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佐竹本 三十六歌仙絵巻切断の謎を解く 1

謎が解かれた。というか、このままではいかんな、と思ったのです。それで、何が謎かということをまず言っておかなければなりません。わたしが「謎」と思ったのは、「あれほど文化財を大切に考えていた益田孝が切断して持ち合いするか」ということから出発しています。「切断してまで持ち合いする意味は何だ」ということなんです。益田孝なら、「みんなで金を出し合ってまで①、分散することをさけて保護したわけですから②、写しを作らせながら③、何故原本を切断する必要があるのか④」ということですね。まあ、ついでですから私の結論みたいなものを先に行っておきたいと思います。
「絵巻」は保存にどれほど気をつけていても「老化」に逆らうことができませんから、どこかの時点で「写し」を作ります。「原本」は、虫食いができたり、戦乱で焼けが生じたり、いろいろの保管上のハードルがあるわけです。ですから「写し」を作る段階で既に原本の原文が判読できない部分ができていたりするのです。「誤字・脱字」などがある場合はそれに該当するのではないでしょうか。ですから、「佐竹本三十六歌仙絵巻」として伝えられてきたもの自体がすでに「写し」ではないのか。「原本」である証明や紙質の年代特定など、今の沢口さんの「科捜研」なら簡単にやってくれそうだ。しかも、「写し」は一回ならず、近世に入っても行われていた可能性もあるだろう。その辺はどうなのか。絵師の名手の出現とスポンサーの出現と云う機会がなければできないだろう。
ということで、「切断・分割所有」ということによって、むしろ「その辺をうやむやにしたい」ということだったのではないのか。
この、自分で設定した「謎」を解こうということです。

まず、事実関係については、ウィキペディアに記載されているものを転記引用させてもらいました。

( 佐竹本・三十六歌仙絵巻 )

佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)は、鎌倉時代・13世紀に制作された絵巻物。鎌倉時代の肖像画、歌仙絵を代表する作品である。元は上下2巻の巻物で、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていたが、1919年(大正8年)に各歌人ごとに切り離され、掛軸装に改められた。
( 目次 )
 1 概要  2 技法・寸法  3 画風・作者・年代  4 伝来  5 絵巻の分割と所有者
 の変転  6 佐竹本三十六歌仙絵巻断簡の一覧  7 参考文献  8 脚注  9 関連項目

1( 概要 )
藤原公任(966 – 1041)は11世紀初め頃に私撰集「三十六人撰」を撰した。これは、『万葉集』の時代から、平安時代中期までの歌人36名の秀歌を集めて歌合形式としたもので、これら36名を後に「三十六歌仙」と称するようになった。本絵巻はこの三十六歌仙の肖像画にその代表歌と略歴を添え、巻物形式としたものである。上巻・下巻ともに18名の歌人を収録する。下巻巻頭には和歌の神とされる住吉明神(住吉大社)の景観が描かれた図があり、上巻巻頭にも、現在は失われているが、玉津姫明神または下鴨神社の景観図があったものと推定されている。

2( 技法・寸法 )
紙本著色。元は巻子装で上下2巻からなっていたが、上述のように1919年、上巻は18枚、下巻は19枚に分割され、計37幅の掛幅装に改装されている[1]。
寸法は縦が約36センチメートル、横は各幅によって差があり一定しないが、60 - 80センチメートル前後である。

3( 画風・作者・年代 )

各画面は、まず歌仙の位署(氏名と官位)を記した後、略歴を数行にわたって記し、代表歌1首を2行書きにする。それに続いて紙面の左方に歌仙の肖像を描く。上巻・下巻の構成はそれぞれ次のとおりである。
(上巻) - 人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
(下巻) - (住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務

古来、絵の筆者は藤原信実(1176 - 1265)、文字の筆者は後京極良経(1169 - 1206)と伝承するが、確証はない。絵の筆者は数人の手に分かれており、信実筆の可能性が高い後鳥羽天皇像(水無瀬神宮蔵、国宝)よりは様式的に時代が下るものと思われる。また、文字は13世紀前半の作である承久本『北野天神縁起絵巻』(国宝)の第3巻1・2段の詞書の書風に近いことが指摘されている。
以上の画風・書風の検討、また男性歌人像の装束の胸部や両袖部の張りの強さを強調した描き方などから、佐竹本の制作年代は鎌倉時代中期、13世紀と推定されている。
なお、佐竹本の位署・略歴等の文字には誤字脱字の多いことが指摘されている。[2]
描かれている歌人たちは、『万葉集』の時代から、下っても10世紀頃までの人物であり、当然ながら、現実のモデルを前に制作された肖像ではなく理想化された肖像である。画面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則であるが、中で身分の高い斎宮女御徽子のみは繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて、格の高さを表している。36名の歌人の男女別内訳は女性5名、男性31名である。女性歌人は上記の斎宮女御のほか、小大君、小野小町、中務、伊勢で、小大君、小野小町、中務は唐衣に裳の正装であるが、伊勢は唐衣を略す。女性歌人のうち、斎宮女御は慎み深く袖で顔を隠している。また、絶世の美女とされた小野小町は顔貌が見えないように後向きに描かれ、容姿については鑑賞者の想像にゆだねる形となっている。
男性歌人像は束帯姿18、直衣(のうし)姿7、狩衣(かりぎぬ)姿2、褐衣(かちえ)姿2、僧侶2となっている[3]。
男性像では藤原興風、藤原朝忠は後向きの体勢で描かれ、藤原仲文は脚を立膝とするなど、単調になりがちな画面に変化をつけている。なお、凡河内躬恒の図は当初のものが失われ、江戸時代・狩野探幽筆のものに代わっている。紀貫之の文字の部分も後補である。
三十六歌仙は、近世に至るまで画帖、額絵などさまざまな形で絵画化され、遺品も多いが、佐竹本三十六歌仙絵巻は、上畳本三十六歌仙絵巻と並んで三十六歌仙図のうちでも最古の遺品であり、鎌倉時代の大和絵系肖像画を代表する作品と評されている。

4( 伝来 )
旧秋田藩主・佐竹侯爵家に伝来したことから「佐竹本」と呼ばれる。大坂在住の文人・木村蒹葭堂(1736 - 1802年)の『蒹葭堂雑録』によると、元は下鴨神社に伝来したものである。

