリカ国民自身が多大な被害を被ってきたことにも目が向けられ、火を噴いている。
日本のよさは、「一神論」ではなく「多神論」であることなのである。「天皇教と国家主義」というのは、「一神論」なのである。そこのところを、またもや考え違いしているようだ。
憲法改正問題や、教育基本法問題の取り上げ方を見ても、戦後の成功が何処にあったのかの評価能力が欠如しているのではないかと思われる。
太古の昔から、日本は「いいものを取り入れ、自分たちにあった咀嚼をすること」で「世界に冠たる日本文明」が形成されてきたのである。
現憲法もまさにその「日本文明」のひとつなのである。
それなのに、一人『天皇教と国家主義者』達には、それが許せないようだ。
日本列島に共生する人々の安全を守るために必要なことであれば、みんなに真実をはっきり言えばいいのだ。
最初から、国民に隠し事をし、裏で何をしているかわからないような疑心を抱かせる。
そして、当の「大臣が自殺をした」ということで、有耶無耶にしようというのだろうか。
そもそも、「自殺」を信じるものは、客観的に見て信じる方がおかしいというものだろう。
あの国民を愚弄するような行為を、臆面もなく繰りかえして、反省の「は」の字もない「人」の「自殺」の因果関係を見いだすことの方が難しい。
ありていにいえば、「中川」氏や「新井」氏の「自殺」にされた時と「同じにおいがする」。
あれほど多くの国民に対しては、自信を持って、傲岸にも「法にもとずいて」をくり返してきた人が、何故自殺をする決断につながるだろうか。
あの人のために云えば、一つは、「傲岸な態度を取り続けていられた支え、がはずされたショックで自殺した」というものだろうが。
二つは、「あなたは、殺されたんですよ、あなたの、居直りが怖くてね」。
by kanakin_kimi | 2007-05-28 23:13 | 911 | Comments(0)

日本の零細農家が「世界の革命」を指導できる!

いま、日本の零細農家は高齢者化し、あとを継ぐ者がいないところは農業をやめていっている。
これからの基本的な生活様態は、世界的な規模でその基本が規定されてきている。
それは、地球を取り巻く自然環境が「温暖化」「砂漠化」「地軸変動」によって、大激変している。
その大激変がもたらす事象を予測した上で、人類はどのような生活態度を取る必要に迫られているかというところにある。
温暖化して、氷が解け、水が増え、浸水・冠水し、他方で森林の伐採による砂漠化で、食料の窮乏化が差し迫った問題になり、大規模農業を続けてきた地域での土壌崩壊による砂漠化とそれに伴う食料の窮乏化である。
今すぐ取り組まなければならない課題と長期に腰を据えて取り組まなければならない課題があるが、それを併せ持っていることがある。
それは、「水田栽培」を行うことである。そして、各家庭で「自給自足」を目指して、家庭菜園を実践していくことである。もちろん、完全自給が出来るとは思わない。
しかし、各家庭が貧富の差を超えて、国・地方自治体が一体となって、最低でも60坪の菜園を持てるようにして、日本の零細農家が指導者になって「家庭菜園で自給システムをつくる」運動を進めていくことが有効になると考えている。
そして、「直接民主主義のコミューン」による、自給を目指す家庭菜園作りを支援・指導していくことである。
by kanakin_kimi | 2007-05-18 20:48 | 世界革命 | Comments(0)

国家への刀狩りの法律を速やかに成立させろ!

日本には「銃刀法」という「不法所持を禁止する法律」がある。
ところが、それを『製造することを禁止する法律』はない。
個人には禁止しておいて、組織には禁止していない。
民間には禁止しておいて、国家には禁止していない。
特例を、認めている限りその「武器」使用は止められない。
安上がりのクラスター爆弾や地雷で、多くの子供達が死に、また傷ついている。
この後を絶たなければ、ならないことは何なのか。
明らかなはずなのに、そこに踏み込まれていない。
国家が武器を持つ必然があるならば、「国家」をやめなければならない時期に来ているのだ。
原理で考えれば難しくないのだ。
「平和」を大切にするには、それと「対立する原因をなくすことを平和的に解決すればいい」のだ。
by kanakin_kimi | 2007-05-17 09:44 | 世界革命 | Comments(0)

