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政党政治の終焉 6

「政党政治の終焉」というのは「政党」による「政治」が「終わりを迎えた」という事なのである。つまり、「政党」の「存在価値」の『終焉』を迎えた時代になってきたということなのだ。
これは、「ひとり一人が自立し、賢くなる時代」の「反射としての変化」なのである。
したがって、喜ばしい事なのである。

「封建的支配」から「政党政治による支配」にかわって、今日に至るのだが、「一般大衆」は自分たちの生活に関わる「立法・司法・行政」に直接参加することができませんでした。私たちの代わりに「政党」が「代議員」を派遣して、「立法・司法・行政」を支配下に置き、社会を支配してきたのです。

その「政党」を「金を提供して支配」してきたのが「資本家達大金持ち」だったのです。

自民党政権というのは、正にそのような構造が当たり前のように行われてきていたのです。

ですから、「政治と金」問題というのは、「自民党』の十八番の問題でした。
自民党がこの問題で民主党を批判しても迫力がありません。自らの問題について反省がなく、スポンサーになってきていた経団連からも距離を置かれるに至っているなかで、なおかつ「保守党」を標榜しているようですが、何を保守しようと言うのか全くわからなくなっています。恐らく自民党の人々も「自分たちが、政党として何をしていけばいいのかわからなくなっている」状態なのではないでしょうか。
自民党からはなれて、独自性を示してみせているグループがそれぞれ「政党」名を掲げていますが、その内容たるや惨憺たるものです。「民主党が国民に提示しているマニュフェスト」に対峙して、何を示しているでしょうか。
「政党」としての「指導的役割」について何を提示しているでしょうか。
そして、それはもはや「自民党」や「自民党を離党して別の政党を作った人々」だけの問題ではなく
日本共産党・公明党・社民党など野党にとっても同じ問題を抱えているという事です。
基本的に「政党による支配の論理」は終焉した事を、各政党が認識できているのかどうか、明確に国民に提示する事だろう。
総じて、「間接民主主義の時代」から「直接民主主義の時代」への移行段階であることを認識してその役割を果たしてもらいたいものである。
by kanakin_kimi | 2010-06-14 21:52 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

すばらしい所信表明

管総理の所信表明はすばらしい、幕開けのシンボルになるだろう
議場でやじっている人々がいるのが見えたが、この人は一体管総理の所信の中身について考えて聞いているのか、おそらく「アキレスの詭弁」についての「時代錯誤」をまだ脱出できていないのではないかと思う。
「評価能力」を自分に問う事を勧める。
わたしは、「政党政治の終焉」であり、「議会制民主主義の終焉」を視野に入れるべきだと考える。つまり、「間接民主主義の終焉」を認識して「直接民主主義の到来」ニ準備する時代である事を「あらゆる問題、あらゆる場面でそれを実行する時代」ナノだと思うのです。政治 - エキサイトニュース
by kanakin_kimi | 2010-06-11 17:56 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

アインシュタインシンドローム 6

[ 民主党の混乱 ]
鳩山氏と小沢氏の辞任による混乱があるとすれば、それは、いつまでも「政党政治」によって「政治」を行うものと思っている側と「政党政治」に頼っている側との「もたれあい現象」に起因しているものと思われる。
そして、もうひとつは、それらをふくめての「評価能力の欠如」こそが「問われている」ということなのだと思われる。

これは、自民党政権でもずっと続いてきた問題だったのであるが、民主党政権になってそれが克服されるものと考えられた。ところが、その問題に対する認識のない小沢氏が「選挙戦略の能力」を発揮してその力を「派閥力学」に引き戻していることによって「民主党のマニュウフェスト」政治という新しい手法の実行に混乱をきたしてきたのだと思われる。