5( 絵巻の分割と所有者の変転 )
この絵巻は前述のとおり、佐竹侯爵家に伝来したものである。1917年(大正6年)、東京両国の東京美術倶楽部で佐竹家の所蔵品の売立てが行われ、三十六歌仙絵巻は東京と関西の古美術業者9店が合同で35万円3千円で落札した。単純には比較できないが、当時の1万円は21世紀初頭現在の約1億円に相当するとされる。あまりの高額のため、業者1社では落札できなかったものである。同年、この絵巻を購入したのは実業家の山本唯三郎(1873 - 1927年)であった。山本は松昌洋行という貿易商社を起こし、中国で材木の輸出、石炭の輸入などの事業を行い、後に海運業で財を成した人物である。朝鮮半島へ虎狩りに行ったことから「虎大尽」の異名を取り、数々の武勇談や奇行に満ちた人物であった。
第一次大戦の終戦による経済状況の悪化に伴い、山本は早くも1919年にはこの絵巻を手放さざるをえなくなった。ところが、時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はどこにもいなかった。
この絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛らの古美術商は、当時、茶人・美術品コレクターとして高名だった、実業家益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行った。大コレクターとして知られた益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできず、彼の決断で、絵巻は歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなった。益田は実業家で茶人の高橋義雄(号:箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号:幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役として、三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとした。
抽選会は1919年12月20日、東京の御殿山(現・品川区北品川)にあった益田の自邸で行われた。この抽選会が行われた建物は「応挙館」と呼ばれ、後に東京国立博物館の構内に移築されて現存している。抽選会には益田自身も参加し、また、旧所蔵者の山本唯三郎にも1枚が譲渡されることになった。益田は、三十六歌仙の中でも最も人気が高く、最高値の4万円が付けられていた「斎宮女御」の入手をねらっていた。通説では、くじ引きの結果、益田にはもっとも人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまった。それで、「斎宮女御」のくじを引き当てた人物が「自分の引き当てた絵と交換しましょう」と益田に提案し、益田は「斎宮女御」を入手して満足そうであったという。もっとも、翌12月21日付け「東京朝日新聞」でこの絵巻売却の件が報道されたのを見ると、益田が最初に引き当てたのは僧侶像ではなく「源順像」だったことになっており、細かい点についての真相は不明である。
これら37分割された歌仙像は、その後も社会経済状況の変化、第二次大戦終了後の社会の混乱等により、次々と所有者が変わり、公立・私立の博物館・美術館の所蔵となっているものも多い。1984年11月3日、NHKテレビで、三十六歌仙絵巻の分割とその後の流転をテーマにしたドキュメンタリー番組「絵巻切断」が放送され、関連書籍が発行されたことにより、この件はさらなる注目を集めることとなった。1986年には当時、東京・赤坂にあったサントリー美術館で「開館25周年記念展 三十六歌仙絵」が開催され、佐竹本三十六歌仙絵37点のうち、20点が出品された[4]。

6( 佐竹本三十六歌仙絵巻断簡の一覧 )
1919年当時の所有者については、参考文献に挙げた『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』による。

--歌仙名 と 1919年当時所有者/現所蔵先/文化財指定など備考--
柿本人麿 森川勘一郎出光美術館重要文化財
凡河内躬恒 横井庄太郎(古美術商)個人蔵未指定江戸時代の補作(狩野探幽筆)
大伴家持 岩原謙三(芝浦製作所社長)個人蔵重要文化財
在原業平 馬越恭平(大日本麦酒社長)湯木美術館重要文化財・重文指定は2000年
素性法師 野崎廣太(中外商業新報社長)個人蔵重要文化財
猿丸太夫 船橋理三郎(株屋)個人蔵未指定
藤原兼輔 染谷寛治(鐘淵紡績重役)個人蔵重要文化財
藤原敦忠 團琢磨(三井合名会社理事長)個人蔵重要文化財
源 公忠 藤田彦三郎(藤田組)相国寺承天閣美術館重要文化財
斎宮女御 益田孝(三井物産社長)個人蔵重要美術品
源 宗于 山本唯三郎(松昌洋行社長)個人蔵重要文化財
藤原敏行 関戸守彦個人蔵重要文化財
藤原清正 藤田徳次郎(藤田組)個人蔵未指定
藤原興風 大辻久一郎個人蔵重要文化財
坂上是則 益田英作(益田孝の弟)個人蔵重要文化財
小 大君 原富太郎(生糸貿易商)大和文華館重要文化財
大中臣能宣 高橋彦次郎(相場師)サンリツ服部美術館重要文化財
平 兼盛 土橋嘉兵衛(古美術商)MOA美術館重要文化財
住吉明神 津田信太郎東京国立博物館重要文化財
紀 貫之 服部七兵衛(古美術商)耕三寺博物館重要文化財・詞の部分は後補
伊 勢 有賀長文(三井合名理事)個人蔵重要文化財
山部赤人 藤原銀次郎(王子製紙社長)個人蔵未指定
僧正遍照 小倉常吉(小倉石油社長)出光美術館重要文化財
紀 友則 野村徳七(野村財閥創始者)野村美術館重要文化財
小野小町 石井定七(相場師)個人蔵重要文化財
藤原朝忠 小林寿一個人蔵重要文化財
藤原高光 児島嘉助(古美術商)逸翁美術館重要文化財
壬生忠岑 西川荘三東京国立博物館重要文化財
大中臣頼基 益田信世(益田孝の子)遠山記念館重要文化財
源 重之 嶋徳蔵(大阪株式取引所理事長)個人蔵重要文化財
源 信明 住友吉左衛門(15代)(住友銀行創設者)泉屋博古館重要文化財
源 順高 橋義雄(三越呉服店理事)サントリー美術館重要文化財
清原元輔 高松定一(3代)(名古屋商工会議所会頭)五島美術館重要文化財
藤原元真 嘉納治兵衛(7代目)(白鶴醸造)文化庁重要文化財
藤原仲文 鈴木馬左也(住友総理事)北村美術館重要文化財
壬生忠見 塚本與三次個人蔵重要文化財
中 務 山田徳次郎法人蔵重要文化財

7( 参考文献 )
馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984
サントリー美術館『開館25周年記念展 三十六歌仙絵 佐竹本を中心に』(特別展図録)、サントリー美術館、1986
伊藤敏子「佐竹本三十六歌仙絵巻の成立をめぐって」、『秘宝三十六歌仙の流転絵巻切断』、日本放送出版協会、1984所収
真保亨「三十六歌仙絵の展開」、『開館25周年記念展 三十六歌仙絵 佐竹本を中心に』(特別展図録)、サントリー美術館、1986所収
『鈍翁の眼 益田鈍翁の美の世界』(特別展図録)、五島美術館、1998

8( 脚注 )
◎1919年に「切断」されたとする資料が多いが、刃物等で「切断」したのではなく、つないで
 あった料 紙の継ぎ目をはがしたものである。
◎伊藤敏子、1984
◎真保亨、1986
◎同展覧会の図録によると、次の20点が出品された。人麿、業平、素性、公忠、宗于、敏行、兼
 盛、住吉 明神、貫之、伊勢、遍照、小町、朝忠、高光、頼基、重之、信明、元輔、元真、仲文。

9(省略します)
by kanakin_kimi | 2012-05-29 18:27 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

HAARPの軍事利用

以下の文書をどこで手に入れたか忘れてしまった。もうしわけありません。

神秘的な姿を見せるオーロラ。それは、大気圏の電離層に生じる美しい自然現象である。このオーロラを研究するための施設が、アメリカ・アラスカの片田舎に存在している。
 正式名称を「高周波活性オーロラ調査プログラム」、略称はその頭文字を取ってHAARP(ハープ)と呼ばれる。
“HAARP――High-frequency Active Auroral Research Program”
 米軍公式文書によると、その目的はこう書かれている。

「電離層の現象をコントロールする実験を行なうために、高周波を照射して電離層に熱を発生させること」
 手短に表現すると、HAARPは電波望遠鏡と反対のことをする。つまり、HAARPはオーロラ観測システムではなく、地上のアンテナから電磁ビームを放射する人工オーロラ実験といえよう。
 このHAARPによる研究で得られたデータは、電離層の基本的な性質を理解し、電離層を利用したよりよい通信システム構築に必要不可欠である。つまり、HAARPによる電離層研究は、将来、人類のためになる純粋に学術的なプロジェクトだというのである。
 さらに、広範囲にわたって、地球の断層を撮影したり、石油、ガス、鉱物資源を調査するための、地球物理学的探査をすることも可能になるというのだ。

