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真相解明のマニュアル の基調 3

真相解明にはリスクがある。それは、あまりおもしろくない展開にならざるを得ないということである。
なぜなら、「真相解明」は、出来るだけ多くの事実とその諸関係及びそれを証明する証拠を収集する事に手間ひまをかけるからなのである。だからはじめからシナリオがある訳ではない。
従って、その作業の疎密の相違が「真相の疎密」に作用する。
面白い推理小説では、展開のテンポや時間が限定され、登塲する人物も限定され主役と脇役に分けられる。そして何よりもシナリオが最初にあるのである。つまりここにはシナリオの法則が支配している。
by kanakin_kimi | 2010-11-21 23:18 | 世界革命 | Comments(0)

アインシュタインシンドローム 18

「軍隊」は「暴力装置」である。こんな当たり前の事を言ったら、こっぴどく批判する様な国会などもう必要がない事を明らかに示している。
自民党などの国会議員が仙谷さんの首を取ったかの様な追究をしている滑稽さにはもはや何をか言わんやである。これほど認識程度が低劣なのかと驚いている。
「自衛隊」が「軍隊」かそうでないかという「政治的見解」があるのだろうが、そんなものは「真実」の見解とは相容れないものであり、誰が見ても「自衛隊が装備している武器」のすべては「人を殺傷するもの」であり、攻撃と防衛の立場の違いはあってもその手段は「暴力装置」に対峙する「暴力装置」である事は当たり前の事ではないか。
こんなつまらないことを言っている議員はもはや不必要な議員であり無駄な議員である事なのだ。
by kanakin_kimi | 2010-11-20 10:56 | シンドローム | Comments(0)

真相解明のマニュアル の基調 2

無限と有限が一体であるという事について、もう少し付け加えておきたい。
はじめに、「無限」という概念は「有限」という概念と「対」になるものである。つまり、「概念」としての用語であり、実態真実そのものをいっているものではない。
「実態真実」は、「空間に広がる質量の連続」とわたしは定義している。それは、「質量不変の法則」や「エネルギー不変の法則」(エネルギー保存側)が通貫して成立している。
「実態真実」には「無限」も「有限」もない。だから、始まりも終わりもないのである。
ある一定の領域の問題を普遍化して表現される事が多いが、それはやめるべきである。
たとえば、「宇宙」という言葉はどの程度の領域をさして言っているのか誤解を招くのではないかと思うのである。「ビッグバン宇宙」という場合がそうである。
人類が現在、やっと見ることができる宇宙で200億光年くらいと言われている。「ビッグバン宇宙」というのは、何億光年の広さの宇宙を言っているのか正確に言ってもらいたいものである。そうでなければ、ただ多くの人々に混乱をもたらしているに過ぎないからである。
「ビッグバン宇宙」というのは、いい加減でやめるべきだろう。科学者が提示している「宇宙」とは何かを正確に言ってもらいたい。そうでなければ、人類の認識の発達進化を後退させる混乱をつくり出しているだけのように思われる。
「ビッグバン宇宙」を提起する方の考えは、ビッグバンが宇宙の始まりを意味するもののようですが、そうだとすれば「始まり」があれば「終わり」もある訳です。
実際にわたしたちが見るもので置き換えて考えてみますと、「花火」がわかり良いのではとおもいます。爆発だけをいえば、そらに打ち上げられた尺玉の花火が空で爆発して光の大輪を空一杯に広げてわたしたちを楽しませてくれます。
空で爆発する音と共に光の大輪を空一杯に広げて、光が消えるまでが「花火の宇宙」なのでしょうか。
ご承知のように、花火師が尺玉を製造する工程や打ち上げるまでの工程がありますし、花火の原料が花火師の手元に集まるまでの工程があり、さらに原料となるもののルーツがそれぞれの過去へと広がって行きます。
そして、光の大輪を空一杯に広げて光が消えたあと、それですべてが消え去った訳ではなく、煙となり、火薬ダマを包んでいた紙類が粉々になって四方へ飛び散っています。精密にみてみますと、尺玉の質量と同じ質量分のエネルギーと質量が空間にひろがり連続しているのです。
by kanakin_kimi | 2010-11-14 22:57 | 世界革命 | Comments(0)

