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ときを うごかそう

ときはいま たみがしたしる ふづきかな 1

46年目の命日、昨日6月29日は扶示子さん・ちえ子さん・雅一郎さんの命日でした。今日6月30日は藤雄さんの命日です。
袴田巌さんは、警察が8月18日逮捕し、拘束し始めて、拘置所で死刑の恐怖に精神を破壊されるにいたった歳月も、やはり46年目になります。
「当時19歳だった少女」「ときのとまった」貴女も46年の歳月を経ています。
同じ46年の歳月を、「無実の罪で、無理矢理押込められた、理不尽の、檻の中で精神を破壊された ー袴田巌さん」と「新婚気分でした九州日南の旅行から久しぶりにうきうきした気持ちで帰ってきた貴女が、明日武道館のビートルズを見に行くという妹を死なせてしまった。事業も軌道に乗り、県内の同業者63事業所がある中で、3位にまで成長させた。応接間の新聞は長者番付の紙面が開かれていたままだ。その父に母と弟を死なせる行動をとらせるきっかけを作ってしまった。ほんの一瞬が、今までの家庭の歴史をあぶり出し、脳裏をよぎっただろう。藤雄ができる事は一人残した娘の罪も含めて自分があの世に持っていくしかないと思った。」
あとの事をよろしくと、藤雄から持ちかけられた人々も大変な事を背負い込んでしまった。その人たちの時も46年間止まってしまった事だろう。
その「ときをうごかす」責任が、貴女にあります。貴女にしかできません。「ときを動かしてください」


ときはいま たみがしたしる ふづきかな 2

真実は、桶狭間から本能寺を読み解かなければわからない。じつは、桶狭間には、のちの、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が勢揃いしていたのである。感覚が研ぎすまされ、それでいて時代から超然とした発想を自在に思いつくままやりとうした。沢彦はいたけれどほとんどを一元的に取り仕切った信長。親族の中での血で血を洗う抗争の中で孤立し、斎藤道三から血を超えたところからの献身力をしった。その事情が晩年に膨らんだ。親族に権力を継承させ、集中しようとした時崩壊した。いわゆる「たかころび」である。
そして、「知恵」を参謀から採用する事に巧みであった秀吉は、「わたり」忍者集団や穴太衆・木地師などにささえられて信長に貢献する仕事を積み上げていき、「陰から表」にそれらの人々を引き上げていった。戦闘集団や組織が信長を超えたとき「たかころび」をしたのである。
では何故、徳川家康のみが長期政権を培う事ができたのか。それは、駿府の「次郎」のときから学んだ「くすりうり・くすりづくり・接ぎ木・植木職人・情報伝達の仕組み・組織の仕組み」を自分の体で覚え、徹底的に学ぶ事・それを組織作りに応用してきた事からの「集団指導体制」をはじめから造り上げており、信長の治世・秀吉の治世から「組織的に」学んでいったからであった。
このような「徹底した学びの精神」は岡崎松平の若殿「松平元康」には、到底育まれようがない。
さて、本能寺近辺にも「秀吉の代理や家康」が勢揃いしていた。情報戦で最も抜きん出ていたのが秀吉である。しかし、明智光秀は、主体的に変を起こす意志を持っていなかった。持っていたらあんなへまをするわけがない、全てに後手ごての流れに身を任せている。そして、土岐一族の主従の事情が客体的に光秀を引きずっていった。斎藤利三の手のものが本能寺を襲撃した情報を聞いたとき、「是非もない」とつぶやき「敵は本能寺にあり」を宣言せざるを得なくなったのである。「信長公記」は、信長の台詞にしているが、あれは光秀のつぶやきである。そして、斎藤利三を駆り立てたのは、徳川家康である。したがって、徳川の伊賀衆も斎藤利三を支援していただろう。だから、光秀が本能寺へくる前に、伊賀衆が家康と連携して「伊賀越え」をしたのである。そのとき、武田の穴山梅雪は殺されざるを得ない行動をとったのだろう。罪を夜盗になすり付けて殺したのである。光秀の影武者を斎藤利三がやり、光秀を徳川に託したという線はいかがだろうか。それらしき事実がある。何故、春日局が斎藤利三(さいとうとしみつ)の娘であり、信長の妹の娘の血を拒否して、としみつの娘の血を受け入れた。「本能寺の変」は続いていた。二代将軍徳川秀忠の名「秀忠」は、秀吉への人質として秀吉からつけられた名前だろう。三代将軍徳川家光の「家」は当然「家康」。では、「光」はどこからきたのだろう。「としみつ」と「光秀」にその出典をみるのは、合点の行く事である。
いづれにしろ「明智光秀」はもういない。徳川を読み解くには「集団指導体制」を読み解かないとわからない。長期政権を培う力も、ねつ造する力も、隠蔽する力も・知恵も「集団指導体制」によるからである。


