<   2007年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧

CGの技術は、謀略に使われてきた

そう云われれば、40年も前に「人類の大きな第一歩」を「月面」にしるしたあの感激は、わたしにとっても大変大きなものでした。自分の夢が実現したような気持ちで、テレビの画面に釘付けされていました。そんな風景が世界に展開していたのだと、今にして思い浮かんでいるのです。
あの夢のような出来事はすっかり「真実」として刷り込まれていました。いまさら、あれが嘘だったなんて言わないでもらいたいと思う程のものなのです。
ところが、01・9・11のツインタワーが崩壊していったあの事件を「テロ」と云って「戦争」をはじめたアメリカのやり方を目にして以来、あのアポロ計画をも見直すことにしたのです。
当時の発行された本や情報を出来るだけ集めるようにしています。何が真実なのか。何のためにこのような情報が報道されたのか。報道機関に任すのでなく、自分の目で真実を読み解く努力をしなければいけないと思っています。ネットのあちら側の世界では秒単位で書き改められているようです。
みんなが参加するということのすごさが、目に見えて進んでいます。「謀略」もたちどころに見破られていくことでしょう。




























http://www.youtube.com/watch?v=tnkR7AxmQN4&feature=share&list=PLC2107512CCD57023





http://www.youtube.com/watch?v=HucSl-Gi0E0&feature=share&list=PLC2107512CCD57023











http://www.youtube.com/watch?v=BZmSHTiYa2M&feature=share&list=PL0FD58E1BB674131F

http://www.youtube.com/watch?v=9EAmTeBpUYc&feature=share&list=PL0FD58E1BB674131F

http://www.youtube.com/watch?v=rnaESs34G4w&feature=share&list=PL0FD58E1BB674131F

http://www.youtube.com/watch?v=mcaz6N75mjM&feature=share&list=PL0FD58E1BB674131F

http://www.youtube.com/watch?v=FlyFlDSscRQ&feature=share&list=PL0FD58E1BB674131F
by kanakin_kimi | 2007-08-31 11:29 | 911 | Comments(0)

「支配の論理」の呪縛の中にある「謀略」

「A少年事件」と「2001・9・11事件」「袴田事件」の三つの事件の「真相解明のマニュアル」をあわせ考えていこうと思っている。
まづ最初に「真相を解明する」という事は、一体どういう事なのかを考えてみたい。我々人間が持っている能力とその欠陥が、切り離せないものであるように、「真相」にはそれを知りたいと思うものとそれを隠したいと思うものがいるという事が切り離せないものとしてあるという事なのではないか。つまり、知りたいと思うものと隠したいと思うものとの相剋の軌跡として「切り離せないもの」があるという事なのではないかという事である。
戦争を必要としているものと、必要としていないものがいるのもそれと同じであるように思われる。
殺人のためだけの道具がなぜ必要なのであろうか、誰がそれを必要としているのであろうか、そして、それがなぜあるのか。
戦争に反対しているものは、戦争の道具である「殺人のためだけの道具」を必要だとはいうまい。おそらく人類の大半の人々は戦争に反対であろう。だとすれば、人類の大半の人々は「殺人のためだけの道具」はいらないというはずなのである。
ところが、「殺人のためだけの道具」の製造に多くの人々が携わっており、それで収入を得て生活をしている。自分の本意ではないが、生活のためにはやむを得ないと思わせられている。
どうやら、それはこの「必要性と不必要性」の相剋の軌跡としてあるようだ。「必要性」を持っている者にとっては「能動的」であり、「不必要性」の者にとっては「受動的」である代物なのである。
「能動的」とは、自分の目的としてわかって行動しているという事であり、「受動的」とは生きるために汲々として「能動者」のなすがままに「翻弄されているものの状態」の事ではあるまいか。
「A少年事件」についていえば、A少年は「能動者」でも「受動者」でもなく、ただ虚構につくられた「道具」であったのであり、「受動者」は阪神大震災の中で助け合う事を学び、自らの足で立ち上がろうとしていた人々が、不必要だと思われるものを不必要だとしたに過ぎない。「能動者」は人々が自分の足で立ち上がる事によって「不必要」と判断されたものである。そこで、自らの存立基盤を失われたくないために「必要性」を再生産するのである。
そのために「土師家で発生した事故」を「能動者」が利用して起こした事件である。
また、「01.9.11事件」についていえば、アルカイダは「能動者」でも「受動者」でもなく、ただ虚構につくられた「道具」であったのであり、「受動者」は世界大恐慌前夜の中で、続発する自然災害や貧富の差の拡大の中から自らの足で立ち上がろうとしている人々であり、不必要だと思われるものを不必要だとしたに過ぎない。「能動者」とは多くの人々が自分の足で立ち上がる事に伴なって、「受動者」である多くの人々から「不必要」と判断されたものである。
ところが、「能動者」は、自分だけの私有財産だと信じて疑わないそれを「国外に移し隠匿」しようとした。つまり、国家をすら捨てて逃亡したのである。また、多くのひと人から「不必要」とされる事によって存立基盤を失うものたちが「必要性」を再生産するために起こしたのが、この事件なのである。
上記の二つの事件は共通性が多く見られる。「A少年事件」は冤罪事件としては第4のパターンであるが、A少年を犯人であると証明する証拠がなく自白だけがあるのであり、しかもその自白は捜査官の虚言による誘導であることが明確であるにもかかわらず弁護士自らが、A少年が諦める言葉を述べた事を理由に犯人であるとの同意をしてしまったために発生した事件である。
中学生の少年が、両親から切り離され警察から一方的に追い込まれていく中で、弁護士からも見放されて一人ぼっちにされていったのである。
私が以前「冤罪事件の5類型」を提示しているが、これはそれらとも違う新しいパターンである。つまり、通常の弁護活動が根底から規制される何らかの事情が強く働いて弁護士を拘束する異常な力が作用していることが読み取れる。いわば、弁護士込みで事件の真相を闇に葬る事となった事件である。


