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告発 歴史の見直し 5

アイディンティティを見失った韓国市民本当のアイディンティティをこれから作る最後のチャンスが見えるか、どうか見えてほしい
いま韓国市民がおかれている状況は、米軍が撤退するまでの間に、すみやかに決断しなければならないところにきている。支配の手練手管に気を取られる事なく、自らの民族がたどってきた歴史を厳しく問い、自らの本当の誇りを取り戻す事だ。わたしの認識では、韓国の村々に息づいていた村祭りが失われてはいないだろうかということだ。昔からの韓国独自の文化が、切り捨てられてしまっていないだろうか。そして、そのような事が事実だとすれば、しかもその原因を自らの責任とせず、他の国とりわけ一番安易に転嫁しやすい日本の責任としているとすれば、それは甘え以外の何ものでもないのだ。
わたしの認識では、韓国の歴史は支配階級層が半島内部で戦乱に明け暮れ、いずれも敗北したものが日本列島に逃げ込んでいるという事が繰り返し行われてきた。そして、日本列島で支配階級に上り詰めてきた歴史も、繰り返し積み重ねられてきた。その一つが天皇制でもあったろうが。しかし、それは日本列島住民の縄文時代からの「森羅万象の精霊を敬い、八百万の生きとしいけるもの・死にとし死ぬるものの神々を尊崇する」という「お互いを認め合い・助け合う」生き方・棲み分け方をしてきたなかにとけ込んでいるということなのだ。そのことが、韓国にもあったはずなのだ。
日本の天皇制が、「ロスチャイルド・イルミナティの日本支配の鍵」になっているとすれば、日本市民はそんな天皇制にこだわる事はないだろう。だから、韓国・在日朝鮮の天皇制との関わりを利用しようとしても、欲しいのなら持っていけばいいだけなのだと知るべきだ。
by kanakin_kimi | 2013-07-31 22:48 | 歴史観 | Comments(5)