……というのはすべて大嘘である。こんな宣伝にだまされてはいけない。そもそも、米軍の別の資料では、HAARPの目的が「国防省の計画のために電離層を巧みに利用すること」にあるとされている。たとえば、潜水艦と連絡を取るために。

 もちろん、それだけではない。

ウィスコンシンとミシガンに拠点を置く、超低周波を使った巨大な潜水艦用無線システムを、新しくコンパクトなものにできる。
遠隔レーダーシステムを、より正確で適応範囲の広いシステムに代えることができる。
低空飛行で到来する戦闘機やミサイルを発見することができる。そして他のテクノロジーを使用不能にできる。
広範囲にわたって、通信システムを破壊することができる。ただし、その間、軍の通信システムだけは正常に機能する。
 それだけではなく、HAARPは兵器として使用可能なのだ。
 たとえば、大気の広範囲にわたる部分が意外な高さに持ち上げられるため、ミサイルが予期しない力に遭遇し、予定外の場所で爆発を起こす。
 さらに、放射能を発散しない核兵器サイズの爆発、パワービームシステム、遠隔探査レーダー、核弾頭搭載ミサイルの探知システム、電磁パルス攻撃なども可能。すなわち、これまでにない強力なエネルギーを秘めた兵器が登場したのである。広範囲にわたって一気に焼き尽くす最終兵器、それがHAARPの正体だ。
 HAARPは空から襲いかかるだけではない。電磁波放射線を電離層に反射させて地球を貫通させることもできる。そして、これらの放射線は、地下深くに隠されている兵器、鉱物、トンネルの所在を突き止めるのに使われるとしている。1996年、合衆国議会はこの能力、つまり地球貫通断層撮影法を開発するために1500万ドルを投資した。

気象兵器

 HAARPによって天候の操作も可能である。つまり、強力な気象兵器としてもHAARPは使えるというわけだ。
 HAARPは、比較的不安定な状態の電離層を攻撃する。専門家によれば、電離層がかき乱されると、その下の大気も影響を受けて乱されるという。最先端の研究によれば、地球の気象というのは、気圧と熱だけではなく、電気システムの影響を受けることも明らかになっている。
 しかも、HAARPは小さなエネルギーを電離層で何千倍もの強さに増幅するシステムであると説明されている。
 ある政府公文書では、軍が天候制御装置を持っていることが示されている。それによれば、HAARPがその能力をフルに発揮した場合、地球の半分の天候に影響を与えることになるというのだ。アメリカ一国が天候パターンに手を加える実験を行なえば、それはこの惑星全体の人間に影響を与える。
 実際、アメリカ軍は、HAARP以前に天候を利用した軍事戦略にもう数十年も取り組んでいるのだ。彼らは、それを隠蔽するために「天候修正技術」と呼んできた。敵国上空のオゾン層に損害を与えるために、レーザー装置と化学物質の両方を開発していたともいう。

 1994年、アメリカ空軍は、天候操作を含むスペースキャスト2020の基本計画を発表した。天候のコントロールについては、1940年代から実験が行われてきている。しかしスペースキャスト2020では「他の国家を破滅、破壊、あるいは損害を与えるために環境操作技術を使ってはならない」とわざわざ明記している。ということは、それが可能だということだ。

 1958年、当時、天候操作計画を担当していたホワイトハウスの最高顧問、ハワード・T・オービル大尉は、次のように発言した。

「アメリカ国防総省は、地球と大気の電荷を操作して、気象に影響を与えるための方法を研究していた。このため、特定区域上で電子ビームを使用して、大気をイオン化、あるいは非イオン化する研究がなされていた」

 1966年、大統領直属の科学諮問委員会メンバー、ゴードン・J・F・マクドナルド教授は、その著書『平和が来ない限り』に「環境を破壊する方法」という章を書いている。天候操作技術、気候修正、極地の氷河融解、極の変動法、オゾン層破壊技術、地震工学、海の波のコントロール、惑星のエネルギーフィールドを利用した脳波の操作が可能だというのだ。そして、彼は述べる。

「今後こうしたタイプの武器が発展し、それらが使われると、攻撃を受けた人間は何が起きたのか理解できないだろう」
「地球物理学的に見るならば、戦争の勝敗を握る鍵は、小さなエネルギーによって巨大なエネルギーを放出する、環境の不安定要素を確定し、それを利用することにある。」
 その三十年前の夢をかなえた超兵器こそ、まさにHAARPであった。

 カーター大統領時代の国家機密顧問ズビグニュー・ブレジンスキーはこう述べている。

「エリートたちは大衆をコントロール下に置くために、細心の科学技術を駆使して自分たちの政治的な目標を達成しようとするだろう。そして、科学技術は彼らの思惑どおりに利用されるだろう」

マインド・コントロール

 そして、HAARPの最大の恐怖は、マインドコントロールにある。
 政府とアメリカ空軍の資料には、次のような説明が書かれている。

「人工的につくり出された電磁場の応用範囲は広く、軍事活動、あるいは準軍事的活動において有効に活用される」
「用途として、テロリストグループへの対抗手段、大衆のコントロール、軍事施設のセキュリティ管理、戦術的な対人技術への応用などが考えられる。これらすべてのケースにおいて、電磁気システムは、症状の軽いものから重いものを含め、生理学的身体の破壊、知覚のわい曲、あるいは方向感覚の喪失を引き起こすことができる。これにより、人間が戦闘能力を失うレベルにまで、身体機能が破壊される」
 脳生理学研究者ホセ・デルガド博士の研究によると、地球の電磁場の50分の1程度の微弱な低周波であっても脳の活動に甚大な影響を与えることがわかっている。遠距離から電磁波を照射することによって、睡眠状態から興奮状態まで人工的に作り出せるというのだ。
 さらに、神経外科医ロバート・ヒース氏は、脳に対する電気的な刺激が、恐怖や快楽といった感情だけでなく幻覚も作り出せることを発見した。こうした技術を使えば、文字どおり人間の意思を操れるようになる。

 HAARP装置から発されるのは、地球の電磁波と同程度。ということは、デルガド博士の使ったような微弱な低周波の50倍にも及ぶ。しかもその電磁波は北半球全域を覆うことになるのだ。そうなれば、意図的なものか否かは別として、北半球数十億人の精神に強烈な影響を与えることになる。
 HAARP以外にも、アメリカは電磁波マインドコントロール計画を推進してきた。ここに挙げるのはその一部である。
 
1953年MK-ウルトラ
(MK-ULTRA) 薬物・電子チップ・電気ショックを使って失神、暗示によるプログラミングを行なう。
1958年 プロジェクト・ムーンストラック(ProjectMoonstruck) 
手術または誘拐して密かに、電磁波を出すチップを脳と歯に埋め込む。
 目的:追跡、マインドコントロール、行動コントロール、プログラミング、秘密工作

1958年 プロジェクト・オリオン(Project Orion) 
亡命した大物など最重要人物の事情聴取を行なう際、薬物・催眠術・脳電気刺激によって、プログラミング・忠誠心の確保を行なう。

1960年 MK-デルタ(MK-DELTA) 
微調整された電磁波によるサブリミナル・プログラミング。一般人の行動や態度をプログラムする。疲労感、気分のむら、行動機能不全、社会的犯罪行為をもたらす。

1983年 フェニックス2(PHOENIX II) 

