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ウィキリークス 1

天安門事件の裏事情




1950年代の大躍進時代へ














by kanakin_kimi | 2012-10-31 11:50 | ウィキリークスのつぶやき | Comments(0)

世界の大量虐殺 1











by kanakin_kimi | 2012-10-31 10:20 | 世界の大量殺戮をするもの | Comments(0)

UFO































by kanakin_kimi | 2012-10-30 23:03 | UFO | Comments(0)

告発  2

袴田巌さんは無実です

46年前の8月18日に袴田巌さんが逮捕された。連日の長時間にわたる自白強要で、強引な指印を取られたのが20日目の9月6日である。そして、この9月6日に何があるかというと、6月30日に解剖した鈴木俊次氏は、藤雄と扶示子について執刀し、書かれた鑑定書の作成日が9月6日である、ちえ子と雅一郎を執刀した山下英秋氏が書かれた鑑定書の作成日は7月25日なのである。そして、藤雄の父橋本藤作が死亡したのが、奇しくもこの9月6日なのである。不思議ですね。

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冤罪発覚の端緒


1966年6月29日に旅行から帰ってきた昌子の供述調書は、「夜10時過ぎに表シャッター前に着いて、ただいまーといって、シャッターをたたいた・・・・」という事になっている。この場面が妙に「違和感」を感じさせた。
というのは、19歳の娘が4泊5日の旅行から帰ってきたのに、シャッターの内側で、「わかった」という父・藤雄の声が聞こえ、ひたひたとツッカケの音がシャッターのそばまできて止まり、そのまま何も言わず、シャッターも開けずに、奥へ歩いていった。というのである。
昌子は、怪訝に思いながら離れの家の方に帰った、という趣旨の事が書かれている。

この違和感は何だろう、と誰しもが思っていたようだ。
この事件の真相を解明しようとしたものの切り口がここにある。
「真実と虚偽の<場所の分水嶺>がこの表シャッターにあり、<時間の分水嶺>が夜10時半頃」という冤罪事件発覚の端緒になった。

そして、それは内側と外側の人物が反転し、内側には昌子が、外側には藤雄がいた事を示した。
それがわかると、そこから、芋づる式に「証拠の隠滅とねつ造の跡」が浮かび上がってきたのである。
もう一つの端緒がある。死体鑑定書に添付されている写真と顔写真が添付されていない事実である。
それには、「鑑定書に書かれていない致命傷」と見られる創があるという事実である。

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この二つの端緒が意図的に隠そうとしている事実が「証拠の隠滅」であり、それの代わりに作られ、置き換えられた「調書」「創傷など」が「証拠のねつ造」である。
そして、これらの行為は「超法規的な行為」である。
ところが、再審請求における「冤罪の証明」という作業は、これらの「超法規的行為」に対して「より限定した法規的対応」が求められている。

これは、「地震・台風・津波・ハリケーン・竜巻などの自然災害」が「超法規的災害発生」であるのに対して、これに「法律で定めた災害対策」を実施するというのと同じである。その証拠に、最初から何人の死亡者があるとの被害想定をする始末で、確実に多くの人々が死んでいるのである。この矛盾を克服されなければ「冤罪事件は無くならない」だろう。

死体は動かされた

火災現場から4人の遺体が発見されている。その場所へ、死体は動かされた。では、どこから移動され、どこで死んでいたのか。

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1、扶示子の場合

扶示子は、うつぶせの姿で、ピアノの間(扶示子の部屋)のピアノの脚に左腕を絡めた格好である。

刑事第一審(住居侵入・強盗殺人・放火)事件記録、第11分冊(505~781丁)、昭和41年7月20日付、黒柳三郎・検証調書のうち(734~752丁)昭和41年7月6日付、春田龍夫・実況見分調書(739~742丁)に次のように記されている。

【ピアノの西側の死体】 ー 家屋西側の北から三番目の部屋には、北側に南からひけるように焼けたピアノがある。このピアノの西側に死体が一個ある。

死体はうつ伏せになって、丸く焼けた頭部を南にし、北の仏だんの間との境にある。体の上部には焼落ちた瓦、土砂、炭化物、蛍光灯の焼けたケース、焼けた丸い棒などがのっており、これらを取り除くと、左手をピアノの足の間へ入れ、右手を曲げて上へあげ、両足を開いている。死体は両部屋の境の敷居へ両膝をのせる格好で、顔は下をむいており、全身表面が炭化し、特に左前頭部には頭骨が炭化し小さな陥没を生じている。