告発 歴史の見直し 4

歴史観を歪めているもの
世界史を歪めているものの原因が分かった。歪めているものは「支配の論理」が「歴史編纂に自らの都合を強制した」からである。あるいはまた、「歴史編纂に関わるものが権力におもねり・へつらい、手心を加えた」からである。世界に先駆けてイギリスで「揺り籠から墓場まで」という政策のフレーズが打ち出され、どこよりも早く間接民主主義の議会制度を確立させた。これらは、「支配の論理の手のひらの上の政策であった」と考えるしかなかったのか。
先ず、イギリスの歴史を大きく花開かせたターニングポイントとなった時代である。世界史の大局を左右した問題が「西欧の大航海」によって「世界の海上交通路」を開拓し、交易し、交流をし、原住民が弱いと見るや戦争を作り資源・資産を掠奪して「植民支配地」として占領地域を拡大していった。それを程度の差と質の違いこそあれ、未だに続けているのである。
したがって、「占領支配を長期にわたって維持するために戦略的な政策をとり続けてきたのである。」
その「長期占領支配政策」のひとつが「宗教支配」であり、それを裏付けるための「歴史文化支配」なのである。だから、「イギリスの歴史」は「掠奪史で塗り固めた歴史でしかないのである」。そしてまた、「イギリスの文化」は、開店休業状態で独自の文化を見いだす事が出来ず、「掠奪してきた文化で塗り込めた”カタログ文化”と見受けられる」のである。
それは、「支配階級が持つ文化そのものだからである」。そこには、イギリス市民がいないのである。
いったいいつから、そのような「イギリス」になったのだろうか。わたしが、知らないだけなのだろう。
「長期占領支配政策」のひとつ「宗教支配」は、現在「ヴァチカンと世界政府」で統合しているつもりのようだ。「支配の論理」で地球世界を運営しているつもりのものは、「傲慢で非情」だが、「天に唾する愚か者がいっぱいの部落だ」。Wikipediaでは、イギリス帝国の盛衰を次のように記述されている。
"empire"あるいは"imperial"という言葉はさらに古くから使われてきたが、一般にイギリス帝国という場合、始まりは16世紀あるいは17世紀とされる。その正否は問わないこととしても、海外への拡張という事実のみに着目すると、1585年のロアノーク島への植民が、また、実際に成功し、後世への連続性をもつという点からすると1607年のジェームズタウン建設が、それぞれイギリス帝国の開始点となる。ただ、いずれにせよイギリス帝国が帝国としての実体を備えるには北米植民地とカリブ海植民地の設立が一段落する17世紀半ばを待たねばならず、イギリス帝国が「イングランドの帝国」でなくなるには1707年の合同を待たねばならない。
17世紀から18世紀にかけての帝国はイギリス第一帝国あるいは旧帝国とも呼ばれ、19世紀以降の帝国、特に19世紀中葉以降に完成するイギリス第二帝国と比べると、アメリカおよびカリブ海植民地中心、重商主義政策による保護貿易、およびプロテスタンティズムによる紐帯の3点を特徴としている。航海法や特許会社の独占など、重商主義的政策による保護貿易は、いまだ脆弱なイギリス経済と植民地経済をよく守り、そして結びつけた。また、名誉革命以降のイギリスは国内外のカトリック勢力を潜在敵と見なしており、当時の帝国はフランス、スペインといったカトリックの大国を向こうにまわした「プロテスタントの帝国」と考えられていた。
その後、アメリカ独立戦争を経てイギリス帝国はインドへと重心を移し始める。また1760年代より進行した産業革命により、イギリス経済は次第に保護を必要としなくなり、自由貿易へと方向転換していった。19世紀前半のイギリス帝国は自由貿易さえ保証されれば、植民地獲得を必ずしも必要とはせず、経済的従属下に置くものの必ずしも政治的支配をおこなわない非公式帝国を拡大していった。この時期のイギリス帝国の方針は自由貿易帝国主義と呼ばれる。
19世紀半ばになるとドイツ、アメリカといった後発工業国の経済的追い上げを受け、またフランスやドイツの勢力伸張もあり、イギリスは再度、植民地獲得を伴う公式帝国の拡大を本格化した。インド帝国の成立を以て完成する新帝国はイギリス第二帝国とも呼ばれる。帝国主義の時代とも言われるこの時期ではあるが、イギリスは自由貿易の方針を堅持していた。ドイツなどの保護関税政策に対し、イギリスにも同様の政策が求められなかった訳ではない。19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリス帝国内での特恵的関税の導入を求める運動がイギリス産業界から起こされ、1887年に始まる植民地代表を集めた帝国会議でも度々議題にあがったが、結局、この種の保護政策は第二次世界大戦前のブロック経済の時期まで導入されることはなかった。
第一次世界大戦はイギリス帝国再々編の転機となった。大戦前より、各植民地、特に白人自治植民地の経済力は向上し、発言権も増していたが、大戦中の総力戦体制は植民地からの一層の協力を必要とするとともに、その影響力をより大きなものとした。1926年の帝国会議では自治植民地に本国と対等の地位が認められ、1931年のウェストミンスター憲章に盛り込まれた。これ以降、イギリス帝国は「イギリス連邦」の名で呼ばれることが多くなるが、「帝国会議」の名称はそのままであった。その後、この名称は第二次世界大戦後まで続き、1947年に「イギリス連邦会議」へと変更される。また、インド独立を期に、イギリス連邦加盟国家に「王冠への忠誠」が要求されなくなるなど、第二次大戦後まもなく、イギリス帝国は名実ともにイギリス連邦へと姿を変えた。

by kanakin_kimi | 2013-07-29 10:04 | 歴史観 | Comments(1)

