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写楽 鎮魂7

「写楽絵」は、松平定信が鍬形慧斎に「江戸歌舞伎」を見ることができない遠方の諸大名の子女に臨場感ある絵本を「鍬形工房」で制作させたもののようで、その後「蔦屋」で「黒キラ刷り」にして出したもののようである。
しかし、どうもそれだけでは説明がつかない問題がある。
それは、第一期の「大首絵」である。「大首絵」は「役者絵」「錦絵」というよりも、まさに「肖像画」である。
鍬形慧斎は定信の指示で多くの仕事をしている。「農書」「地誌」「名所図絵」「職人尽くし絵」「鳥瞰図」「真景図」「山水・草花・魚貝・略画式」など、「百科全書」を思わせる。
定信は、谷文晁等の絵師に「集古十種」をつくらせるプロジェクトを進めており、鍬形慧斎もその一員だったのではないかと思われる。
一方で、鍬形慧斎は松平の指示で狩野派の絵の技術を学んでいる。狩野派の「鳥文斉栄之」からも学んでいる。「鍬形慧斎」の名で描けない春画は「鳥橋斎栄里」の名で書いているのではないかと考えている。
また、鳥文斉栄之は時おり「細田栄之」の名で描いており、鳥橋斎栄里も又「細田英里」の名で山東京伝の肖像画を描いている。
この肖像画をみれば、写楽の第一期大首絵「尾上松助の松下造酒之進」や「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」と比べみてあらゆる点で同じ人物の描いた肖像画であることが見出せる。
でも、こんなことは専門家は百も承知のことでしょうから驚くことではない。
従って、「細田英里」=「鳥橋斎栄里」=「鍬形慧斎」=「北尾政美」=「東洲斎写楽」ということになり、「鳥橋斎栄里」は後「礫川永里」の名に変えて教訓物「風流女今川」を描いている。
このように考えると、私としては合点がいき、これによってこそ「写楽」の鎮魂となるのではないかと思うのである。
by kanakin_kimi | 2009-09-23 21:37 | 写楽鎮魂 | Comments(2)