首の上部には女学生の制服の袖カバーと認められる白い木綿の布片がかかり、これは焼けていない。
体の表面には泥が付着し、肩首の付近には着衣のブラジャー・シミーズの一部と思われるものが黒くこげている。両股の間には木綿のパンティーと思われるものがついており体の下側へ及んでいるが、上端は焼失している。ー 体長は、測定すると1メートル57センチであった。死体をあげると、焼け残った着衣のシミーズ・ブラジャーが死体についている。

死体の下には、ピアノの両端と平行して、南北に長く、73センチ×35センチ の板が一枚あった。表面は黒く炭化しており、その西側には着衣の一部が焼け残り、これに薄い血痕が認められる。板の上部西南隅の部分にも汚れた血痕付着が認められる。
板をあげると下には畳に血がしみ込んでおり、経血ようの血痕付着のパンテー2枚・焼けた衣紋掛け1個・マッチ5本、が下敷きになっている。

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この板付近の状況については、さらに後の検証において明らかにすることとし、板は現状に復し保存した。

(この続きを探したところ、次の資料に引き継がれていることがわかった。何故、資料が前の第10分冊に飛んでいくのか、という点も留意しなければならない事で、「(11)7・6 ~(10) 8・8」の日付の意味は長明効果ではないのかと考えている。鴨長明が書いた「方丈記」は絢爛とした王朝絵巻のごとく思わせるものがある中に人々の地獄絵巻を描き、その風景描写の中に真実を写し込む手法である。万葉集における柿本人麻呂の存在を通じて和歌の風景描写が真実を写し込むという意味から人麻呂効果ともいっている。金澤記)

刑事第一審(住居侵入・強盗殺人・放火)事件記録、第10分冊(190~504丁)、昭和41年8月8日付、春田龍夫・検証調書の(292~296丁)に次のように記されている。

【ピアノの部屋の状態 】ー 7月2日、午前8時55分、前日に引き続きピアノの部屋より検証を再開した。このピアノの西側の部位が、先に本職が本年6月30日実況見分したとおり、被害者橋本扶示子17才の焼死体が発見された位置である。部屋の北東部に南からひけるようにピアノ一台がおかれ、表面はことごとく炭化している。その南側中央辺りに回転椅子が足および本体の円い木質部が焼落ち、足とともに炭化している。西の床の間は、南側半分が高さ50センチの棚が東へ41センチ出ている。この上に鏡台の台の部分と大鏡の枠(縦100センチ横65センチ)だけがあり、黒く炭化している。棚には二本の戸があり、向かって左側は、枠と格子部、右側は外枠だけが残っている。

【死体の下敷きとなった板額の状況】 ー ピアノの西側、焼死体のあった位置には、死体の下敷きとなっていた板が上に黒い泥と炭化物が薄く密着して、ピアノの側面に平行している。立会人、橋本昌子は、この板について、それは板の額でここにかかっていたものです。と、ピアノの上部の鴨居を指示した。ピアノの上部を検すると、鴨居は全面的に焼燬して表面が炭化している中に、東端から95センチの鴨居の上端に真鍮製の額の支え金が一本打たれている。

さらにこれより東60センチの部位には、物を吊り下げるための真鍮製輪形の釘が打たれている。よって、額は前記支え金より東へは、釘が邪魔になり掛けられないので、立会人の指示どおり支え金より西へ飾られていたと認められる。額の長さは73センチあるので、前記支え金より西へ一杯にかけたとすると額の西端は下のピアノの西端とほぼ一致する線となる。この支え金は畳から2メートルの高さであった。額の上面は汚れ、黒く泥、炭化物などが付着しているが、死体の下敷きとなっていたため、他のように土砂などが積もっていない。板の南西隅上面には汚れた血痕ようのものが付着していると認められる。

本職は、ここにおいて本検証と併行して執行実施中の、清水簡易裁判所・裁判官、深瀬義雄の発した捜索差押許可状によりこれを差押えた。

この板を詳細検すると、上になっている部分には明瞭ではないが、字が刻んであり、これが表面、しかも字の方向から東側が上縁と認められる。板は裏側がへこむように、そりが生じている。(極端に表現すると、南北に長くかまぼこをおいた形)
そして、死体の頭に近い部位、即ち額の向かって右上縁が約20センチにわたって炭化しており、他は上面が黒く焦げている。