史観のアインシュタインシンドローム

時間

わたしたちは、何かを表現しようとするたびに、思いをもっているもの以外を無意識に排除している。
思いを持っているものは取り上げ、それとは関係がないと判断したものは省略している。それを、捨象というのであるが、そのことをすっかり忘れているものと、それをしっかり覚えているものの間に大きな差が生じる。
歴史学は、「いろいろな出来事」を「時系列に並べる事」によって、今まで「見えていなかった事」を「見えるようにしようとする」ものである。
その際、「いろいろな出来事」のその「選び方」によって見えてくるものが違ってくるのである。つまり、歴史として記述されたものが意図的な「選び方」がされているものである。
人の「いろいろな出来事」の「選び方」は、人が居住する環境に規定されていると考えられる。その被規定環境の形成は自然要因と社会要因が紡ぎ合っているのである。「いろいろな出来事」を情報として提供するのに対して「選び方」はその人に任せればいいのである。しかし、全く捨象のない文章は皆無であると考えるべきだろう。
わたしがここで書こうと思い立った事は「時間」を「次元」の一つとして考えている人の事が出ていたので、「時間は次元ではない」ということをまた言わなければと思ったのであるが、それの「言い回し」をつい忘れてしまったのである。だから、備忘のために、課題を先に書いておく事にした。
三次元に時間次元を加えて「四次元」といっているひとびとがいる。ですからその人々には、「異次元世界との交流」は当然のように行われて「飛躍」するのである。宇宙探査が行われ、その情報が正確に公開されていくに従って、「異次元世界」と思われていた様々な事象が「三次元世界」の延長上にある事が認識されていく。「未知」が「四次元」や「異次元世界」をかいま見せるが、それが「既知」となるにしたがって「四次元」や「異次元世界」は消えていくのである。それはどうしてかというと、「真実」と「虚偽」および「無限」と「有限」についての「認識」を正確にし、常により正しくなるように修正する心がけが必要なのである。
現在のわたしの認識は、「真実」「虚偽」「無限」「有限」は、「表現する言葉」であり、「認識の表現」であるので、これを厳密に表現すると「実態真実」と「仮想真実」と、いいかえることができる。こう書くと、「真実」と「有限」が「実態真実」に近く、「虚偽」と「無限」が「仮想真実」に近いように思われるであろう。ところがそうではなくて、我々が表現するすべては「仮想真実」なのである。したがって、わたしは「実態真実」を簡単にして、しかも言い尽くせる表現を求めてきたのである。
それで、やっと落ち着いた表現を見いだした。
「実態真実」とは、「空間に広がる質量の連続」である。というものであった。
「空間」に「質量」が「広がり」その「連続」している状態が「実態真実」なのである。これを、分割して表現するものはすべて「仮想真実」なのである。そして、これを分割しないで表現する事は出来ないのである。表現する事は分割するという事なのである。だから、「実態真実」を「分割しないで定義する表現」=「空間に広がる質量の連続」に十数年の年月を要したのである。もちろん、表現自体は「仮想真実」である。
そして、「実態真実」はすべて「三次元」である。
すなわち、「四次元」とか「異次元世界」といわれるものはすべて「仮想真実」ということである。
その事に関わる問題が「時間」についての認識である。「実態真実」における時間は、「空間に質量が」「広がり、連続している状態」の「広がり、連続している状態」に関係している事がわかる。
つまり「空間や質量」そのものの表現には関係がなく、「広がり、連続している」運動表現なのである。すなわち、「質量」と「空間」の「たて・よこ・たかさ」の三次元方向の「広がりと連続」を「表現するものさし」なのである。大きさ・長さ・重さは、「度量衡」でおさめられているが、「早さ・速さ」とか「エネルギー・運動量」にかかわる「速度」は「時間」なのであるが、これが「度量衡」からはずされているために生じている。その事に起因している誤解なのである。
アインシュタインの間違いを引きずっている原因を「アインシュタインシンドローム」とわたしはいっているのだが、それと同じように、間違った史観を引きずっている原因を「史観のアインシュタインシンドローム」という事にした。
by kanakin_kimi | 2013-07-28 10:49 | シンドローム | Comments(2)

ロスチャイルド・イルミナティを洗い出せ

ITCCS 報告

グーグル翻訳ですので、よろしく判読ください。
itccs.org
ローマカトリック教会は、国境を越えた犯罪組織と宣言され
itccsによって2013年7月11日に投稿されました

犯罪行為と反逆を扇動するための教皇フランシス/ホルヘBergoglioに対して発行される国際逮捕令状
教会と国家の犯罪に国際法廷(ITCCS)から諮問グローバルメディア - 中央事務所