ときはいま たみがしたしる ふづきかな 3

さて、現在の状況は「間接民主主義の時代から、直接民主主義の時代へ移行しているとき」である。それも、世界的に同時進行している。しかも、直接民主主義の国家運営の完全モデルはない。それぞれが部分モデルを持っている。何事も一挙に完成する事はできないのだから、それぞれの部分モデルをよりよいものにしていくときなのである。国家という従来の発想は破綻し、「ボーダー・レス」している時代なのだ。「 E U 」の経験を謙虚に学ぶ時である。しかも、地方が独立して、ボーダー・レスするじだいなのである。それをなし得るのは、一人ひとりを大切に、賢くするという事をしないと、人の自立ができず、地方の自立ができず、国の自立ができず、ボーダー・レスはできないのだ。
日本には、先人の知恵と努力の賜物があり、今もそれを継承して蓄積している。無意味な対立を生み出す「絶対神」を受け入れない。全てのものから徹底的に学ぶ。これらの「いいとこ取り」こそ、八百万の神々を尊崇するスタンスであり、「平和主義」のそれを自然に身につけてきているからなのです。ですから、曖昧な態度のように見えたり、どっち付かずのようになったり、融通不断のように見えたりするのですが、これらはみんなを大切に考えているからなのです。これが日本の大切なところなのですから自信を持ってそのことを言っていきましょう。「ボーダー・レス」にしないと「 I T 」をみんなのものにできません。「 I T 」をみんなのものにすると、いろんなものが安くなり、みんなが賢くなる基本的なシステムがもっと広がるのです。いま みんなが かしこくなる とき デス。

by kanakin_kimi | 2012-06-30 12:02 | 袴田事件 | Comments(0)

46年目の「とき」を動かそう ! !

1966年6月29日から、今日2012年6月29日で、46年目の「とき」がきた。
今日明日にわたる、ちえ子さん・扶示子さん・雅一郎さん・藤雄さんの命日です。
「少女」のときを動かしてください。あなたに関わる人々のなかに、悪意を持っている人々もいれば、善意であなたを支えている人々もいます。全てではないにしても、「ときのとまり」を共有せざるを得なくなってしまったのでしょう。あなたの決断で「解放して」ください。
by kanakin_kimi | 2012-06-29 21:28 | 袴田事件 | Comments(0)