額を取り去ると、裏面は泥水で汚れているだけで焼燬していなく、下には額の部位だけ畳が出る。畳は泥水で汚れているが焼けていない。その畳の部分は30センチ×70センチでほぼ中央東寄りに焼けくずれた緑色のビニール衣紋掛が1個あり、[焼けくずれた部分は額から東へ露出していた部分]で全体の約三分の一である。


( [ ]の中の部分は、長明効果の一つである。この文章では衣紋掛の焼けくずれた部分が額板の東へ出ていたとし、そのせいでやけ崩れたとしているのであるが、この第10分冊末尾に添付されている現場見取図(九)にはそのような図柄は描かれていない。むしろ、明確に衣紋掛全体が額板の中にあることを示している。そうだとすれば、額板が落下してかぶさる瞬間以前に衣紋掛けの半分が燃え落ちていたこと、そしてそれは、マッチの軸などの状況との整合性を示しているのである。従って、その事実は、重要な別のストーリーの展開を意味している。金澤記)

この衣紋掛の下に古い血痕ようのものが付着したメンス用パンテー1枚、および、北寄りに同じくメンス用パンテー1枚がある。

この時本職は、このパンテー2枚について立会人水野庄次郎より任意提出を求め、これを領置した。
両パンテーの中間に黄色の頭薬のマッチ軸木5本があり、いづれも使用されず水を含んでいる。このマッチ軸木5本についても立会人水野庄次郎より任意提出を求め、これを領置した。

次に、額の位置の南端部には、9センチ×9センチの範囲にわたり、血痕ようのものが畳の目の間へしみ込んだ跡があり、水で薄くなった赤色を示している。さらに、この付近の炭化物を取り除くと、額の位置の西南寄りに、黒く焼燬した衣類の一部に血痕ようのものが付着して残っている。この衣類の大きさは15センチ×8センチの不整形である。

【ピアノの状況】 - 部屋北側のピアノは、長さ1.52メートルで奥行0.68メートル、高さ1.3メートルで背部を北の敷居一杯におかれている。鍵盤の蓋をあけると、ヤマハと記入されている。鍵盤は変色せず、ひくと音が出るが鍵はもとへ戻らない。上には雑誌および布片の焼けたものなどが雑然と置かれ、ピアノの表面同様炭化している。鍵盤の蓋の上には折畳式の洋傘の骨が焼けている。

【布団の状況】- ピアノの部屋の土砂を取り除くと部屋のほぼ中央に、西床の間の板敷きに接する状態で、敷き布団が敷かれていることが判明した。
立会人橋本昌子は、この布団を指していつも妹扶示子が西枕に寝ている布団です。と説明した。
敷き布団の西側には枕、中央部には毛布・衣類が数点重なってあり、いづれも、表面は黒く炭化している。布団の裾に当たる部位の北に、洋鋏一個、裾の南あたりに洋鋏一個と一部焼け残った黒皮手提鞄一個および、蝦蟇口の表面が焼けたもの一個、指輪一個が散らばるように畳の上にあり、さらに布団の南約30センチのところに婦人用腕時計一個がある。腕時計は、長方形金側、金色バンド付きでガラスがなく、短針は2時を指し止まっている。長針はない。
前記布団の裾南の洋鋏は、焼けて錆びており、長さ19センチ、刃の部分の先端が1.3センチ開いており、ステンレス製で白く光っている部分が多い中にところどころ赤い錆が浮かんでいる。
前記布団は水を吸って、押さえると多量の汚れた水が出る。敷布団で大きさは、長さ1.65メートル、巾85センチで東西に長く、西の壁から95センチ離れて敷かれている。枕の位置に、枕の下へ敷いて使ったと認められる座布団二枚があり、同じ大きさで37センチ×37センチで敷き布団の両端より30センチ床の間へ出張っている。上一枚は表面が黒く炭化しているが裏面は木綿の赤色模様で、下の布団は花模様である。布団の南側で、床の間の東側には、化繊の衣類が焼けくずれて黒く残って、大きさは15センチ×15センチ・15センチ×13センチの二つがあり、これを取り除くと下の畳が露出する。
布団の上の焼けて積み重なっている衣類を上より詳細 検すると、白木綿ようの衣類で、血痕などの付着は認められない。