真相解明のマニュアル の 基調 1、

『真相解明』という作業は、誤って第二の冤罪者を出すことにならないように気をつけなければなりません。また真犯人側の人物などに悪用されることのないように心がけなければならないと考えています。
事件現地と言うのは良くも悪くもセンセーショナルなところがあります。静岡県下の味噌製造会社に供給される大豆の原料は大方のところ豊年製油(清水工場)が輸入し、精選した大豆が使用されていたものと思われます。豊年製油から小野商事に精選大豆が卸され、小野商事からこがね味噌などに売られていました。静岡県下の味噌製造業界を見ると長年にわたってトップの座を占めているのが金十味噌です。事件発生当時の1966年ごろでも味噌製造会社は60社ほどあったようです。こがね味噌は、その6年前には60位ぐらいだったのに事件発生当時には県下で3位にまで上昇していました。これは、望月倶輔さんから聞いていました。また、金十味噌の稲森社長からお聞きしたこともありました。
わたしが働いていた豊年製油(今は、ホーネンコーポレーションと改称)には橋本藤雄専務宅の隣家杉山新司さんの息子さんがいましたし、被害者橋本家の親戚にあたる人々がたくさんいました。清水市内で宣伝活動をしていましたからその人たちはわたしのことをしっていたのでしょうが、わたしはその人たちのことを知りませんでした。知ったからどうなるということではありませんが、わたしの一挙手一投足によって傷つけられ、あるいは不満をもたれている人々がいたということをわたしは知らないでいたのです。
冤罪被害者の側に立つわたしたちは、その関係者の痛みを共有することはできますが、犯罪被害者の関係者の痛みを共有する余裕がありませんでした。
また、救援運動は「真相解明」運動ではないとある大学教授から諭されたことがありますが、わたしはその時、反論しませんでした。灰色判決でもそれを出させることの重要性を選択しなければならない場合もあることを知っていたからです。しかし、一方で忸怩たる思いを忘れることはありませんでした。わたしはそれが何であるか知っていました。それは、「真相解明作業のリスクを救援運動に負荷してはいけない」ということだと思っています。
救援運動に関わる人の数だけ運動があるのだと思っています。ですから、連帯を優先しなければならない要素と「真相解明作業のリスク」を共有できない限り、連帯を優先するのは当然のことだと思っているのです。      
わたしたちの役割は、事件現地の地の利と長年の経験実績を生かして鋭い「真相解明作業」を行うことだと考えています。そして、リスクが発生しても運動本体に悪影響を与えてはならないと考えています。「真相解明作業」はわたしのライフワークとの接点でもあります。
実は2000年4月6日から一ヶ月余、シベリア鉄道でウラジオストークからモスクワまで行き、サンクトペテルブルグ・ヘルシンキ・ストックホルム・オスロ・コペンハーゲン・チュウリッヒ・パリ・ロンドン・アムステルダムの九カ国を列車で回り、少年のころに夢に見たあの景色――緑の芝生が大きくうねっている中に木造家屋があり、それを取り巻くように、色とりどりのきのこがにょきにょきと生えているのです ―― その場所を探すという自己実現を楽しんでまいりました。
それは、ロシアのうねり方でもなく、ドイツ・オーストリア・デンマークのうねり方ではなかった。そしてフィンランドでもスウェ―デンでもなかった。スウェーデンからノルウエーに入った時、そのうねりがあった。
各国のきのこの本を買い、統計年鑑、翻訳CD-ROMを各国で買って帰りました。きのこの本はロシアで10冊でした。パリの一軒の本屋さんでも60冊でしたから、ロシアの場合モスクワの大きな本屋さんで3冊買いましたがウラジオストークの露店で買ったものの方が内容がしっかりしていました。木のこの本にも国情がはっきり現れていました。アカデミックな研究が進んでいるところは本の発行部数も多いのです。それでも、全部で200冊程になってしまいました。
世界のきのこをDVD―ROMに書き込むのが、わたしのライフワークの一つなのです。二つ目が袴田事件の真相解明、三つ目が『特殊相対場論』と名づけている研究課題で、それに取り組んでいます。そのために34年間働いてきた会社も退職しました。野菜を80%以上自給する家庭菜園を妻と耕作し、県内の第二東名工事沿線の遺跡発掘アルバイトを毎月10日程やっています。
34年間労働運動をやってきた中で、労働条件の向上や労働環境の改善という課題を解決するためにもっとも必要なことは、結局『労働者の団結』であり、労働者が団結するための組織論と運動論が全てでした。
しかし、どこか違和感をもっていました。何がどう違うのかはわかりません。複雑に絡み合っている問題であったのだと思います。大企業の労働組合と中小企業の労働組合とのさまざまの格差に忸怩たる思いを忘れることはありませんでした。さまざまな問題が絡み合い、それが自分の力ではどうすることもできないということを思い知らされる経験が積み重ねられると、そういう問題と真正面から向き合おうとしなくなってしまうのです。そういう自分を見るのがいやになってきていました。複雑に絡み合っているものは、それを解きほぐすためには強く引っ張りあってはいけないのです。強く引っ張りあうと、絡み合っている結び目が結びこぶになって解きほどきにくくなってしまうのです。絡み合っている糸を解くのはなかなか手間がかかります。結びこぶにしてしまうともっと時間がかかります。結びこぶになる前に、お互いに引っ張り合わずに協力して絡み合っている糸をはずしていかなければならないのです。イスラエルとパレスチナの問題も同じだと思います。