鍬形恵斎鎮魂 4

真をつぐものー「紹真」

ノートルダム寺院を中之島にしている川の名前をまだ思い出さない。(思い出した、セーヌ川だ)橋を渡って、ルーブル美術館を右に見ながらその道をまっすぐに行くとオペラ座の方に行ける。大関さんから教えられたバスに乗るためには、オペラ座の横に来るバスのターミナルに行かなければならない。一人でいった予行演習で覚えていてよかった。そのバスは、ノボテルホテルのあるパリ(シャルル・ドゴール)空港に一直線だ。
それをグーグルアースで見るとさらにおさらいができた。便利になったもんだ。地球規模で鳥瞰できる今日この頃である。
そういえば、「江戸一目図」というのを鍬形恵斎が描いている。「鳥瞰図」にあたるものは昔から描かれている。中国の山水画・水墨画というのは全てそういう手法をとっているから「鳥瞰」した図は古くから描かれていた。しかし、それらは、山水画といわれるところに明確に示されているように「風景画」であり、主人公としての対象が山であり、川・河であり、湖・海・樹木・滝であった。
それは、風景の「切り取り図」「切り絵」であった。
それは必要によっては、「見取り図」でもあった。遠近や大小にはあまりこだわらなかった。
そこに、遠近法を取り入れた「江戸一目図」が表れた。「清明上河図」が先に描かれていたのかもしれないが、日本では「江戸一目図」が初めてではないかと思われる。遠近法を取り入れた事の意味は何だったのか。「人の目線」に忠実にかかれているという事ではないかと思われる。遠くにあるものは小さく見え、近くにあるものは大きく見える。高いものはより上の方に描かれ、低いものはより下に描かれる。そして何よりも、平面的でなく立体的になっている。二次元の平面である「紙」に。三次元の立体である眼前の実態風景を閉じ込めるために「遠近法と立体描法」が工夫され、「紙」の限られた大きさの中に収まるように描いたのである。カメラが風景を広角レンズで写し込んだように。
北斎は、つねに恵斎を追っていた。たどりついたら、その先にいる恵斎を悔しく見つめ、恵斎を追い越したくて仕方がない。どこまでも、努力精進・孤軍奮闘・固守空拳の人である。恵斎は、スポンサーを使い情報を使い・組織を使い・育てる事のできる人である。しかも名誉欲・金欲はない、少なくとも拘った形跡はない。津山に鍬形赤子紹意(つぐおき)をおき、師匠の北尾重政の名跡に門人の美丸を継がせた、と渥美國泰氏の本にはかかれている。文政7年(1824)61歳で亡くなっている。
鎮魂の最後に、赤羽三二郎の思いをどの絵に「描込めた」のか、それは何かを今後の課題とさせていただく事にする。上・中・下巻の絵を描くのにそれぞれに一年ほどかけているようで、詞もまた絵を受けてから書いており、全体で3年余をかけているそうだ。ダ・ビンチの鏡文字や隠し絵があるように、これにも一目ではわからないように「かくしえ・かくし詞」があるかもしれないとの感じがある。実子という「鍬形赤子紹意」の名にも「赤羽の人」という意味と「山部赤人」が掛けられ、「紹意」にも「意次」を反転した思いを私は読み取るのである。「あまりに真を描かんとして・・・」を地でいきてきた「真をつぐもの」の思いに乾杯する。

by kanakin_kimi | 2012-06-29 12:04 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(3)

鍬形恵斎鎮魂 3

孫の由稀が行く塾の海外研修旅行への由稀のコンセプトはスイーツだった。彼方此方(あっちこっち)のお菓子屋さんに引きずり回された。足りなくなると、私からコインをもぎ取っていった。ルーブルを後ろに橋を渡り、左に折れて川沿いに歩いていく。私にはどこへ行くのかわからない。川向こうの左に高い建物が見える。あれはたぶんノートルダム寺院だ。迷わないように、目印にメモしておこう。この川は、名前を今思い出せない。この川の中之島にノートルダム寺院はある。ルーブル美術館の川向こうにオルセー美術館がある。歩いている時には気づかなかったが、それを後ろにして歩いていた。川沿いに露天商が店を開いていた。本屋さんもある。しばらく歩いて、右に折れた。由稀が行くところへ私はついていくだけだ。迷った時だけ私の出番だ。どういう判断をしたのかわからないが、小さなスーパーに入った。そこでお菓子と、チーズを買った。質素倹約の君さんの教えが浸透している。もうおしまいという事で帰り道を考える。目印のノートルダム寺院の見えるところに出て、ルーブル美術館を目指す。ルーブル美術館とピラミッドが私のコンセプトである。何故ルーブルを拡張した時にピラミッドを造ったのか、という問題はこの次に書く。ルーブル美術館といえば「モナリザ」である。レオナルド・ダ・ビンチの絵画技術と「江戸職人尽絵詞」の鍬形恵斎の絵画技術を対比して見るのが「私のコンセプト」なのだ。できるだけ観覧者の少ない時間帯を選ばなければ、「モナリザ」には近づけない。対比するといっても、目の前に二つを並べてみる事もできない。そうすると、私の能力でできるかどうかわからないが、「モナリザ」が発するオーラとコピーだけれど「江戸職人尽絵詞」を持っていき、その絵のオーラに期待してそれをシンクロさせて対比するしかないと考えたのだ。それは、もっぱら私のオーラによって引き出しシンクロさせる事になるのだ。だから、できるだけ静かな時が必要なのだ。ひとにはあまりいえない。信じてもらえない事ははっきりしているからだ。説明するのも厄介だし、じゃま臭い。だからいわないでいる。今回の事情では、さらに時間がなかったからその瞬間のシンクロにかけた。簡単にいえば、私の頭の中に切り取った瞬間のオーラの記憶を比較するという事になったのである。小さな手応えはあった。「負けていない」。それで十分だ。
もうひとつ、帰ってきてから比較している対象がある。これは、コピーの間に挟んでいるコピーの一枚だ。「清明上河図」である。あれ程の大作・緻密さ・うまさと比較できるのかと思っていた。私のオーラでシンクロさせ比較した。「負けていない」。恵斎の絵の方が動いている。近くまで行けるのだ。「清明上河図」の方はずいぶん上の方からしか見る事ができず、近づけない。これは何だろうか、この作者が近づけようとしないのだ。「負けていない」それで十分だ。
by kanakin_kimi | 2012-06-28 11:49 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