【血痕付着の布団の状況】- 前記衣類の付近には焼けて端が下の毛布に接着している化繊ようのものがある。毛布より離して見ると、これは、化繊の夏掛布団で、桃色地の布団の隅の部分が焼け残ったもので、三角で50センチ×38センチ、斜辺が50センチの不整形、これに白木綿かばーがついており、カバーに不整形があるが24×27センチ、長さ20センチの棒状の二つの血痕がついている。さらに、これの西側に近接して、同じ布団の断片があり、同様毛布の上に隅の部分が30×25センチの不整形で折り重なっている。これを裏返すと白カバーがあり、これにも血痕が付着している。このカバーは、布団の底面の部位のものと認められる。これらと同じように、さらに同じ掛布団のふちの部分の断片があり、桃色地の内側の部位と認められる桃色地に銀糸模様のついているところに全般的に血痕が付着している。(直径7センチぐらいの大きさ)この布団は、30×25センチの不整形である。この時、本職は、これら血痕付着の布団の断片(カバー付き)三点を前記捜索差押許可状により差押えた。


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【枕・敷布団などの状況】- 焼燬した掛布団などを取り除くと下にカーキ色、黄色、橙色、黒色の角形模様の毛布が大部分焼失し、90×90センチの範囲に残っている。この毛布の端は枕の下に入れた座布団二枚の下へ及んでいる。
前記二枚の座布団の南側の敷布団角に枕があった。枕は焼け崩れて、中のパンヤと称する繊維ようの物質が水に濡れ固まっている。枕は木綿白地に黒縞模様入で大きさは23センチ×35センチで、枕カバーである白タオルが一部枕の下に残っている。座布団二枚を取り除くと、下は床の間の板張りと毛布の端が出る。座布団の下は全く焼燬していない。
毛布の下の敷布団は、板敷きにほぼ接するように敷かれ、押さえると水が出る。紺色白唐草模様の木綿がかった敷布団で東側半分位は表面が炭化している。さらに敷布団をめくると、裏は紺無地の布地である。布団の北・東・南の三辺は少し炭化して端が明確にわからない。布団の下の畳は水を含み、布団のしみが出て一部青黒く変色しているが異常を認めない。


【以上が、扶示子に関係する事項を、捜査資料の検証調書から引用したものである】- 真相を把握しようとすると、様々な資料を読破し、書かれていることに矛盾がないかをチェックしなければなりません。

(【検証調書について】 - 基礎捜査である「現場検証」の資料である「検証調書」は第10分冊と第11分冊及び第12分冊に収録されている。初動捜査の基礎捜査資料は事件の真相を解明する重要な資料である。その中でも基本的な骨格をなしているのが「検証調書」である。その資料のとりまとめを行っていたのが「春田龍夫警部補」である。このような「基礎資料」は正確を期すと同時に、できるだけ速やかに作成して「捜査の基本資料」として使うのである。ところが、第10分冊は「春田龍夫警部補」が取りまとめた形となっているのだが、作成日が8月8日となっている。どう考えても遅すぎるのである。それに対して、第11分冊は「黒柳三郎警部補」が取りまとめた形となっており、作成日は7月20日となっている。何故「黒柳三郎警部補」が急に入ってきたのかと訝っていた。また、「春田龍夫警部補」が既に出来上がっていた検証調書の、捜査本部の幹部から書き直し指示が出て、それに抵抗していると見て取れた。それが日付にも表れていたのだ。そもそも「黒柳三郎警部補」は6月30日からの現場検証にも参加していないし、現場検証のリーダーでもないのである。7月20日は「黒柳三郎警部補」が「防犯の担当部署」にあって、「応援に呼ばれて後から行った、こういうことは大事だから、お前頭がいいようだからこしらえろと。ある程度文章のできるひとでないと、・・・・誰かが代表で書かなきゃいかんもんで。」と後に語っていたように、「後から行ったその日付なのであろう」。また、第10分冊の「検証調書の日付・8月8日は提出ぎりぎりの日付となっていたのだろう。おそらく、捜査本部の幹部たちが春田警部補の尻を叩いて出させたのは「袴田巌さんに見込みをつけていたわけだから8月18日に逮捕し、8月20日書類送検する日程」を予定していたからだろう。