モントークにて実験。電磁波を使って特定集団を標的とする。彼らを使ってさらに大衆をプログラミング。また、特定の地域に地震を起こすこともできる。

1989年 トライデント(TRIDENT) 
三機編隊の黒いヘリコプターによって、個人・特定国民を対象とし、大集団の管理と行動統制、暴動統制を行なう。連邦緊急時管理庁(FEMA=フィーマ)と協力。

1990年 RFメディア(RF MEDIA) 
テレビやラジオを通したコミュニケーションによって、電磁波を使ったアメリカ国民へのサブリミナル暗示とプログラミング。行動欲求を操作して、心霊能力を破壊。集団的電磁波コントロールの準備過程とされる。

1990年 タワー(TOWER) 
携帯電話網を使って、電磁波による全国的サブリミナルプログラミングと暗示。神経の強震とコード化された情報によって、神経細胞の変化とDNA共振の修正、超能力の抑制を行なう。

1995年 HAARP(HAARP) 
電磁波による一般大衆コントロール。集団的に行動を変えさせる。
 すなわち、HAARPは歴代のアメリカ・マインドコントロール技術の集大成であり、またその規模もかつてないほど強力化された最終マインドコントロール兵器なのだ。

非殺傷性兵器――Non Lethal Weapon

 アメリカで近年開発対象となっているのが、「非殺傷性兵器」と呼ばれる新兵器だ。直接相手を殺すのではなく、戦う気をなくさせたり、戦闘不能にさせるためのものである。電磁波照射、電磁パルス、極調長波、レーザー光線、化学薬品などが使われる。もちろん、HAARPもその一つだし、数々のマインドコントロール手段もそうである。だからHAARPは安全だ、というのが公式見解。
 この非殺傷性兵器の実験はすでに完了している。湾岸戦争で、勇猛なイラク兵がいとも簡単に降伏したのは、非殺傷性兵器のおかげだった。
 ところが、非殺傷兵器に関するアメリカ国防総省の文書にはこう書かれている。

「非殺傷兵器を使用しても生命に危険が及ぶようなダメージが与えられるような場合もある」

 つまり、使い方によっては、非殺傷兵器で殺害が可能であることも事実なのだ。

 国防総省文書には、さらに戦慄すべき内容が記されている。

「この文書内で使われる敵対者という言葉は、非常に多様な意味を含んでいると解釈していただきたい。政府によって認定された敵対者のみならず、政府が終結したいと望んでいるような活動に従事しているような者も含まれる。また、公安関係諸機関と協力する形における軍による国内での非殺傷兵器の使用は、妨げられないものとする」
 政府が終結したいと望んでいるような活動とは何だ?
 この兵器を使って、彼らは何をつぶそうとしているのだ?
 それこそ、闇の世界政府によるグローバリゼーションや統一世界政府構想にとって邪魔な愛国者集団や、あるいは真実を見いだした人々にほかならない。

 その前哨戦が、たとえばオクラホマ連邦ビル爆破事件のFBIによる自作自演などの事件なのである。
by kanakin_kimi | 2012-05-28 15:59 | HAARPの地震気象変動軍事 | Comments(3)

少女のときは止まった ( 8 )法の精神と訴訟構造 

私たち一般市民は、通常の感覚として「警察・検察・裁判所、弁護士、そして、報道機関」は「真相の解明」を行うものと思っている。

ところが、警察・検察・裁判所、弁護士は「真相の解明」はしない、そして、報道機関もやらない。
「現在の、法の精神と訴訟構造が、真相解明を求めていない」からである。
こんなことを書くと、四方八方から怒られそうである。しかし、これが現実なのである。
ただ、それでも「警察」「検察」「裁判所」「弁護士」そして、「報道機関」のそれぞれの組織の中にいる「個人の人間性」が「真相解明を求めて」個人の責任と任意で追求されているというのが事実だろう。そして、それが増えている。
組織の責任は「法律に規定されている事項の遵守」に従っているだけである。だから、個人の責任と任意で「真相解明」に取り組んでも大概は「熊本典道」さんのように「合議」で挫折することが多い。
「法律に規定されている事項の遵守」という「組織の責任」が問われていて「個人の責任」が問われないようにしている。これは、一見、個人が守られているように見えるが、どうしてどうして「これで、組織を守っている」のであって、「個人を守っている」わけではないのである。そして、はっきり言えば「これで、組織という支配構造を守っている」のである。早い話が個人の責任と任意で「真相解明」をすることにすら、勝手に「真相解明」をするな、「法律を守っていればいいのだ」といっているのだ。これが、現在の「法の精神」である。
ところが、これが実は実社会における個人の人権を守る上で「根本的なネック」になっているのである。
何故なら「個人の責任」が問われていれば、「組織」がなんと云おうと「上司」がなんと云おうと、自分の責任の範囲をやり遂げようとするし、それが社会的に認知されているから組織や上司も露骨に妨害はできない。
これが基本的な「法の精神」であり、日本の「法の精神」との大きな違いなのである。
「裁判員制度」は、「社会のすべての人が、社会の仕組みに直接参加するシステム」のひとつである。
市民一人ひとりが「人権の独立」を認識していれば、「ひとが自立し、独立することに協力する」はずである。
つまり、「社会のすべての人が、社会の仕組みに直接参加するのは当然のことだからである。」
そしてまた、「すべての人が、直接参加できるようにするのが社会の責任なのである。」
今やっと、そういうシステムが作られ始めた。社会の仕組みにみんなが参加するようになれば、その仕組みの欠陥がどこにあるかを、みんなが見つけてくれる。そして、そこに問題があれば修正していく行動が生まれる。
訴訟構造に、「風穴」が開けられたのである。
by kanakin_kimi | 2012-05-23 19:52 | 袴田事件 | Comments(0)

少女のときは止まった (7) ( 事件構造 )

冤罪事件の「事件構造」は、「発端となる事件」がまず発生し、その真犯人を別の人物に置き換え転嫁するということで「冤罪事件」が発生するのである。
つまり、「冤罪事件」という枠組みの中に「発端となる事件」が内包される「二重構造」になっているということなのである。この「二重構造」にも事件によってはいくつかの種類がある。いずれにせよ、「捜査権力を左右できる者の犯罪」であることには間違いない。
しかし、この事件を例に見るように、それだけでは「冤罪事件」を作ることはできない。どういうことかというと、「権力構造」が、捜査機関の権力が世論や報道機関などを含めて圧倒的に強く、押さえ込む力を発動できる社会構造である場合ならいざ知らず、間接民主主義が積み重ねられた社会である。「代議制支配構造」と「政党政治」の「間接民主主義」による「パワーバランス」が推移している状況であるのでそれに見合った「責任構造」もあるということである。
「袴田事件が作られる全体像」の概略を見てみよう。
◎警察は、「袴田巌さんを犯人視する」「見込み」捜査で「自白強要」の「落とし込み」を行い、自白をでっち上げて「本人が自白したのだからもういいじゃないか」と、抵抗する「捜査員」や「解剖鑑定者を屈服させ」るなど「証拠の隠滅とねつ造を行って」「白絵」を描いて検察へ送る。
◎検察は、警察が描いた「白絵」に「クロ」の「塗込み」を行って「起訴」した。
◎報道関係は、はじめは、調査報道に努力していたが、ある時期から「警察の情報操作」と「スクープ合戦」に揺さぶられる形で一斉に「袴田犯人説」に傾斜し、新聞・ラジオ・テレビなどの報道の一般市民への「刷り込み」報道が積み重ねられた。
◎弁護人は、依頼人から依頼されて初めて事件に着手するので、それまでの報道に刷り込まれた先入観を排除することから始められる。検察から提出されている調書や証拠類は小出しにしてくるので、事件の全体像を把握することもなかなか困難な立場に立たされている。
◎一般市民は、「報道機関は独自の調査報道をしている」から「正しい報道をしている」ものと「思い込み」、一般市民の多くがその報道を「無批判に受け入れ」て「世論形成」が行われた。
◎裁判所は、左陪席の起案した「無罪判決」を「合議」では、その世論に屈した形で、「異例の捜査批判と事実認定の混乱など」ない交ぜながらも「死刑判決」が言い渡され、最高裁判決で「死刑確定」との「法(のり)込み」裁判が行われてしまった。
このような形で、「袴田事件」という「冤罪事件」が出来上がったのである。