鍬形恵斎鎮魂 2

恵斎に対する評価は、まだ十分になされていない。というよりも、何かネックとなるようなものがあり、それが多方面に影響をもたらすという問題が内包されているように感じられる。そこで、タブーが生まれているのではないだろうか。しかも、それがどんどん積み重ねられているように思われるのである。おそらく、このタブーを乗り越えるための真相解明は美術界に籍を置くものからは行い得ない代物のようである。益田孝が自分の見識にこだわっていたらあんな「佐竹本三十六歌仙絵巻の切断によって流転させる」事はなかったはずだ。もしあれにも裏話があるとすれば、「本物は田中親美に写しを創らせながら修復もさせていて、切断したのは田中親美の写し本であったのか。そういえば、誤字・脱字をわざと容れたのは、ひょっとして長明効果か。」なるほど、そういう事だ。
そうだとすれば、私が真相を解明するのはちょうどいいところなのだろう。
たとえば、こういう事もある。恵斎は「多作」である。ちょうど、東洲斎写楽が10ヶ月の間に150枚に及ぶ絵を描いているのと似ている。そして、写楽絵は4期のうちせいぜい2期の一定の部分までが写楽本人の書いたもので2期以降4期までは工房の弟子たちに描かせているものだと考えている。
それとおなじで、恵斎の多作は同じ工房で創られているのだと考えている。北尾重政の工房でも「挿絵」の多作は凄まじいものであるから、それを考えれば「そうだったんだ」と氷解するはずである。
恵斎の父の姓が「田中」で、母の姓が「赤羽」で、祖母の姓が「鍬形」とくればもう「忍び」「お庭番」というルーツを感じさせる。十返捨一九(駿府)・恋川春町(小島藩)など駿河の国出身の人は意外と多い。恵斎をお抱えにした津山松平も白河松平の次男のつながりだそうだ。徳川吉宗の孫だった松平定信が白河へ入り「白河候」といわれていた。その松平定信は、田沼意次ほどのスケールはないけれど、ひとかどの文化人であったようだ。右手で弾圧しては、左手で文化事業に活用していたのだ。「集古十種」と「全国的な地誌の作成」を手がけたのだろう。谷文晁を中心にした狩野派の絵師たちを動員した事があげられるが、その文化事業について書かれたものがあるのかどうか知らない。そういう意味では、書かれた作品からの「逆行的構成」の作業を試みているのだ。そして、「近世(江戸)職人尽絵詞」の絵を鍬形恵斎に描かせたのが松平定信である。しかも、そこに書かれている詞は、上巻 四方赤良(大田南畝・蜀山人・太田七左衛門)、中巻 手柄岡持(朋誠堂喜三二・平沢平角)、下巻 山東京伝(北尾政演・京屋伝蔵)でいづれも寛政の改革でお咎めを受けている(とされている)。朝倉治彦氏は、「定信は何故この三人を使ったのであろうか」とのべている。右手で弾圧しては、左手で文化事業に活用していたのだ。それにしても、恋川春町の自殺説につながる「鸚鵡返文武二道」の挿絵を描いた北尾政美には何故おとがめはなかったのか。何故寛政6年に津山松平にお抱え絵師となったのか。その年に東洲斎写楽が突然現れそして、10ヶ月で姿を消すのである。
集古十種(しゅうこじゅっしゅ)は、ウィキペディアによると、次のように記載されている。
江戸時代に刊行された古美術の木版図録集。その編纂は松平定信を中心に柴野栗山・広瀬蒙斎・屋代弘賢・鵜飼貴重らの学者や家臣・谷文晁をはじめとする絵師によって4年の歳月を掛けて行われた。広瀬蒙斎の序に1800年(寛政12年)とありこの年第一次の刊行がなされたと考えられる。その後も増補されて最終的に全85冊となった。1859点の文物を碑銘、鐘銘、兵器、銅器、楽器、文房、印璽、扁額、肖像、書画の10種類に分類され、その寸法、所在地、特徴などを記し、文晁等の模写図を添えたもの。