【発見された場所が殺された場所ではない証拠】

まず第一に、うつ伏せになっていた死体が、念入りに顔や頭部が焼かれ全体が焼かれていることである。それが示している事実は、仰向けになっていた時に前部が焼かれ、ひっくり返され、背部を焼かれているということである。いわゆる「二度焼き」の死体だという事実である。
第二に、死体の下に表面が黒く焼けた額板があり、その下は焼けていないことである。つまり、焼けた額板の上に死体をのせたという事実が、死体をどこかから移動したということを示している証拠なのである。
そして、第三に、殺された場所から死体が発見される場所に移動するまでに、しかも、一度焼きの時以前にこの額板や額板の下にあったパンティー二枚・マッチの軸5本・プラスティックの焼け残った衣紋掛けがこの場所に落ちる事情が起きていたのである。その衣紋掛けの位置を図面のとおりだったとすれば、「焼落ちた」ことになり、その後、額板がかぶさるように落ちたことになる。その様子を次のように推理してみた。「世界を駆け巡っているヴィートルズが、6月30日に日本武道館へくる。扶示子は、武道館へヴィートルズを見に行くために外出着をプラスティックの緑の衣紋掛けに掛けていた。その衣紋掛けは、ピアノのすぐ上の鴨居で、東から三枚目のガラス戸のところに掛かっていた。その上に額縁が縦に、可燃性のヒモで吊り下げられ、下端は鴨居に乗っかっていた。額板が鴨居から落ちないように鴨居にくぎが打たれている。
外出着に火がつけられた。めらめらと燃え上がる炎はジョンやポールたちを写したポスターを焼き、吊りヒモが焼き切れた。額板は一回転して、下の半分焼けた外出着を跳ね上げた。外出着は炎上しながら布団の南まではねとばされた。そのポケットに腕時計があった。半分焼け残った衣紋掛けは落下した。額板がその上からかぶさるように落ちた。マッチの軸は、外出着に火をつける時に落ちたのだろう。」パンティーの二枚がある意味はわからない。強いていえば、姉が妹に経血付着のままのパンティーをタンスに入れておくのはよしなさいと注意した時に持ち出したのだろう。惨劇はその後に起きたのであろう。このときの時刻は夜10時半前であろう。 

【死んだ場所・を示す証拠】

死んだ(殺された)場所は、「布団の上である」その証拠は、【血痕付着の布団の状況】- 前記衣類の付近には焼けて端が下の毛布に接着している化繊ようのものがある。毛布より離して見ると、これは、化繊の夏掛布団で、桃色地の布団の隅の部分が焼け残ったもので、三角で50センチ×38センチ、斜辺が50センチの不整形、これに白木綿かばーがついており、カバーに不整形があるが24×27センチ、長さ20センチの棒状の二つの血痕がついている。さらに、これの西側に近接して、同じ布団の断片があり、同様毛布の上に隅の部分が30×25センチの不整形で折り重なっている。これを裏返すと白カバーがあり、これにも血痕が付着している。このカバーは、布団の底面の部位のものと認められる。これらと同じように、さらに同じ掛布団のふちの部分の断片があり、桃色地の内側の部位と認められる桃色地に銀糸模様のついているところに全般的に血痕が付着している。(直径7センチぐらいの大きさ)この布団は、30×25センチの不整形である。

とあるように、燃え残るほどに血液が浸潤している。
この「血痕を無視することの暴挙」こそ、「超法規的な証拠の隠滅」である。

1981年に救援活動に関わるようになって、この事件資料を入手するまでに4~5年経過しており、自分で本格的にこれをチェックして、文章に起こすまでにわたしは8年かかっている。整理できるようになるまでにも一般市民の私は相当年月を要しています。結局これをまとめられたのが1999年3月でした。一般市民が真実に到達するのに、こんなに時間がかかってしまうのです。
金澤記)
by kanakin_kimi | 2012-10-29 20:36 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

告発  1

袴田事件の事件構造

事件現地・清水市街図(当時)
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事件現場・橋本藤作商店専務宅(鎮火後上面図2面)
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46年前の1966年6月30日火災現場から4人の焼死体が発見され、特別捜査本部が設置された時の看板の名称は「横砂会社重役強殺・放火事件」となっている。そして、袴田巌さんが、逮捕され、起訴され、裁判され、判決を言い渡された事件の名称は「住居侵入・強盗殺人・放火」となっている。「袴田事件」という名称は「冤罪の疑いがある事件」という意味合いを持って「再審請求事件」の代名詞として使われているのである。

従って、①「横砂会社重役強殺・放火事件」が発生し、1966年10月31日「特別捜査本部が解散」するまでの全捜査過程を通じてこの名称が使われ、②1966年9月9日の起訴以降静岡地裁から最高裁の上告棄却判決(1980年11月19日)までの全訴訟過程を通じて「住居侵入・強盗殺人・放火」事件の名称が使われている。③そこから、1981年4月20日の再審請求書提出以降「再審請求事件」といわれる、いわゆる「袴田事件」の名称が一般的には使われているわけである。