つぎに、これらをよく見るとわかるように、全てにおいて「組織」や「集団」に「個人の責任」が「かくされている」のである。そして、その裏返しとして「真相解明」をさせないような「仕組み」が作られていることに気づく。
既にご承知のように、第一審静岡地裁判決を書いた「熊本典道」氏は、「自分としては無罪の心証を持って無罪判決を起案したが、合議で容れられず、忸怩たる思いで有罪判決を書いてしまった。袴田君には誠に申し訳ないことをしてしまった。」と「懺悔の謝罪を公開」している。
by kanakin_kimi | 2012-05-19 17:39 | 袴田事件 | Comments(0)

少女の時は止まった (6) 前回の10を含む

20数年前にも聞いた少女が云った言葉は、ー 「私は今でも、袴田が有罪、死刑と思っている。死刑囚として刑務所に入っていてもらいたい――」。というものであった。
この言葉は、「不可解な余韻」を持っていた。
そこには、通常の「犯罪被害者が発する言葉」とは全く異質なものを発していた。
裁判資料を調べ、現地調査をし、裏付け検証実験を通じてそれがなんだったのかがわかった。少女のそれは、「トラウマ」ではあるが、「犯罪被害者のトラウマ」ではなかった。
事故であれなんであれ、少女自身が妹(等?)を死なせてしまって、それがきっかけで
「お父さんが(妻等を死なせてしまい?)自殺をするはめに至ってしまった。」
その上「お父さんの遺言」から「少女をかばった人々が罪を犯してしまった。」

それらの秘密を共有している人々は、今度は自己防衛のために「裏切りを許さないとの情報統制の縛りをかけ」て、「自縄自縛の時」をあの日以来共有してしまったのである。
15年の歳月を経て、最高裁判所は「袴田巌」さんへの死刑判決を確定させた。
これで「自縄自縛の時」から、「安堵のとき」を迎えたかに思われただろう。
ところが、1981年11月15日「事件現地の旧清水市に袴田巌さんを救援する会の設立への呼びかけ」と「高杉晋吾著作(地獄のゴングが鳴った)出版記念」を兼ねての集会が「東京の救援会」によって開催された。「冤罪事件」として、「袴田巌さん」を救援する会の発足と活動が事件現地の清水市で始まったのである。
このことは、集会を前後して「新聞・ラジオ・テレビで報道」され、「自縄自縛の時」は再開することとなったのである。
それが、翌月12月29日に(H Y)さんの「自宅納屋での首つり姿の発見」につながったのであろうか。
ビラ配りや署名集めが行われ、毎年「再審開始」を呼びかける集会が開かれ、調査活動が元従業員にも及ぶようになり、ますます「引き締め」が強くなったのだろう。
元製造技術の担当課長をしていた(M T)さんが死んだ。

1966年6月29日以来、止まってしまった自分自身とあなたを守ろうとしてきた人々の「自縄自縛の時」からの解放が求められている。
そして「元従業員のみんなへの引き締め」からの解放を、あなたは実行する責任がある。
そして、あなたは袴田巌さんに謝罪する証として真実を述べる責任がある。(少女の時は止まった 10)

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by kanakin_kimi | 2012-05-11 22:50 | 袴田事件 | Comments(1)

少女の時は止まった (5)前回の9-1- 〜9-3-を含む

証拠となる事実の「ねつ造」というのは、前もって「真実」の「シナリオ」を知っていなければなし得ない。しかし、すべてをねつ造する事はできない。すべてをねつ造すると、「ねつ造したシナリオ」と現場の事実との隔たりが大きくなり、誰にでもそのねつ造部分が発見されるからである。したがって、「誰にでもそのねつ造部分が発見されないようにする」ために「真実のシナリオ」と「ねつ造したシナリオ」のはざまに「犯罪現場と捜査報告書のシナリオ」をつくるのである。すなわち、「犯罪現場と捜査報告書のシナリオ」には、「犯罪現場」を「正確に写し取った捜査報告書」と「隠滅とねつ造を反映した捜査報告書」がないまぜになって存在するはずである。その隠滅とねつ造を発見するために着目したのが、「死体には明確にある、致命傷となるほどの傷が見える写真が添付されている」のに「死体実況検分調書や鑑定書には記載されていない」事、「死体が発見された場所と死亡した場所の違いが明確に示されている遺物を無視している」こと。「旅行から帰って家に入って応接間で土産を広げ、アイスクリームなどそれを示す遺物がある」のに「それを無視して、強引に家に入らなかったとする事実をでっち上げている」事。それらが示すのは、正にそこに真実と虚偽の分水嶺があり、「隠滅と捏造のシナリオ」へと「逆行的構成」を行ったものと言える。
従って、「真相の再構成」は。まづ「真実と虚偽の分水嶺」を発見する事であるので、この事件では「表シャッターという場所の分水嶺で時間の分水嶺は6月29日22時30分頃」である。
そこから[逆行的構成を行った「隠滅と捏造のシナリオ」]へと「遡行」して真相を明らかにしていくわけである。このシリーズ1〜8までに述べてきたストーリーは、その一端である。(少女の時は止まった 9 - 1 - 逆行的構成と遡行)
「証拠のねつ造」と「証拠の隠滅」は切り離せない関係にある。「実態真実」は「空間に広がる質量の連続である」と私は定義している。これは、「質量不変の法則」や「エネルギー保存の法則」が通用する領域であるという前提に立っている。つまり、「証拠のねつ造」と「証拠の隠滅」は違った時間・違った空間にずれているので「空間に広がる質量の連続」上のそれぞれが「独立した、切り離せない連続関係にある」にもかかわらず、「同一時間・同一空間に牽強付会させて、無理矢理押し込めているのである」。即ち「質量不変の法則」や「エネルギー保存の法則」が通用する領域で、それを無視している「仕業」なのである。それがわかれば、今まで見えていなかったものが見えてくる。
1)少女の供述調書の「表シャッターの内と外」を反転させるとつぎのようになる。
●6月29日21時過ぎまでに、少女が旅行から帰ってくる。すぐ後にお母さんが店
を閉める。家庭教師が店の前を通ったときには表シャッターが閉まっていた。(供述
が正しければ)
九州日南の絵はがき数通、アイスクリームの空箱3〜4個。(表応接間テーブル上)
●6月29日22時30分過ぎ  お父さんが表シャッターをたたく。(今帰ったの
声)