編纂に加わった画人は文晁の他、喜多武清・大野文泉(巨野泉祐)・僧白雲・住吉広行などがいる。彼らは奥州から九州まで全国各地の寺社に赴き、現地で書画や古器物を写しとった。現地調査以外に直接取り寄せることや模本や写本を利用することもしている。(以上)
ここでは鍬形恵斎の名前は出てこない。しかし、さまざまな「略画式」を書かせたのも、定信であろう。何のために略画式を描く事になったのかという事について書かれたものを見ない。「略画式」が必要な事情とは何だろうか。
わたしは、静岡県藤枝古文書会に入会させていただいて間もなくのことだが、「駿国雑誌」「駿河志料」「駿河国新風土記」「駿河記」などの多くの「地誌」が江戸末期に集中して版行されている事を知った。とりわけて、「駿河記」は島田宿の人で、駿河十三宿の元締といわれていた「桑原藤泰(黙斎)」が多難な事情を乗り越えて単独で踏破して取りまとめたものである。しかも「真景図」を書き加えているのである。このように、駿河の国だけでもこれほどの量の地誌が版行されたのであるから三百藩に及ぶそれぞれの地域で「地誌」の版行活動が行われていたであろう事は容易に判断できる。地誌の版行には真景図は欠かせなかったはずである。各地では、一般の村政をとるもの経済的に豊かな商家などでも水墨画や書・画に教養手習いのひとつとして手がけられていた。だから、絵を描く手本となるものの需要は多くあったものと思われる。その需要に応えて、「絵手本」が求められる環境があったという事だろう。そこで、「人物略画式」「鳥獣略画式」「山水略画式」「魚介(譜)略画式」「草花略画式」などが版行された。それがことのほか人気をはくしたので、それを多くの版元で版行させ、各地では地誌作りを進めてその中の真景図や金石文模写の作成テキストとして奨励したのだろう。藤枝宿の奥州屋大塚荷渓の絵を見るとそのテキストが使われたのではと思われる節を感じる。そのように考えると、「北斎嫌いの、恵斎好き」はともかくとして、「北斎に消された男」というのはいかがなものかと思ってしまう。北斎の民間人としての孤軍奮闘の成果という評価と、お抱え絵師としての庇護された中で大きな仕事の一部だけれどその中心的役割を果たし、当時の文化人との交流をしているサロンからは生活臭を感じる事はできない。これは、件のタブーが狭隘なものに貶めているからだと思う。たとえば、恵斎が美人画を鳥文斉栄之に師事していること、花鳥画・山水画を狩野惟信に師事していること、狩野派の絵師もアルバイトをしているだろうし、美人画や春画も求められる事もあろうし、絵師自身も描きたいだろう。それに、格式の高いところからは北斎や歌麿よりも品のいい春画が求められて「鳥橋斎栄里の美人画や春画」が生まれたようにも思う。狩野では描けなくとも別の名では描いていたひともいるのではないだろうかと思うのである。多彩で、多才な恵斎に「タブー」はもう解消してやるべきだ。それでなければ「鎮魂」にならないだろう。
ついでにいえば、民間人で孤軍奮闘している「北斎」の「名前の変遷」とか「癖」とかは簡単に「模倣癖とか偉そうに上からの目線で狭隘化して貶めるのでなく」、常に新しい画風を求め追求している表れの側面なのだと考えるべきだと思う。だから、それに反発して「北斎」に判官贔屓があつまり、結果的に「恵斎」が敬遠されるはめに陥るのだ。それは、また「お抱え絵師」にもいえる事であり「名前の変遷」は、「狩野派の名前を使えない時には鳥文斉や鳥橋斎・北尾姓や鍬形姓・果ては赤羽姓まで繰り出すのだ」という事態で、今でも姑息に「鳥橋斎栄里」の由来がわからなかったものを、「作るひとが出てくる」有様なのだ。こんなことしていると、本物がどんどん失われていくのではないのか。と心配する。
by kanakin_kimi | 2012-06-25 11:11 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