そこで、ここでいう「袴田事件の事件構造」というのは、「冤罪事件としての袴田事件」⑴と、これが発生する「発端となる事件」⑵としての「横砂会社重役強殺・放火事件」「住居侵入・強盗殺人・放火事件」の「二重構造」になっているということ、それを二重の円であらわしていた。発端となる事件を小さな円で、それを包む大きな円が冤罪事件の袴田事件である。それぞれの事件には、それぞれ真犯人がいる。袴田事件のパターンでは、それぞれの真犯人相互に交流と金銭の授受があることを示すものであった。

しかし、その後研究を重ねてみて、「発端となる事件そのものにも事件構造」があり、そして「冤罪事件としての袴田事件そのものにも事件構造」がある事に思い至った。

それは、①「横砂会社重役強殺・放火」事件が発生し、1966年10月31日特別捜査本部が解散するまでの全捜査過程を通じての名称の中にも、また、②「住居侵入・強盗殺人・放火」事件の全訴訟過程を通じての名称のなかにも事件構造を考えなければならない事を見いだしたからである。

それは、全捜査過程で「事件そのものの隠滅とねつ造」が行われている事である。
そのひとつは、「強盗」という事件がないにもかかわらずこれを「立件」していることである。
そしてまた、藤雄の「自殺」を強引に「他殺」にしていることである。
したがって、これに伴う膨大な「証拠の隠滅とねつ造」が「捜査過程において、いや、訴訟過程においてまで、捜査当局者によって行われている」事である。

さらに、これらの事実が示すことは、「捜査過程」以前の段階で、つまり、事件が発覚する以前の段階で既に捜査当局者の一部の者が「証拠の隠滅とねつ造」に介在していた事を示しているのである。
ちなみに、捜査当局の代表は、静岡県警本部長の高松敬治、県警捜査一課長の池谷真二、清水警察捜査一課長の富安要の各氏である。

そして、あろうことかこの事件の全訴訟期間の過程で膨大な「証拠の隠滅と捏造の看過と事実誤認」が行われ、「犯行着衣」を1966年9月9日起訴状では袴田巌の「パジャマ」としていたが、地裁公判中の1967年8月31日に味噌タンクから発見され(9月3日に証拠として提出し)た「5点の衣類」へ変更(し浜北の実家から押収した布切れを5点の衣類のズボンの共布と断定)するという「不法な訴因変更」までが行われたのである。


法治主義の訴訟構造

これほど膨大な、しかも赤ら様な「証拠の隠滅とねつ造」が行われていることが、捜査過程で発覚しないわけがない。にもかかわらず、「発覚させない状態」に閉じ込めている。「発覚しないためには、どのような仕組みが働いたのか。」
考えるだにおぞましい、捜査態勢の中の人事異動、いじめ、恫喝が秘密裏に行われていたに違いない。あるいは、組織全体が、そのような捜査態勢に異論を差し挟ませない、異常な組織だったのか。
その原因を何に求める事ができるであろうか。
私は「真相解明をしない、あるいは真相解明をしなくてもよいという法律体系」による「法治主義」という「法律を守る事のみに意義を求め、法律を守りさえすれば何でもできる」という「社会的規範」という名の「支配の論理」が「分立を装う三権の府や組織」の発想の根幹をなしているからだと思っている。
したがって、「真相解明」よりも「手続法が優先され重視」された結果、「証拠の扱いに対する不条理」が生じているのだ。そして、それに「疑問を抱かせない仕組みを常識化」させようとしているのだ。
しかし、いまの時代は一般市民が、「専門家に任せている事態」そのものを問題視しているのである。
「三権の分立」というのは、「司法(裁判所)・行政(内閣)・立法(国会)」がそれぞれ独立して干渉させないという「権力相互間の不干渉」を意味していたが、一般市民にとっては「三権」のいずれもから排除されていたのである。したがって、「訴訟構造」がこの影響を受けており、「証拠の隠滅とねつ造」が行われていることが、捜査過程や訴訟過程で発覚しないわけがないにもかかわらず、「発覚させない状態」に閉じ込めていたのである。
行政・立法の内閣・国会の機能に関わる「政党政治」が「終焉」したのと同じである。間接民主主義が終焉し、直接民主主義の時代へと移行する時「行政・立法の仕組みは改革される」のである。同時に、一般市民の直接参加による「司法の仕組みが改革される」検察審査会や裁判員制度などの「専門家に任せるシステムの終焉」の胎動であった。「時は今、民の下なる、文月かな」である。