2)何故強引に逆転させる必要があったのか。それは、少女をよろしく頼むとお父さ
んから依頼された人々が、お父さんが自殺した後「ストーリーを少女と切り離す」と
いう事が中心課題であるからである。
3)第一段階のシナリオ
 お父さんからの依頼に従って作った最初のシナリオは、[お父さんが犯人]として
作られていた。従って、ここでは死体を動かしてはいなかった。ただ死体には一度目
の焼却が施された。と考えられる。
4)第二段階のシナリオ
 お父さんの自殺を否定して、[外部犯行]に変更する。従って、自殺を示す事実を
隠滅し外部犯行を示す状況をねつ造する。そこでまず、お父さんの死体を裏木戸通路
へ移動する。(その時、その部屋には二組の布団が敷かれており、掛け布団は敷き布
団の上に、通常通り広げて敷かれていた。死体を移動した際その掛け布団の縁を通る
形になったのだろう。掛け布団の縁に点々と血痕が落ちている。)
5)第三段階のシナリオ
 第二段階のシナリオに変更する事に伴い、藤子さん・お母さん・弟の三人の死体も
第二のシナリオに合わせて移動する事になり「すべてを外部犯行に合理性を持たせる
証拠作りを行う」。
6)捜査関係者の参加
 第一段階のシナリオを実施した後、様々な問題が発生した。そこで、(I A・ M K
等)に相談して市の (T K)氏、県の( I X )氏に相談してはどうかという事になり、そ
の結果第二・三段階のシナリオになったものと思われる。(少女の時は止まった 9 - 2 - 隠滅とねつ造の構造)
「発端となる事故・事件」は、「お父さんの自殺」で終わる。
したがって、その時点の「死体の位置」は、つぎのようになっていたはずである。
[1階母屋]・表8畳間の寝室は布団が2組敷かれている。お父さんは、床の間に枕をおきそれに座ってポケット瓶のウイスキーを飲み、2連銃で「銃口を両目の間に当てて一発目が撃たれ、衝撃で頭がはじかれるその瞬間に2発目が撃発して左口角を抉った」傷を残して、自殺し崩れるように前に倒れる。その時巻き込むように蚊帳を引き落としたかまたはその前に蚊帳を引き落としてたぐり寄せていたその端に頭から倒れた。藤子さんは、ピアノの間に1組の布団が敷かれてある。その掛布団の上に仰向けになってあごをあげ加減で左額の銃創らしい穴から血が噴き出し、両眼窩に溜まりあふれて2条の筋と左額の銃創付近の1条の筋の3ヶ所から頭の位置の掛け布団に血が滴り落ちている。一発目は布団又は畳に銃の穴があるはずである。撃つつもりではなかった二発目が衝撃の反動で撃発し、額の穴を創傷したものと思われる。確実に撃つつもりであったら、一発目が左額の傷という事になり、二発目は左頬ではないかとみている。というのは、左額から血液と脳漿が吹き出して火炎で焼かれて瘡蓋状になっているものと考えたが、二発目が打ち込まれた穴から噴き出した血液などの瘡蓋状とみる事もできる。
[土蔵2階]の弟の部屋。お父さんが(あなたが使った)銃を持って階段を上がっていった。斜めに敷かれた布団の左又は右方向に、弟の背後からお母さんが被さるようなかばったかっこうの、お母さんの右あごが左鎖骨あたりにくっついている(後ろを振り向き様、やめてー!という声が聞こえてくるような)状況の丸めた背中に2発の銃弾が撃ち込まれた。弾丸が突き進む方向に銃創ができている。それをつなげると、[お母さんの]背中の傷ー左鎖骨の中から突き出したと思われる2連の穴ー右あごと右頬の2条の引き裂いた傷ー[弟の]後頭下部からー鼻柱と右目の間を突き抜けた傷(解剖を担当した医師は添付しているはずだという弟の顔正面写真が意図的に抜き取られているのか存在しない。)(そして、おとうさんは銃を持ったまま、土蔵の二階から母屋の表八畳間の寝室に戻り、床の間に枕をおき、それに座ってポケット瓶のウィスキーを一口二口あおった後、銃口を眉間に当て、足の指で引き金を引いたのである。)
これが、「証拠の隠滅とねつ造」の林道をさかのぼる作業をした結論である。(少女の時は止まった 9 - 3 - 「証拠の隠滅とねつ造」の林道をさかのぼる)
by kanakin_kimi | 2012-05-07 11:46 | 袴田事件 | Comments(0)

3・11をどうする 11

NHKやその他の報道機関が福島原子力発電所の10キロメートル以内に放射能が蓄積されて対処しきれない死体が1000体あるいはそれ以上も可能性があると思われる状況であることが報道されないものだから、未だに「原発の再稼働を自分の仕事と結びつけて、希望している人の発言だけは報道している。」
そもそも、「東日本大地震」を発生させた大きな原因に「アメリカ軍のHAARPと原潜からの核爆弾三連発による地震誘発と片道大津波を発生させた」ということが、未だに追求されていない。
日本の政治学会年報に「指導者原理」について書かれている論文があった。支配の論理は、その集団の指導者を支配できれば、その集団を支配できるというものだそうである。
してみると、日本の内閣総理大臣を支配する機能を「イルミナティ」が持ったのであれば、「イルミナティ」が「日本」を支配する権能を持つことになるということであろうか。しかし、それはきわめて甘い考えである。
by kanakin_kimi | 2012-05-06 17:40 | 311はアメリカの人工地震説 | Comments(0)