北斎鎮魂・歌麿鎮魂

編集再録します。
「二人の剽窃」と「栄之と歌麿・北斎の鎮魂」

「葛飾北斎」と云ってもこの時は「勝川春朗」であるが、その春朗が「勝川派」を破門されるという事件がある。

 その原因についていろいろ云われているが、最大の問題は「勝川派」の画風に見切りを付けたのか、他流派の画風を学んでいる事をとがめられていた事が云われている。
寛政五年末に勝川派を破門され、俵屋宗里の名で出すのが寛政七年と云われている。
 ちょうどこの間に「東州斎写楽」が出現しているのである。この事が、北斎と写楽が同一人物ではないかとの混乱を与えている。
 しかし、わたしの中では北斎が写楽ではない事がはっきりとしている。
春朗が勝川派をやめることになる原因は別にある。

それは、「東洲斎写楽の絵の出現」と関係している。

 勝川派の画風を踏襲している春朗もまた役者絵を描いていた。
寛政五年の中頃以降寛政六年の四月末までの間に北尾政美の描いた役者絵を見たのであろう。
春朗はその出来映えに驚愕して、ショックを受け、以来役者絵から撤退することになった
のではないか。
そして、それ以来結果的に、北斎の作品のオリジナリティの前に常に政美がおり慧斎がいたことになったのであろう。北斎は徒手空拳、絵の道を追求していく。
また、もう一人の剽窃の人は喜多川歌麿である。
それは、蔦屋重三郎に見出され、重三郎とともに蔦屋を発展させてきたという自負をもっている歌麿が蔦屋をやめることになった事件である。
「松葉楼装ひ 実を通す風情」の大判錦絵黒雲母刷りの豪華版がこの事件の発生を証明していると思うのである。
この作品についての謎を追求していく事でそれが明らかになるのではないかと考えている。
 今の段階で云える事は、これほどすばらしい作品であるのに、歌麿の代表的作品の中に何故これが含まれていないのかという事である。わたしが見る限り、歌麿の作品の中でも群を抜く程の出来映えだと思うのである。
これはどういう事か、歌麿筆 となっている作品「松葉楼装ひ 実を通す風情」はわたしの見立てでは、これが「歌麿」の作品であれば、間違いなく『歌麿』の最高傑作と言っても過言ではない。
ところが専門家の評価は必ずしも同じではない。
もしも「最高傑作」との評価がされているならば、
「浮世絵大系 6 歌麿/栄之」(監修菊地貞夫、昭和50年11月30日集英社刊)「名宝日本の美術22  歌麿」(執筆狩野博幸、監修太田博太郎・山根有三・米沢嘉圃、昭和56年3月20日小学館第一刷)には掲載されていないはずがない。
また、「太陽浮世絵シリーズ 歌麿」(監修渋井清一九七五年一月二十五日初版第一刷平凡社発行)にも掲載されていない。
そしてまた、「浮世絵名品撰 歌麿」(福田和彦編著 KK ベストセラーズ発行)にも掲載されていなかった。
さらに、「原色日本の美術17 浮世絵」(菊地貞夫 編著小学館発行)にも、歌麿の作品が掲載されているのにこの作品は取り上げられていない。
 結局「写楽・歌麿・北斎・広重 四大浮世絵師展 中右コレクション」(監修中右瑛 神戸新聞社発行)に始めてみることができた。
 実際のところは、この本からの逆行的構成を試みたのである。
「歌麿の代表作」なのであれば、これが採用されない筈がない。ところが、これを「歌麿の代表作」として採用されないばかりか、この作品そのものをも採用されていない。