証拠法と証明構造

証拠と云うのは、ある証明目的にたいして行う物的・状況的証明手段であろうと考えています。しかし、その証拠は法的にどのように保障されているのか、法的にどのように規定されているのか、証拠としての認知はどのように確保されるのだろうか。刑事訴訟法に証拠裁判主義がその原理として、規定されている。しかし、それであるならば被疑者の自供を求める必要はないはずであるが、未だに長時間に渡る取り調べが行われており、その被疑者の人権確保のためにビデオ撮影などが行われるに至っている。しかし、本人供述は上申書を書くようにすれば事足りるので、取り調べそのものを廃止すべきなのであり、本末転倒というべきである。刑訴法に証拠裁判主義が規定されているのは、証拠法の規定ではなく証拠に基づく裁判を行えという「刑訴法の規定」なのである。原理としての証拠裁判主義を徹底すればいいだけなのである。
そこで、わたしは「証拠法」が「刑事訴訟法」から独立した法律としての機能と権能を付与確立させなければならないと考えるのである。「証拠法」は、証明する作業が科学であるから「科学法」である。法律が「科学法」として確立されると、科学法は真相解明主義であるから法体系全般の内部矛盾が浮き彫りにされる事になるだろう。これは極めていい事なのだ。
真相解明を恐れるものが、今日まで「証拠法」の法的確立を妨害しているのではないかと考えている。


「刑事実務証拠法」が石井一正氏の書籍で出されているが、これは法曹界の便宜的な処理的扱いなのであろうか、どの法律に準拠しているのか明確ではない。
私見では、「証拠裁判主義」を規定しながらも、手続き中心主義の刑訴法であり、「法治主義」の社会規範に影響されている実態における救済策的な法曹界内部の妥協の産物なのであろうか。
このように、一般市民は、そこからも排除されている。「証拠」を隠滅したり、ねつ造したりする事ができないようにしておかない現行法では、いつでも冤罪は起きるのである。科学法としての証拠法を確立する事は、「再現性の確保」が「担保」された「証明構造」を持つ事になる。例えば、「火災」が発生した場合の証拠保全も、被疑者を確保した際に身体検査をする場合の証拠保全も、死体解剖する際の証拠保全も全て「科学法である、証拠法」によって規定されておくべきだろう。「袴田事件」という「冤罪事件」の発生を見ると、その事を明瞭に物語っている。五点の衣類が袴田さんのものだという事の証明をどのようにしたかを見てもわかる。年老いた母親一人だけのところを見計らって、家宅捜索をし、タンスの引き出しから見つけたといって、布裂の輪っかを手にあげた。年老いた母親には葬式の腕章のように見えた。これが後に、五点の衣類のズボンの共布と断定し、袴田巌のものだと断定した。この証明構造は正しいであろうか。警察官が家宅捜査でここにあったと言えば、証明されたことになるのか。そこにあったことを証明する証拠はないのである。感性豊かな人は、ここで気づいてくれるだろう。タンスにあったと云った捜査員が取り上げた「輪っかの布裂」は「葬式の腕章」であったのか、「五点の衣類のズボンの共布」なのかという事がどういう意味を持っているかという事である。「葬式の腕章であれば、証拠のねつ造が明白」になり、「犯行着衣としているズボンの共布であれば、捜査員はどこからその共布を持込んだのか」という「ねつ造行動の行程」が見えてくるからである。この輪っかを「決定的な証拠」として、「控訴棄却」を出したのは、東京高裁控訴審の裁判長横田敏雄氏である。当時の法曹界では良識のある裁判官であると評価されていた「横田判決」はその後の足かせとなっている。「横田敏雄」氏にどのような圧力が働いたのか。その気になれば、調査させる権力を持っているはずである。このことは、最高裁調査官にも云える事である。

告発 1、袴田さんは無実です。

「真相解明をしないシステムが冤罪を作る」

46年前の1966年(昭和41年)6月29日から30日未明に掛けて、「王こがね味噌」の登録商標を持つ「橋本藤作商店の専務・橋本藤雄宅の火災現場から4人の焼死体が発見された事件」が発生し、袴田巌さんは、その容疑者として8月18日に逮捕された。事件発生から「50日目」である。
7月1日に設置された捜査本部は、「袴田巌を50日間泳がせていた。」と記者会見で述べていた。つまり、事件発生直後から「袴田巌を犯人視した、見込み捜査が行われた事を捜査本部自らが暴露したのである
by kanakin_kimi | 2012-10-29 20:04 | 告発・袴田事件 | Comments(0)