少女の時は止まった (4)前回の6〜8を含む

少女が、袴田さんを、「・・・そのまま刑務所にいてもらいたい。」と黒羽記者にいった言葉は、実は20数年前にある記者から私も聞いていた。
当時もその「・・・そのまま刑務所にいてもらいたい。」というフレーズを「奇妙な余韻」を持つ言葉として記憶していた。だから、あの記事を目にしたとたんに満を持していた私の最後の詰めが始まったのである。
黒羽記者はそれを一回聞いただけで取り上げたのであるから、感性の豊かさを示すものである。
以前、清水袴田巌救援会で活動していたことがあり、その当時の事務局通信には関係者の名前をフルネームで書いていた。発行部数も少なく、何よりも組織内の連絡通信というスタンスがあったからである。しかし、救援運動組織からはなれ、私個人の責任に於いてこのブログで書くことになったので、名誉毀損などに抵触しないように、知らない人にはわからないという程度のものにしている。
無実の罪で理不尽な思いをされている袴田巌さんにとっては、生温いかもしれないが当事者の良識を自らの行動で示していただきたいと考えているのです。しかし、それが見られないと判断できるときには、私も覚悟を決めてフルネームを出す事にする考えである。社会のシステムを悪用しているものの「名誉」とはどういうものかを裁判で争い、社会に明らかにするというのも一興ではある。
 さて、「表シャッターの内と外」が「逆転」している「少女の供述調書」を作ったのは、捜査員である。しかも、捜査本部内の意見対立が明瞭にみられる。基礎捜査段階からすでに「捜査誘導」の意図が見られるのである。早い話が、事件発生直後からその動きが進んでいると見られる。例えば「死体の傷の隠蔽」が明確にある。直接の死因とその凶器につながる傷を隠蔽したのである。そして、別の凶器による「死体の傷のねつ造」と対応していたのである。このことは、「死体の傷の隠蔽」は事件発生後の捜査段階であり、「死体の傷のねつ造」は事件発覚以前であることから考えれば「隠蔽とねつ造」に捜査関係者が関わっている事を示すものである。また他方では、基礎捜査を正確にやり、正確に捜査報告書を書いている捜査員もおられる。ところがそれが捜査方針と矛盾するものだから、書き直させられたり、それに応じないと別の部署(防犯)から警部補を引っ張ってきて調書を書き直させたりしている。また、ひどい事には7月中頃に静岡市の北安東で老夫婦殺害事件が発生する際に良識ある捜査員が人事異動させられたりして、「粛正」しているのである。
清水警察の(T K)捜査一課長が事件当夜である6月29日の夜宿直当番をしており、消防署の出動を遅らせている事実がある。6月30日の死体実況見分調書に過去の冤罪事件で名をうっている「鈴木完夫」氏の名前がある。これを含めて良識ある捜査担当者の抵抗の痕跡が全資料を丹念に見れば真実を書き残してくれていることも明らかだ。しかし、その粛正以来「袴田巌さんを犯人視する見込み捜査」が進行していった。(少女の時は止まった 6)
静岡県内でいままで露見している冤罪事件の多くは、発端となる事件の犯人と警察関係者それも管理職クラスとの人的交流が日常にあり、且つ親戚関係にある場合がある。しかも、冤罪事件に捜査方針を誘導するのにはリスクが大きく、金もかかるのである。したがって、必ず「発端となる事件の犯人」がその金を融通できるほどの資産家である事がはっきりしている。この事件でも「橋本藤作商店」の当時の現金資産は「従業員名義の預金」が相当あり、新聞紙上でよく見られる長者番付の金額に匹敵するものであったようである。ところが、事件後それがなくなっているところから無限責任社員の橋本藤作さんが経理課長の( I S ) さんに、「いっちゃん金がもっとあったはずじゃないか」といっていたようである。
その後しばらくして、藤作さんが亡くなっている。これを発端として、関係者の不可解な死の軌跡がみられる。「橋本藤作商店」の二代目の無限責任社員(M T)さん、おとうさんの友人( H Y) さん、元製造課長の(M T)さん、などである。とりわけ、離れで用心棒をしていた( S )さんは事件発生以降どこへ行ってしまったのだろう。大花であった (H Y)さんは、何故、元プロボクサー袴田巌さんを救う会・東京救援会が事件現地清水で「高杉晋吾著作・地獄のゴングが鳴った」出版記念集会の翌月12月29日に納屋で首つり死体で発見されたのか。わたしたちの取材に快く応じてくれた元製造課長の(M T)さんは、「いまでも当時の工場関係者は集まって勇気づけあっているよ」といっていたのに数ヶ月後亡くなったそうで、これらの不可解さが、わたしにはどうしても工場関係者への「口封じの恐怖」を与え続けていたと思われる。
そして、それが、いまに至っても続いているように思われてならない。(少女の時は止まった 7)
お父さんが、大花であった( H Y )さんは「東洋スーパー化学」という会社を経営していたお父さんの友人である。
1966年6月30日の朝刊に「友人談」として、短い記事があった。しかし、それには29日の夜に大花で会ったという話は出ていない。
それ以後、15年も経って、1981年12月29日( H Y ) さんの自宅の納屋にみかんを取りにいった奥さんが「首つり姿の( H Y )さん」を発見した。自殺するはずがない、しかも死体には両肩に結んだロープの輪っかが残っており額に陥没の傷があったこと、下着には失禁のよごれがないことなど家族は自殺で処理された事に対する不可解さを不満と畏怖を込めて、そして、「袴田事件」となにか関係があるのではと、語っていた。
というのは、そのひと月あまり前11月15日に清水の神社のホールで、「高杉晋吾著・地獄のゴングが鳴った」の出版記念をかねた「元プロボクサー袴田巌を救う会」の東京救援会が現地清水へ「救援会発足」を推進する呼びかけが行われたのである。そして、その集会の開催予告が新聞紙上にも出されていた。開催予告や集会の模様などの新聞報道をみた( H Y )さんが「誰か?」を訪ねたのであろう。(この誰か?は、大花に集まった3人のもう一人(A M)さん以外に考えられないのだが。)
12月27日家を出たきり29日に納屋で首つり姿で発見されるまで帰ってこなかったが、いつも商売で急に出かけて数日帰ってこない事が度々あったので、今回もそれかなあと思っていたと奥さんはいう。そして、「自殺で処理された」という。実はこの顛末に( A M )氏が登場するのである。(少女の時は止まった 8)
by kanakin_kimi | 2012-05-06 13:45 | 袴田事件 | Comments(0)

少女の時は止まった(3)前回の4〜5を含む

お父さんから呼び出された( I R )さんは、母屋でお父さんにあった後工場の方へ行き、( S )さんと話し、寮の様子を確認して、電話を借り清見寺の日比野医院へ子供が熱を出したので診てほしいとお願いしていた。母屋に戻ると、お父さんが( I S )さんに連絡しているようでした。それにしても、火事が発生したのはいつだったのか、お父さんはその間何をしていたのだろうか。
もう一度振り返ってみましょう。
あなたが旅行から帰って、表応接間でお母さん・妹の藤子さん・弟の3人にお土産をわたし、旅行の話をしていたことは、現場に残されていた九州日南の絵はがきやアイスクリームの空箱等が物語っている。弟が自分の部屋の土蔵の二階にかえり、お母さんが表寝室に2組の布団を敷き、藤子の部屋の布団を敷いた後、土蔵の方へ行って弟の布団を敷いていましたね。それ以後、お母さんと弟の生きた姿は観られていない。
現場に残された遺物に語らせよう。
火災現場から4人の遺体が発見されている。
藤子さんは、うつぶせの姿で、ピアノの間(藤子の部屋)のピアノの脚に左腕を絡めた格好である。
それは、まるで仰向きの額の穴から噴き出した血液が両眼窩に溜まり両目尻からこぼれた二条の筋と額の穴からこぼれた一条の筋の三カ所から、掛け布団に滴り落ち、その上から油をかけられ一度焼かれて、仰向きの全面が焼けただれている事実を隠そうとするかのように。
そして、お母さんと弟は表寝室に3枚の敷き布団があり、真ん中の布団に横向きで抱き合うような姿である。
弟の部屋は土蔵の2階であり、そこには敷き布団のしたに引いてあるクッションと掛け布団が丸められてある。まるで、土蔵二階の敷き布団が表寝室へお母さんと弟をその布団に乗っけたまま運び込まれたようにである。
お父さんは、裏口木戸の近くに仰向きになって最後に見つかった。
しかし、お父さんのズボンは表寝室床の間前の枕元に後背部が焼けて前部だけが焼け残り、引きずられたようにたぐりまくられている。床の間で枕に座ってウイスキーを飲んでいたらしくポケット瓶があり、二連銃で撃ったような両目の間の穴とその衝撃で頭がはじかれた後の瞬間に左口角を大きくえぐった穴がある。そして、上体が前に崩れて、蚊帳に倒れ込み顔の傷からでた血だまりが焼け残った蚊帳にあり畳にある。お父さんの死体を背部から一度焼いている。その後裏口木戸の近くまで運んだのだろう。その時ズボンの前部がたぐられ、お父さんの血が点々と掛け布団に落ちたのだろう。
お父さんは、(I R ・ I S ・ I A )さん等に後の事をよろしく頼むと遺言して「自殺」したのであろう。その、自殺した「道具」が、他の三人の死因となる傷を付けた道具(凶器)でもあるのである。(少女の時は止まった 4)
真実と虚偽とのはざまにある「分水嶺」には、「時間の分水嶺」と「場所の分水嶺」がある。
その分水嶺から「真相へと転がりいく」方向と、「虚構へと転がりいく」ほうこうがある。
この事件では「分水嶺の」「時間」も「場所」も「表シャッター」にあった。時間は「6月29日22時30分頃」であり、「お父さんが (H Y)さんや( A M) さんとの寄り合いなどから帰ってきた時刻と場所である」。警察・検察が裁判所へ提出している「少女の供述調書」や「捜査報告」は、「表シャッターの内と外」が「逆転」しているのである。つまり、「少女が旅行から帰ってきて、表シャッターをたたいた」のではなく「お父さんが寄り合いなどから帰ってきて、表シャッターをたたいた」のである。そして、その時既に藤子は死んでいたのである。(この「逆転」のシナリオを書いた人は、虚構の大筋のシナリオを書ける人である。つまり、捜査当事者のしかも捜査方針を左右できる上級責任者である。)
 真実は、このようなものであるのに「裁判所が虚偽を事実と認定したもの」が一人歩きしているのである。ここにあなたの時間が止まった原因がある。そして、それに関わった人々の時間も止まってしまったのである。「止まった時」からの解放は、「あなたが真実を語る事」にかかっている。(少女の時は止まった 5)
by kanakin_kimi | 2012-05-05 09:53 | 袴田事件 | Comments(0)