経を説くというのは、縦糸と横糸の絡み合いを解くということなのだとわかりました。縦糸が何で、横糸が何か、を知ることなのだとわかりました。生きている人の数だけ、生き方があるのですから縦糸も横糸も大変な数になります。でも、自分が直接関わりあっている人の数はというとそれほどの数でもないわけですから、それを優先してその絡み合いから考えていけば意外に解けないものでもないということに気が付きました。絡み合っている状態は、『真相解明のマニュアル 原理と法則』で取り上げたものと基本的には変わりないと思っています。
そして、それを解きほぐしていく忍耐や困難を乗り越える賢さが必要なのです。それにはやはり心が豊かになる環境が必要なのです。誰もがそのような環境を享受できればいいのですが、不条理にもいまだ現実のものとはなっていない。
そこで、如何にすればより安く/より早く/より高い認識の獲得ができるかという課題にぶつかりました。
そして、それに対する回答を『特殊相対場論』にみいだしたのが37歳ごろでした。1984年に(私の宇宙観 12章)にまとめて、よりはっきり手ごたえを感じ、労働運動、社会運動の関係を整理して53歳で退職したのです。もちろん、わたしのライフワークとそれらが無関係どころか密接なつながりがあるのですが、人間関係はそれをわかってもらえるほど甘くはありません。従って、その甘さを妻に許可を得ることによって時間的余裕を確保するという方法で決断した次第です。
『特殊相対場論』は、実態真実と人間が獲得する認識との間にはどうしてもタイムラグがあることをはっきり確認することから出発します。たとえば、実態真実は連続しているのに人間の認識はどうしても同時進行というわけにはいかず断続せざるをえないのです。ここにさまざまな誤解の源泉があることにきがついたのです。
人間の認識の獲得は、実態真実を/細分化し/時間をとめ・各部分の真実に近いデータをかくとくし/それらの全体を再構成するという形にならざるをえない。従って、人間が認識する真実というものもそのような構造を反映しており、実態真実そのものというわけにはいかないのです。
このように、認識の構造がもたらす《真実の構造》があるということに気が付いたのです。
 実態真実をより正確に認識しようと努力した足跡が『科学史』なのだけれど、人類はまだ「全ての実態真実に通貫する一つの原理」を見出し得てはいない。
全ての実態真実に通貫する一つの原理を見出すことが出来れば、誰もが一定の努力をすれば安く/早く/高い認識を獲得できるはずなのだ。これなしには、生まれついた環境の差別を克服することが出来ないと考えています。
生まれついた環境の差別といいますのは、裕福な環境に生まれついた者は人生の出発点からその裕福な環境から提供される裕福な条件によって、しなくてもすむ苦労はせずにすみ、見るもの、聞くもの、知るものそれぞれが本人の努力如何で容易に得ることが出来るのです。その反面、貧乏な環境に生まれついた者は苦労せずに何一つ得ることは出来ません。このような差別が人生の出発点からあることはとても容認できません。従って、一定の年齢に達するまでは、何人も裕福な環境と裕福な条件を享受できるように社会が保障しなければいけないと思います。 しかし、それが実現するためにはかなりの時間を要することは明らかです。
そこで、なんとか環境の差別を克服できる方法はないものかを考えて、安く/早く/高い認識を獲得できるようにすればいいのだと気が付いたのです。そして、わたしはすべての実体真実に通貫する原理を獲得すればいいのだと気が付いたのです。それからは、その原理を発見するために考えつづけてきました。その結果『特殊相対場論』を獲得することが出来ました。
それは、全ての事象は『全ての運動』と言い換えることが出来るから、『全ての運動』に通貫する一つの原理を見出すことであると考えたところから出発しました。そして、そこに結実したのだと考えています。『全ての運動に通貫する一つの原理』とは何かを追求しました。運動の原理とは何かと言う問いかけに対して得た回答は『存在そのもの』というものでした。なにやら禅問答のようになりますが、すべてのものの中にあるわけですから何の不思議もないわけです。そうして『全ての存在に通貫する一つの原理』とは何かという問いかけになりました。全ての存在はそれを取り巻く環境条件によって気体や液体や固体の形に変化します。そして、この三つの相は『大きさ』という『境』をとりされば連続する相であることに気が付きます。大きさの境というのは『相』そのものであるわけです。それを私は『特殊相対場』と呼んでいます。要するに『原子と原子の関係の場』『分子と分子の関係の場』『物質と物質の関係の場』『星と星の関係の場』『銀河と銀河の関係の場』というように、それぞれの場があります。それはそれぞれ特殊の境界を持っているのです。それぞれの場は、その場を維持する法則によって支配されている。然し、実態真実と概念上の認識データには一定のタイムラグとそれに伴うギャップがあるのです。そして、わたしは『何と何の関係』について『対立物と対立物の対立の統一』という表現を使っています。私の認識では、これは単なる表現というものではなく『原理を示す表現』という意味合いで使っています。従って、『何と何の関係』を『取り巻く環境条件』を含めて表現することが、間違いを入り込ませない方法だと考えたのです。それを整理すると次のようになります。     