 これは一体どういう事なのであろうか。どうやら、「作品そのものの評価以外の問題が内在している」と言う事を示しているようである。
 それは何かというと、「歌麿の作品ではないのではないか」と言う疑いをもっていたからではないだろうか。たしかに、「歌麿筆」のサインは書かれている。そうであるからが故に発生した問題が由来しているように思えてならない。わたしの推理では次のように考えている。
その問題と言うのは、浮世絵の美人画の大家であると評されていた「鳥文斎栄之」と「喜多川歌麿」の間に生じた問題で、一説では「歌麿が栄之の作品を揶揄し中傷した」という事を発端にして、栄之の弟子である『鳥橋斎栄里』が自分の作品を歌麿の作品の中に紛れ込ませていた。
歌麿がそれと知らずに「歌麿筆」のサインをしてしまって、後になってそれと気づいた時のショックが『蔦屋』にいられなくなってしまった原因になったのではないだろうか。
その『因縁』の絵が、「松葉楼装ひ 実を通す風情」だったのではないかと思うのである。
そして、それを描いた「鳥橋斎栄里」は鍬形慧斎であり北尾政美である、とわたしは考えている。
 後年の鍬形慧斎紹真を思うに、養子の名を「鍬形赤子継意」としたところなどは、過去のいたずらを恥じているようにも思えるし、自分の名に「紹真」を入れた事にも、田沼意次を心底尊敬していたのにも関わらず、松平定信の云うがまま協力してきた事への忸怩たる思いを感じるとともに、「真実を注入する覚悟」を観るのである。
 したがって、彼の作品の中にちりばめられた真実の注入を掘り出すのが彼の作品を所蔵している人々の責任であると断言しておこう。
 何せ現物でなければそれを見いだす事が出来ない隠し絵で、定信に突きつけた覚悟の作品である。
同時に、わたしはこれをダヴィンチの「モナリザ」と、自分のオーラの上で比較したし、上海万博で出ていた「清明上河図」とも比較したが勝るとも劣らないものであった。
「職人尽絵詞」の「詞」を書いた人は、上巻−大田南畝(四方赤良・蜀山人)・中巻−朋誠堂喜三二(手柄岡持・平沢平格)・下巻−山東京伝、の三人である。それぞれ当時の大家が、老境の遺言を一年がかりでしたためた覚悟の文章である。徒や疎かには出来ない「詞書」だろう。
 一方では、それを承知で、反田沼派の定信は寛政改革と云う時代の陥穽に身を置きつつ、なにがしかやろうとした時に外された。その身を白河夜船で松浦静山に「甲子夜話」を通じて、また谷文晁等のプロジェクトを通じて、そしてなにより鍬形慧斎の画業に「江戸文化の華」を形成する仕事をしたのである。さまざまの仕掛けに、耐えられる大局観が鍬形慧斎にはあったのである。この総合力はどこからくるのであろうか、一介の畳屋の息子三二郎を起点とすると見えてこない。同じ畳屋でも公儀・大名屋敷に出入りする畳屋となれば情報収集の忍びを連想させる。赤羽という名字持ちである。父の田中義珍もまた東海道耀海寺の大檀家に並ぶ田中家の出である。田沼意次を陥れる一団がこの近辺に常宿していたと考えられる。
by kanakin_kimi | 2012-06-24 14:44 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