少女の時がとまった (2)前回の1〜3を含む

(まづ、ネットで見た以下の記事を紹介しますー金澤忻二)

 ーーー 袴田事件 44年の歳月痛感 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 昨秋から「袴田事件」を担当している。1966年に清水市(現・静岡市清水区)で、みそ会社専務宅が放火され、焼け跡から専務夫婦ら一家4人の他殺遺体が見つかった凶悪事件だ。1980年、最高裁で袴田巌死刑囚(74)の死刑が確定した。

 焦点は、冤罪(えんざい)を訴える弁護団が静岡地裁に行った二度目の再審請求が認められるかどうかだ。再審につながる新たな動きがあれば、即、全国的なニュースとなる。「他社に遅れを取るわけにいかない」と意気込んだが、なにしろ事件は記者の生まれる20年前の出来事。まず、膨大な量の過去の記事や判決文などを読み込んで流れを頭にたたき込み、静岡地検や弁護団などの動きを追った。

 今年9月と12月、新たな動きがあった。同地検が弁護団に、袴田死刑囚が犯行時に着用していたとされる衣類写真などの新資料を相次いで開示したのだ。反応を探ろうと、当時の捜査関係者への取材を試みた。ところが、先方が鬼籍に入っていたり、「高齢なので、取材は控えて欲しい」と断られたり……。44年の歳月の流れを痛感した。

 1人だけ、「44年前のまま時計が止まっている」と感じた関係者がいた。事件の日、1人で別棟に寝ていて難を免れた当時19歳の長女だ。静岡市の自宅で63歳になった彼女は重い口を開いた。「私は今でも、袴田が有罪、死刑と思っている。死刑囚として刑務所に入っていてもらいたい――」。

 地検が口を閉ざす中、取材は勢い、冤罪を訴える弁護団が中心になる。長女のうつろな表情には、両親と弟妹を一度に失った計り知れない悲しみが漂っていた。彼女の心の痛みに、記者としてどう向き合うべきなのか――。思いを巡らせながら、長女宅を辞去した。
 ーーー(黒羽泰典)(2010年12月17日 読売新聞)ーーーーーーーーーーーーーーー

 ー 時計が止まった少女へ ー あなたの時を取り戻してください。(金澤忻二)ーー

 あなたは、あの日お友達と4泊5日の旅行を終えて、夜の9時頃まだお母さんが店を開けていたので、「只今かえりました」と言って九州旅行のお土産を両手に上げて店に入りましたね。お母さんは、「お帰り」と言って笑顔で迎えてくれましたね。お母さんは、普通ならまだ店を開けていたのだけれど、きょうは早じまいして、シャッターを閉めて片付けていました。応接間にみんなが集まってあなたの無事を喜び、旅行のお話をひとしきり聞いて、お土産に話が弾みましたね。でもそこにはお父さんはいませんでした。お父さんは、税務処理をお願いしているAさんと寄り合いで清水の料亭「大花」に自動車で行きました。Hさんはもう来ていましたが都合が悪くなったという事で、寄り合いは中止してHさんを車で送り、・・・・・お父さんがシャッターを「いまかえった」といいながらたたいていたのはもう10時半を過ぎた頃でした。あなたは、どうしていいかわからず嗚咽しながら、お父さんの声がするシャッターまで歩いていきました。シャッターの鍵がわからずしばらく探しているとお父さんが早くあけるように鍵の場所をいいました。「ガチャン」と音がするのを待ちかね、お父さんがシャッターを開けました。(少女の時が止まった 1)
お父さんが帰ってきた時、表寝室に二組の布団が敷いてあり、ピアノの間の藤子の部屋に一組の布団が敷いてある。藤子さんは、その布団の上にあごをあげてのけぞった形で仰向けになって寝ている。額から溢れた血が眼窩に溜まり、両眼窩から溢れた血が、両目尻の二条と血を噴き出した額の穴付近の一条がそれぞれ掛け布団にしたたり落ちている。事情を察したお父さんは、泣き崩れているあなたを離れに帰って、誰にも何も言わないように、後の事はお父さんがなんとかするから、帰って寝るようにといったのですね。でも、泣きじゃくり腰の抜けたようになって座り込んで動けないでいる。あなたを抱き起こし、やさしく離れの家につれていきましたね。(少女の時が止まった 2)
別棟の離れの家は、あなたの事を一番心配して引き受けてくれているおじいさんとおばあさんが住んでいる離れですね。当時は弟の部屋になっていた土蔵の二階で、おじいさんとおばあさんがながらく暮らしていた所為でしょうか、リュウマチになってしまったおじいさんは済生会病院に入院していましたね。だから、あなたが旅行に行っている間おばあさんが一人になるので用心のためにお母さんがお願いして、寮に住んでいた「S」さんが離れに寝起きしてくれていましたね。あなたがお父さんに支えられて離れに帰った時、「S」さんはどうしていたのかその後どうしたのでしょうね。あなたは、おばあさんに慰められながら、泣きじゃくり、まんじりとしない夜を布団のなかにいました。翌日午前1時50分頃になって、「火事だー」という声がし始めました。あなたは、何処が火事なのか心配になり外に出ましたね。すると「こがね味噌の母屋だ!」といっている。「お父さんはどうしたのだろう」あなたは我にかえって、「お父ちゃんが!、お父ちゃんが!」と叫びました。
おとうさんが、あなたの事を見守ってくれるようにお願いしてくれていた「I Rさん」があなたの事を落ち着かせるために、ここでちょっと待ってるように云って、表シャッターを上にあげ、中のガラス戸を半分程あけて、中に入っていった。通路の天井を伝ってきた真っ黒なけむりが半分あけられた上部からもくもくと外に吹き出した。「 I R」さんは、しばらく中でお父さんをさがしていたのでしょうか、多くなった煙といっしょに外へ出てきました。心配そうに待っていたあなたに「お父さんが何処にいるかわからなかったよ」といいながらあなたを離れの方へ連れて行きましたね。
あなたは、「お父ちゃんが!お父ちゃんが!」と叫んでいましたが、お母さんや弟の事は心配ではなかったのでしょうか。(少女の時は止まった 3)
by kanakin_kimi | 2012-05-04 16:29 | 袴田事件 | Comments(0)