       対立物 と 対立物 の対立の統一 で 統一物形成
      ――――――――――――――――――――――――――
            特   殊   相   対  場 

 これを塩酸と苛性ソーダの中和反応を例に見るとわかりやすいのではないかとかんがえたのです。つぎのようになります。                              

       Hcl + NaOH  ――― Nacl + H2O
      ――――――――――――――――――――――
         純水のはいったフラスコorビーカー           

 実態真実のなかでは連続しているのにそれを説明しょうとすると断続することになります。それは、すくなくともいまのところ人間が認識するために一定の時間と手順を必要としているからです。これからの課題としては、これをどこまで時間を短縮できるかでしょうね。

 さて、全ての事象の基本構造を理解するための方法をみいだすことができました。問題は、全ての実態真実に通貫している原理を見出すことなのです。
それは、『通貫』していると表現しているそれそのものの中にあるのではないか。
いいかえれば、『実態真実の中では連続している』その『連続』そのものということが出来る。
その『連続』というのは『大きさの境界』つまり『相』が取り払われると見えてくる。もちろんこれは認識を形成する際の構造上の問題ですが、いちいち解説しているとかえって見えにくくなるので出来るだけ省略します。『相』というのは『特殊相対場』のことです。もう一度あの構造式を見てみましょう。