鳩山氏のキャラクターの役割は、「小沢氏の能力」を「民主党のマニュウフェスト政治」を進めるためにバックアップさせる「傘」だと自覚されていたのだろう。ところが、その役割を「評価する能力欠如」が、外からだけでなく内からも攻め立て始めたのであるから「キャラクター」の耐えられようもなくなったということなのだろう。これらを総合的に「評価能力」を発揮しないと「民主党のマニフェスト政治」を確立することは出来ないだろう。
by kanakin_kimi | 2010-06-03 00:19 | シンドローム | Comments(0)

「政党政治の終焉」 5

『政党政治』というのは、「権力者」に替わって政治を行うことを意識したものや政党が、あるいは、「一般大衆」の代弁を標榜し、また意識したものや政党が「政治」をおこなっているということなのだろう.
だから、代議員制度を採っている。

それは一方では、一般大衆は何も知らない赤子のようなものであるから、政党が教え導いてやらなければならないという考え方にたっているようだ。
確かに、それは明治初期の現実にはかけ離れたものではなく、一定の事実を見せている。

しかし、一般大衆が賢くなっていけば一人の人間として自立するものであり、人はそれを希望し、能力を高めてきている。人は、そのおかれている環境によって大きく能力の向上を左右されていることも事実である。

おろかな選民意識が『階級』をでっち上げ、『差別』を正当化するのである。そして、『階級差別』を維持するための『代議員制』を『再生産』する手法を『御用学者』に考えさせてきた。

たとえば、『政治学』という学科を設けて、『巧妙に支配する手法』を研究させる。「指導者原理」の利用など「組織の指導者を懐柔し取り込むことによってその影響下の組織をコントロールする」という、後追いで学説化すると言うこともあるだろうが、そのように支配の論理で考えられている。

いづれにせよ、『支配のひとつの過程として政党と代議制』があり、それと対峙して『民主的解放の闘いの過程として政党と代議制』が「妥協の産物」として並存してきたものである。
これが『間接民主主義』と言われているものです。

そして、世界史が社会主義となった1975年を転換点として、一般大衆の自立はさらに進み、その速度もIT社会の中で速度を早めている。

一般大衆のひとり一人がその能力を高め、自立の度合いを高めていけば、おのずと他の人に頼らず自分の力で仕事を自己責任でこなしていくのは当たり前の事なのです。そのような事が「社会全般」で行われるようになって来ているのです。もちろん、社会はひとり一人が自立する為に様々な支援をしていかなければなりません。
その方がすべてにおいて節約型になるのです。
「国民は赤子である」とする「官僚」の考え方には、歴史的過程はともあれ今日では卒業したものと解すべきだ。
by kanakin_kimi | 2010-06-02 15:48 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

アインシュタインシンドローム 5

我々自身の評価能力を問われている

6月2日は鳩山総理大臣が辞任し、民主党の小沢幹事長が辞任、他の役員も辞任したと伝えられている。
野党党首のそれに対する評価が報じられていた。社民党以外はいずれも「評価能力の欠如」がありありとみうけられた。
社民党は連立内閣の当事者であり、当初から「普天間基地移転」に関しての態度を鮮明にしており、当事者責任を問われて罷免された。その反射として、福島党首が「鳩山辞任は当然」というのもうなづける。
しかし、他の野党の「評価」はいただけない。
というのは、今の民主党にとってすらも「鳩山」にかわって誰がやりうるか心もとない事この上ない事が明白であるからである。「鳩山のキャラクター」だからこそやれたのではなかっただろうか。
具体的に上げてみるといい。自民党に出来なかった事をこの8ヶ月間でやってきた事だけでも驚異的な仕事をこなしてきた内閣だと思う。その内閣の責任者として「笠」となっていた筈だ。
おそらく、この間の鳩山内閣のやってきた仕事は他の野党のどれもやり得ない事だったろう。だから、野党党首の「評価」を聞いていて、思わず「他嘲・自嘲」で笑ってしまった。
これは、自分自身の評価能力に問題がありはしないかと思うに至ったのです。そう思わせてくれた野党党首の「鳩山辞任に対する評価」の「評価能力欠如」に感謝すべきか。
by kanakin_kimi | 2010-06-02 14:46 | シンドローム | Comments(0)