鍬形恵斎の鎮魂 1

以前、北斎や歌麿の気持ちを慮(おもんばか)り「恵斎・政美・栄里」の技量にあおられての顛末(てんまつ)が良きにつけ悪しきにつけ影響を被ってしまったお二人の鎮魂をと、書いた事がある。
そろそろ津山美術館に行かなければとの思いもあり、駿河の国興津宿から出た、田中義珍の消息を追ってきた今までの整理をしながら、少し書いておこう。江戸の工夫者鍬形恵斎ー北斎に消された男ー渥美國泰著をみると、177ページに、鍬形恵斎は「前後まことに別人の如し」と−はじまっている。6行目からー赤羽三二郎(三次郎)明和元年(1764)畳屋の倅として江戸竈川岸に生まれた。父は駿州興津の人で田中義珍と言い、のちに下野国那須野猿子村の農業赤羽源左衛門の養子となって赤羽姓となり、やがて江戸へ出て畳職を生業とした人である。ー だから、そこでうまれた「赤羽三二郎」が、15歳頃北尾重政に入門し、17歳で黄表紙の挿絵書きでデビュウして北尾政美となり、その才能を発揮した。寛政6年に津山松平のお抱え絵師になって、「鍬形恵斎紹真」と改めたというのだが、その「鍬形姓」は母方だという記載があったという記憶がある。お父さんが赤羽家に養子縁組しているのだから、母方の姓は「赤羽」ではないのかと不審に思ったものである。それはまた別の伏線に入りそうだからこれで終わる。思い出した、「鍬形」姓は祖母方だった、訂正する。ただ、父方の祖母なのか、母方の祖母なのかはわからない。
興津宿で「田中義珍」の消息を調べてもなかなか要領を得ない。聞き込みでは、「田中町」という一角が清見寺の東北方面「JRの興津駅近辺」にあったという事を聞き、調べにいったがわからない。戦前戦後の一時期には興津町の町役をしている人の中に田中姓の人が何人かいる。また、国道一号線の北側にその田中町というか田中家の一群があったので、そこから別家の田中家が国道の南にできた事から本家の田中家と別家の田中家という分け方が自然と行われて本家の田中家を「本田中」というようになったという事を聞き及んだ。しかし、それ以上は進展していない。この界隈は奥の深い事情をかいま見せてくれる地域であるように思っている。
by kanakin_kimi | 2012-06-23 15:53 | 鍬形恵斎鎮魂 | Comments(0)

責任が取れるのか 2

国会は、もはや国民が選んだ人々の「議員」で構成されているという姿ですらない。あれ程の惨事を呈した東日本大震災と福島原発の現状に対する責任ある対応を示すことすらできない政府。
その政府が、大飯原発の再起動を認めるのか。今ですら責任を取れない、とることすら既に認識の外にある。そういうものたちの認める権利がどこから生まれているのか。彼らは、日本の誰から選ばれているのか。
いよいよその「震源地」に踏み込んできた。
これが「無政府状態」というのだ。
責任の取れないことを、誰のために認可するのだ。
by kanakin_kimi | 2012-06-21 22:48 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

責任がとれるのか 1

大飯原発の再起動を国・県・町などが決めたことを発表している。
福島原発での責任の取れない不安全の事態が明確にありながら、あからさまな国民の意思を無視した「強硬措置」であることの「正常な認識が示されていない」。
「裏に何か事情がある」ことが「見え隠れしている」。
「再起動に賛成した人たちは、反対している人たちの命の保証ができるのか」「責任が取れるのか」。
「責任が取れないことが明らかな事態だと思うのです」。
そして、もはや「多数決原理で決められる事態ではない」と思うのです。
「だれがやっても、責任が取れないことが明確なのだから原発稼働そのものをやめることしかないのだ」。
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by kanakin_kimi | 2012-06-18 19:12 | 政党政治の終焉 | Comments(0)

少女のときは止まった 資料集について

事件現場の様子などを、デジタルカメラで撮ってこのブログで発信していこうとしたのですが、うまくいかず、gooブログの「ほんとうのことを本事に」というブログでやったところわたしの腕でも出来たので発信しています。みてください。
 「ほんとうのことを本事に」 お://blog.goo.ne.jp/goo19430424/お
by kanakin_kimi | 2012-06-17 17:52 | 告発・袴田事件 | Comments(0)