     対立物 × 対立物 対立の統一  統一物
   ――――――――――――――――――――――――
         特 殊 相 対 場

(特殊相対場)は対立物のおかれている環境のことで、構造式では分母にあたります。(特殊相対場)には取り上げた対立物を含めてたくさんの対立物が存在しています。化学では対立物の対立の統一の関係の再現性を保障するために、他の対立物を排除しています。
そして、とりあげている対立物の対立の統一の関係の再現性を保障できる媒体で環境を作るのである。『相』を取り払うということはとりもなおさず分母である(特殊相対場)を取り払うということであり、それはどのような(特殊相対場)にも通用するということである。したがって、それは(特殊相対場)の総合つまり(一般相対場)ということである。そうなると、取り扱う対立物は対立物の統合である(特殊相対場)そのものとなる。そして、統一物は(新たな特殊相対場)となる。構造式はつぎのようになる。

   (特殊相対場)×(特殊相対場) 対立の統一 (新たな特殊相対場)
  ――――――――――――――――――――――――――――――
       (  一  般  相  対  場  )

 実態真実においては、さまざまな質量がその存在の仕方を空間に広げています。
わたしたちは、空間における質量の存在の仕方をさまざまな物差しで計ります。物差しは、長さ/大きさ、広さ/重さ、そして、速さを測定する方法であり手段です。ところが、度量衡には長さ/大きさ、広さ/重さはありますが速さについてはありません。何故度量衡に速さについての物差しが含まれていないのかわかりません。ただ、度は長さ、量は体積や容積、衡は重量を意味し表現していることは容易にわかります。速さが『度量衡』にないのは『時間』が関係していると思います。実態真実においては、さまざまな質量がその存在の仕方を空間に広げているのですが、その(存在の仕方を空間に広げている)ことが連続を意味し『時間』を物差しとしてはからしめたのだと思います。現在のところ時間という概念がもたらした結果だと思うのですが、それほどの混乱なく秒/分/時/日/月/年/光年という単位に落ち着いています。あとは単位の接頭語がつけられているだけです。度量衡にはさまざまな物差しとしての表現方法が編み出されました。まだメートル法に完全に統一されていません。度量衡の歴史とその混乱の残存状況を示しています。しかし、時間の概念の混乱はもっと根源的なものがあるように見られます。
 特殊相対場論からみればそれほど難しい問題ではないようです。速度にしろ流量/効率/工率などの単位はみな時間との関係で表現された『速度』なのです。そして、『速度』は連続の物差しなのです。従って、わたしは静止状態の物差しとして『度量衡』があり、連続状態の物差しとして『速度』があると考えています。そして、それは次のような関係にあることを示しています。

      『速度』=『度量衡』/『時間』

もしこれが成立するならば

      『時間』=『度量衡』/『速度』

これも成立することになるはずです。そして、それらは次のように表現できる。
      『長さ』/『時間』=『速度』
      『大きさ』/『時間』=『流量』
      『重さ』・『長さ』/『時間』=『工率』

『時間』と『度量衡』と『速度』の関係を基本原理から眺めていくことが物事をわかりやすくすると考えています。このことは、何事にも通じることと思います。
 
 さて、『度・量・衡』は三次元を表しています。そして『速度』は時間を表しています。『度量衡』が連続する『時間』が『速度』なのです。『特殊相対場論』の考え方では『時間』は次元ではなく単なる『物差し』だと言うことなのです。空間にその存在を広げている質量とその反面空間にその存在をちじめている質量がある。これは質量の存在の連続をある一面で表現しているだけのことである。物事を難しくしてしまった結果自分にも判らなくしてしまっているようなことがたくさんあるようだ。こういうところに『謎』が生まれるのです。たとえば、『可逆』と『不可逆』の問題について、『カオスから見た時間の矢』(BLUE BACKS 田崎秀一)の49ページから50ページにかけて次のように書かれている。
   不可逆性の問題をもう一度整理してみよう。まわりに何の痕跡も残さずはじめの状態に戻せない変化を不可逆変化と呼んだ。観測すれば「時間の矢」のむきがわかる変化のことである。他方、原子・分子の運動は可逆、つまり次々と変わってきた状態を逆にたどる運動が可能であると考えられている。この原子・分子の運動から「時間の矢」の向きは判断できないはずである。
   さて、どんな物体も原子・分子から出来ており、従って、どんな現象も原子・分子の運動が表に現れたものである。すると、私たちが目にする不可逆変化も原子・分子の運動から考えると可逆ということになってしまう。したがって、不可逆変化が可逆な運動の結果生じることを説明しなければならない。すなわち、「時間の矢」の向きがはっきりわかる変化が、「時間の矢」の向きが判断できない運動の結果として起こることを説明しなければならないのである。これが不可逆性の問題であった。
 