ブリュッセル:

7月11日に、教皇フランシスは、正式に公すべてローマカトリック教徒の間で犯罪行為を煽動彼の教会内で児童虐待の報告を禁止し、そのような虐待について話す人たちに対して破門を脅かすことで。

彼の行動によって、ローマ、ホルヘBergoglio、司教は、国境を越えた犯罪組織(2000)に対する国連条約の条件の下で、犯罪組織の長として逮捕·起訴に直面している。

"教皇フランシスは、自分の国の法律を破ると子強姦への援助と快適さを与えるために、世界のすべてのカトリック教徒を語って​​いる。それは単にひどく不道徳な行為が、戦争犯罪ではないが、彼は他の国の法律や主権を攻撃しているので、とそれらの人々の安全を脅かすことは、 "成功した昨年2月、旧ベネディクトや他のバチカン高官を起訴ジョージDufort、国際司法裁判所コモンロー裁判所のベルギーベースの事務を、コメントしています。

Bergoglioの声明を受けて、ITCCSは今日イタリアなど21カ国における関連会社への行動の次のプランをリリースしました:

1。ITCCS中央事務所は大逆罪、戦争犯罪と人道に対する犯罪的陰謀との充電でホルヘBergoglioと彼の仲間の即時逮捕のために、国際司法裁判所コモンロー裁判所の検察庁からベンチ令状を申請している国連の法則。ホルヘBergoglioと彼の仲間はすぐに国連の法律と正義の国際慣習法裁判所の後援と権限の下で、これらの犯罪のために拘留されたと公開裁判にかけなければならない。

2。2013年8月4日(日曜日)に、グローバル宣言は、ローマ·カトリック教会は、法の下で国境を越えた犯罪組織であることを宣言し、そのアクティブdisestablishmentを注文、その資金や財産を押収を含めて、その役員と聖職者を逮捕、発行されます:前述の国連条約によって犯罪者団体に対して認可されたアクション。

3。ローマカトリック教会のメンバーと聖職者は、ここに犯罪組織の仲間として逮捕の痛みに、資金調達やローマの教会への参加を控えるよう命じている。国民は、国際法に従って、ローマカトリック教会の富や財産の差し押さえを支援するために奨励されています。

このステートメントは、12の言語で発行され、21カ国で制定され、ジェノア、ローマ9月20-22、2013に計画国際コンバージェンスおよび埋め立ての一環として、イタリア、バチカン市国で含む。

ITCCS中央、ブリュッセルによって発行された

2013年7月11日













by kanakin_kimi | 2013-07-27 00:08 | 洗い出せ・そして公開せよ | Comments(1)

告発 歴史の見直し 3

歴史観を歪めているもの

ここでもたくさんの文章をWikipediaから引用させていただきました。感謝しています。それにしても、
何故イギリスやフランスにギリシャやエジプトなどの古代遺跡の貴重な歴史遺物が、しかも膨大な量であり、貴重なものほどそちらに掠奪されているようだ。うちのかみさんにその話をすると、素っ気なく「だから、今まで残されていたんじゃない。」というのですが、わたしは納得できない。
文明の滴定―科学技術と中国の社会 (叢書・ウニベルシタス): ジョゼフ・ニーダムのこの本に巡り会わなければ、中国の大航海時代が西欧の大航海時代に先駆けて70年以上も前に中国の鄭和が、しかも大船団・大規模・巨大船で行われていたという事実があったという事を知る事が出来なかったかもしれない。今までのように、文化の程度は「西高東低」などと自虐気味に云っていたかもしれない。それほど、15年戦争の影響は大きかったのである。アジア人の表情が、西洋人の表情と比較して「自虐的」であったのは「自分たちの歴史を正しく認識していなかった」からなのだということを明確にしたのが「文明の滴定」であった。しかも、残念な事にアジア人の手によって書かれたものではなく、イギリス人によって書かれた。いや、だからが故に「より鮮烈に、認識させられた」のである。