「見せしめ」は、「国家主義」

最近多く目立っていることの一つに、「特待生」問題があった。
その一方で、野球やラグビーのクラブ活動で、一部の不心得者が犯した事件や、事実関係に連座させられて、或は連帯責任をとらされて「当分の間、謹慎処分として試合に出られない措置がとられた。」りされている。
あれって、「個人の問題」と「集団の問題」を「国家主義で考えているのではないか。」と思う。
「政治」と「宗教」を切り離せ、といって「政教分離」をいっているのもそうだ。だから、「創価学会」と『公明党』を分けているけど、実際には分けられない。
「護国神社の総本山靖国神社参拝」と「皇国史観の宗教政治」もまた切り離すことは出来ないだろう。
斬ったり斬られたりしているだけである。
難しくしているようだが、混乱することはない。
個人の問題は、個人の問題として処理すべきであり、集団の問題に転嫁すべきではない。
政治はそもそも「多様の統一」のことなのだから多様の一つを「切り離す」ことそのことが「政治否定」であるのだ。
要するに、どちらも「支配」したいだけなのである。
宗教はそもそも「宗祖のおしえ」であり、「その持てる内容の豊富さが人にどれだけ影響を及ぼし得るかかどうかで決まる。」のですから、「おしえの多数化」ではあっても「多様の統一」ではない。
にもかかわらず、それを利用して「政治を行うこと自体」が自らの「宗教否定」を併せ持つことになるわけですから、宗教的課題と政治的課題に混乱を生じるのである。
一神教と多神教では、最初から基盤が違うのだ。
絶対神をあがめ、それを振りかざして信仰するものを増やしていこうと「多数化しようとする者」が、多数化のために多様の統一手法をとれば、「絶対神否定」にならざるを得ないし、『絶対神』をあくまで真っ正面から振りかざせば「敵対的対立」を避けることは出来ない。
多くの神の存在を認めるところから出発している『多神教』は、最初から「多様の統一」であるのだ。
物事を原理的に考えれば、混乱から解放されるのだが、自らの依って立つ位置の改革を求められることになる。
その勇気のないものは、原理的に考えることを放棄するだろう。
そして、消極的にであれ「見せしめ」に加担することになるのだ。
by kanakin_kimi | 2007-05-15 10:00 | 世界革命 | Comments(0)

「怒り!!」と「感謝」のパラドックス  2

何度もなんども判決文を読み、そこから「真実」を見透かそうとしてきた。
事実認定と結論との間に隔たりがあるのは、それを読むものに混乱を与える効果があることがわかる。
『何だ、これは!!』と思いながら、「自白を得るために汲々として、真実追求の努力をしていない」、との捜査批判をしているクダリは、わたしには束の間の溜飲を下げる効果を示した。
しかし結果は、三人の合議の妥協の産物として、「袴田巌を死刑に処する」という判決が出された。
熊本典道氏はこの判決を出した1968年9月から半年後の1969年5月頃に裁判官をやめている。2007年3月の静岡新聞の記事による現在年齢を69才としているので、判決当時は30才だったのだろう。
自分が書いた「判決」に納得いかない、その納得が司法の組織の壁に押し返され、裁判官をやめることで自分を裁き、同時に抵抗の心を示した。
おそらく、これをみんながやっておれば、熊本典道氏の苦しみはなかっただろう。
これをやらないで、「組織の陰に隠れていた方がよいというのか」
これをやらないで、「何が出来るというのだ」
これをやらないで、「自分を許すことができなかったのだ」
これをやることで、「何かを見いだそうとしたのだ」
という声が聞こえてくるように思える。
一般民衆にとっては、手の届かない遠いところの話なのだが、司法の組織がどうなっているかはそこにいる人の問題だし、そこをのぞかしてくれる訳でもないのだ。
一般民衆にとっては、「裁判官は正しい判断をしてくれるものと思っている。」
一般民衆にとっては、「一般民衆という組織の陰にかくれている。」ことすらわからないのだ。
「裁判官」と「一般民衆」が、「何処ですれ違ったのか。」それすら、相互に、おそらく念頭にないのだろう。
「つながっている」ことを「見失っている」のだ。
「同じところに立っている。」のに「違う階級」とおもわせられているのだ。
それが、『パラドックス』の正体だ。
by kanakin_kimi | 2007-05-04 22:09 | 告発・袴田事件 | Comments(0)