 わたしには、ここにかかれたものが間違いであることがわかっている。どこに間違いがあるかというと、【観測すれば「時間の矢」の向きがわかる変化のことである。】としているところである。何が間違いかというと、『時間』は不可逆でも可逆でもない、空間に広がる質量の連続の仕方を計る物差しである。いかなる不可逆変化も『時間』まで不可逆と言っているわけではないし、いえるものではない。
 何故このような混乱が生じるかと言うと、『度量衡』は『時間』を無視してはかれるが、『速度』は『時間』を無視してははかれないということを理解していないからである。そして、このことは実は自分自身が実態真実を認識する際の避けることが出来ない『認識の構造』があることを理解していないからである。
 そもそも、このように書いていること自体その『認識の構造』から独立することは出来ないのである。つまり、実態真実は空間に広がる質量の連続であるが、認識はそれを同時に全体を把握できるわけではなく、部分の実態真実を時間をかけて把握し、ぜんたいを再構成し統一的に把握するためにまた時間がかかるのである。連続しているのに対して一定のタイムラグを避けることが出来ないのである。「時間の矢」はないのである。そして、「時間の矢」の向きもないのである。『時間』は、空間に広がる質量の連続の仕方を計る物差しだからである。『度量衡』は『時間』を無視してはかれるが、『速度』は『時間』を無視しては計れないと言うのは、『度量衡』『速度』『時間』それぞれが実態真実の一部分についてわたしたち人間が定義している事柄なのである。『時間』はあくまで物差しであって、『空間に広がる質量の連続の仕方』そのものではないのである。そういう『時間』を勝手に独立させ、一人歩きさせるから『落とし穴』に落ちているのである。そのことに思いを致さない原因は何なのか明確にしたいと思っている。仮に、『空間に広がる質量の連続の仕方』を『時間』と言う言葉に置き換えたのだとすれば、『時間』と言う実態真実を計る『物差し』を別の名称にしなければ混乱を生ずるのは当然である。『時間』というものさしの定義を間違って使用していたり、物差しではないとの考え方にたっているからである。その結果、『時間』を一つの次元と考えたりしているのである。そうすると、可逆・不可逆を『時間』にまで適用してしまって、空間にゆがみがあるように思ってしまうのである。何度もいうように、『空間に広がる質量の連続』の仕方なのである。『時間』はその『物差し』である。
 ではどうして『時間』を独立させてしまったのであろうか。それはおそらく、『無限』の概念に決着をつけていないからではないかと思われる。
 『無限』というのは『有限』から独立しているわけではない。その逆も同じである。つまり、『無限』と『有限』は一体なのである。『無限』と『有限』が一体であるというのは、『空間に広がる質量の連続』だからである。
それなのに、どういうわけか両極をイメージして、対立する対概念と考えて固定してしまったのである。そしてそれを分離し、独立させてしまったのである。本当は連続しているのに時間をとめ、必要なタイムラグを経て『認識』を形成する。
実態真実は『空間に広がる質量の連続』で『無限』と『有限』が一体であるのに『認識』においてはタイムラグがあるために生じる間隙に誤解や曲解が入り込むのである。従って、そのタイムラグや間隙を出来るだけ少なくすることが誤解や曲解を生じさせないために最も重要なポイントになるわけである。そして、そのためには『認識の構造』と『実態真実』のあいだにある『真実の構造』という、わたし達が認識するためのその仕組みを心得てかからなければならないのである。


    2002・9・12        金 沢 忻 二
by kanakin_kimi | 2010-11-12 17:17 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

みんなが賢くなるシステムの時代 Z

さて、さんざん言っておいてなんですが「みんなが賢くなる」とはどういう事かという事について述べておきたい。
それは、「真実を見抜く能力を持つ」という事なのです。これだけなのです。
by kanakin_kimi | 2010-11-09 19:18 | 世界革命 | Comments(0)