世界的な規模で、しかもきわめて日常的に「革命」が進行している。それ故に、支配層に配置されている人々は日々追いつめられている強迫観念に苛まれているようだ。
従来型の革命を起こしたいと思っているものですら、置いてけぼりされているのではと思わせられるほどのものなのである。
だから、支配層のものたちが悲壮感をあらわにし始めているのではないかと思われる。しかし、彼らがそれを急げば急ぐほど自らの首を絞めていくという事を思い知らされる事になるだろう。彼らの採るべき方法は、自然の流れに身を任せる事以外にはないだろう。
積極的に革命の進行に協力する事もできないだろう。自然に任せる事だ。要するに隠居するというスタンスをとるべきだろう。そうすれば、軟着陸する期間を楽しめるのだ。支配層のものたちには、それなりの余裕があるからまだいいのだ。
だが、支配層に使われてきた「組織」のものたちは社会から「不必要」とされる事には堪え難いようである。それは、自らを「必要」とした「大義」があったからである。それが自らのよってたつ「誇り」であり、どのような困難をも耐えうる「大義名分」がそこにあったと思っていたからである。
それは、「国家」であり「国体」であった。しかし、彼らはその「国家」や「国体」が誰のためのものかについてあまり突き詰めて考えた事はなかったのかもしれない。そういう意味では、自分自身が自立していない人々なのであり、それを利用されてきた人々なのであり、それゆえ本来「支配層」に最も直接支配されてきた人々なのである。
さて、歴史に「謀略」のない時代は皆無であったと言っていいであろう。少なくとも今まではそうであった。しかし、これからの歴史には「謀略」は必要性を否定される時代として歴然と明確にされる時代となる事になった。
「謀略」は「民主主義」とは対極にあるからである。民主主義が本当に実行されるところでは「謀略」という「手段」は否定されるものだからである。
「謀略」は「支配と被支配」との関係の中で「支配するための強硬な手段」としてあっただけであり、「相互の理解と納得」で成立させようとするところには全く不必要なものだからである。
民主主義に「謀略」は許されないはずのものである。
だとすれば、今現在進められている「謀略」は誰が何のために行われているのであろうかを刮目する必要がありそうだ。
by kanakin_kimi | 2007-08-21 00:05 | 911 | Comments(0)

国際化の中の国技

日本の国技「大相撲」は、いつから国技となったのか。くわしいことはわからない。
いつだったか、初代若乃花が相撲協会の理事長をしていた時だったかに、日本の相撲のルーツはモンゴルにある、というようなことを聞いたように思う。
騎馬民族が大陸を追われて日本に逃げてきたとき、もたらされた文化の一つが相撲だったのではないかと思う。
奈良の東大寺で行われる「聖武会」に踊り舞う伎樂面をつけた人々の中に「力士」がいることは時代考証されていると思うのだが。
一説には、突厥達頭は日本に来て聖徳太子になる。達頭は突厥のうちでも金髪碧眼の多い鉄勒にぞくし赤髪であった。そうで、その達頭が力士を連れてきていたはずである。
ともかく、国技を強調するなら、「相撲」を国際化しなければいい。元々モンゴルにルーツをもっているなら、国際化と国技の文化のありようについて相撲協会自体が整理すべきであろう。
その、認識の混乱がもたらした結果であると考えるべきではないのか。
朝青龍も親方もその混乱の犠牲者だと私は思う。
by kanakin_kimi | 2007-08-12 23:14 | 八百万の神々 | Comments(0)

重くて、暑い夏

070812、14時頃のテレビを見ていた。あ!、そうだ。731部隊について放送すると言っていたのを思い出した。チャンネルを切り替えようとしたら、見ていたチャンネルでそれが映し出された。
以前「悪魔の飽食」の本を見ていたので、それよりも重くはなかった。
「悪魔の飽食」を二度見ようとは思いもしなかった。日本人にとってこれほど重く感じさせるものはないと思っていたからだ。
鳥越俊太郎氏が、731部隊の関係者から聞いた言葉として照会された。
「731部隊にいたものとして、真実を語らなければ死にきれない。」
という意味のことを云われていたように思う。
1973年に「日本の人体実験」を高杉晋吾氏が、1974年に「細菌戰軍事裁判」を山田清三郎氏が書き、「悪魔の飽食」は、森村誠一氏が1970年代後半に書き出版されている。
いずれにしろ、「悪魔の飽食」が731部隊の戦慄すべき事実を広く一般化した。
しかし、それでも未だ公式的には封印されたままなのだ。
わたしは、「731部隊に関する事実」が公式に封印されたままでは「日本の本当の戦後はないのではないか。」と思っている。
わたしは、「731部隊について正しく見直された歴史」が書かれない限り「日本の本当の教育」もあるはずがないではありませんか、とおもうのです。
by kanakin_kimi | 2007-08-12 21:28 | なにかがわかる | Comments(0)