日本は「八百万の神々を尊崇する民の国」です 2

「八百万の神々」

「お互いの存在を認め合い、相互扶助で生きていこう」というのが「八百万の神々」の考え方なのです。支配や非支配の関係はありませんから、階級や階層もあり得ません。「日本列島住民の縄文人コンセプト」です。そこへ周りから入り込んできた人々がそれぞれの文化を持ち込んできたのです。

ですから、日本にはたくさんの文化の痕跡が入り組んで受容している事が見て取る事ができます。ところが、「八百万の神々」の考えと対立すると「八百万の神々」の考えにとけ込んでしまうのです。おそらく、「八百万の神々」の考え方がそれほど「優秀」なのだと思います。

持ち込んできた「文化」が優秀で有益である事から、それが普及して社会を席巻するという歴史が何度も何度も繰り返されてきました。そして、それが主導権を持ち一定の期間「支配権」を持ち続けたかに見えた事もありますが、中軸にある「八百万の神々」の考え方を上回るものではない事がわかると、いいところは吸収されていてもその中軸はぶれる事が無いのです。それはどうしてでしょうか。

わたしは、二十代の頃に日本列島住民の考え方を「和の論理」の考え方をしている事に忸怩たる思いをした事があります。それは、「和の論理」が「対立をさける」という事がいつも物事を「曖昧にしてしまい」「原理的な発想をしない」という欠陥があり、「進化」「進歩」を「引き摺り下ろしている」と考えてきました。

ところが、「対立」という事について考察を進めていき、( 対立物 →対立の 統一 → 統一物 ) を形成する領域の分母に ( 置かれている立場=環境=領域 ) がある事を考え、それを ( 場 ) すなわち、それぞれの置かれている特殊な場があるわけですから、それを ( 特殊相対場 ) と呼ぶ事にしたのです。それは、つぎのような「 式 」で表す事になります。

        ( 対立物 →対立の 統一 → 統一物 )
       ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          ( 特 殊 相 対 場 )

これを見いだした後は、いろいろの事象の混乱を整理できるようになったのです。
たとえば、化学反応の一つである「中和反応」は、三角フラスコに一定濃度の酸性液があり、それに一定濃度のアルカリ溶液を滴下して、指示薬の色の変化で中和点を求めるという、一昔前はこのようにして、滴定していたのです。この場合の(特殊相対場)は、三角フラスコです。対立物は、酸性溶液とアルカリ溶液です。対立と統一が中和反応です。そして、」統一物が中和溶液となります。

by kanakin_kimi | 2012-10-28 22:50 | 八百万の神々 | Comments(0)

時は今、みんな賢く、積み重ね

みんなが賢くなるためには、「ごまかし」や「うそつき」、「おどし」や「そそのかし」をみんなに知らせる事だと思うのです。

みんなが賢くなるためには、「右翼」や「左翼」というものは、いりませんし、かえって「邪魔」になってきています。何故かというと、そもそも「右翼」「左翼」は、多くの人たちを「分裂支配」するために
作られたとも云われていますが、まあ、権力と戦う方と、権力がそれと対抗させるために使う方と必然的に生まれるのでしょう。どちらが「右翼」でどちらが「左翼」かどうかはどうでもいい事なのです。

311の東日本大震災が「自然災害」か「人口災害」かの「認識の違い」はどのように判断されるでしょうか。それぞれのおかれている立場が表れてきます。真実を明らかにすることに「障害」となるもの「障碍」となるものがあるのでしょう。

アメリカ軍の「お友達大作戦」は、アメリカの「誰か」が「人工地震」を誘発し「片道・大津波」にしたという事実が「真実」であれば、素直に喜ぶ事はできませんよね。とりわけ、「人工地震と片道・大津波」と「お友達大作戦」がセットになって計画されていたとすれば、なおさらですよね。



もんだいは、多くの人々に「真実を知らせる」事を優先するかどうかなのです。
by kanakin_kimi | 2012-10-28 16:10 | 311はアメリカの人工地震説 | Comments(0)

311はアメリカの人工地震 説
















































by kanakin_kimi | 2012-10-28 12:53 | 311はアメリカの人工地震説 | Comments(0)

地球工学








by kanakin_kimi | 2012-10-27 17:11 | HAARPの地震気象変動軍事 | Comments(0)

なにかがわかる












by kanakin_kimi | 2012-10-27 16:28 | なにかがわかる | Comments(0)