ノエル・ジョゼフ・テレンス・モンゴメリー・ニーダム(Noel Joseph Terence Montgomery Needham, 1900年12月9日 - 1995年3月24日)は、イギリスの生化学者・科学史家。コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章(英語版)勲爵士(CH)、王立協会フェロー(FRS)、イギリス学士院(英語版)フェロー(FBA)。中国科学史の権威で、1983年11月29日に中国社会科学院より名誉博士号が授与される。中国では李约瑟という中国名で知られる。
ライフワークであった大著『中国の科学と文明』は中国文明のみならず非ヨーロッパ文明に対する知識人の見方を一変させるほどの衝撃を西洋世界にもたらす。幼い頃から、ニーダムの政見は正統でなく、彼のライフスタイルは論議を呼んでいた。科学における彼の仕事は社会主義に基づき、そして、1949年以降、彼は中国文化への共感を新政府に述べた。ニーダムは、朝鮮戦争の間に北朝鮮(1952-53)の検査官になることに同意し、中国共産党の主張をレポートで支持したことが論争を呼んだ。「ニーダムは知的に共産主義にほれていました」と、ニーダムのバイオグラファーであるサイモン・ウィンチェスターは論評する。 また、ウィンチェスターは「しかし、共産主義諜報組織のリーダーとエージェントが情け容赦なく彼をだました」という。ニーダムは米国政府によって1970年代にブラックリストに載せられた。
やはり、こういう人でなければ生み出し得なかったのだろう。さて、そこで何故・誰が・「中国の大航海」が行われていた事実を「抹殺していたのか」という事が明確にされなければならない。なぜなら、そこに「西欧文明の優越性」を決定付け、「大英帝国とロスチャイルド・イルミナティの支配の正当性」を「歴史的必然的正当性」と意識付けようとしているからである。
ところで、この「中国の大航海」の公式記録が紛失している。この大航海の記録は第4次航海と第7次航海に同行した馬歓の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』や費信『星槎勝覧』・鞏珍『西洋番国志』などによって現在に残され、この時代の東南アジアの非常に貴重な資料となっている。これらは民選の物で、鄭和の航海の公式記録は「鄭和出使水程」という記録に編纂され、宮中の資料庫に保管された。これは船団の編成、名簿、航海日誌、会計などの記録を網羅した膨大なものだったといわれる。しかし数十年後に成化帝が調査させたところそっくり紛失しており、理由は現在も謎となっている。一説には航海の巨額の費用が民を苦しめ国家を衰退させることを憂慮した劉大夏という役人が、同様の大航海の準備資料とされないようひそかに持ち出して焼却したともいう。しかし、これはないだろう。喉から手が出るほど欲しがっているもの(行商の民ユダヤ)がおり、大枚をはたいても手に入れたであろう人(ロスチャイルド・イルミナティ)がいるものである。だから、焼却などともったいない事をするはずがないのである。
by kanakin_kimi | 2013-07-26 22:35 | 歴史観 | Comments(0)

告発 歴史の見直し 2

歴史観を歪めているもの

西欧の大航海
大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。
「大航海時代」の名称は岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた1963年、これまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。増田は、大航海時代の時間的範囲について、議論があると前置きした上で、具体的な始まりと終わりの年を提案している。増田によれば、大航海時代の始まりは、1415年におけるポルトガルのセウタ攻略。終わりの年は、三十年戦争が終結し、ロシア人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年である。
強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは四大文明の発祥地をはじめインカ帝国やアステカ帝国の例を見るまでもなく明らかである。
古代ギリシャ人は、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を世界として認識していた。アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・中国までに一気に広がった。アレキサンドロス3世がペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンドロス3世の帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。
パックス・ロマーナの下、整備された航路や道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた[3]。多様な人種・民族が奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った。
中東・インド・中国でも強力な世界帝国が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、塩や金が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。

ヨーロッパの停滞と復興
ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれたゲルマン人やノルマン人が相次いでヨーロッパを侵し、またイスラム勢力がイベリア半島に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて西ローマ帝国領土であった現在のイタリア・フランス・ドイツでは、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの経済が活性化し富が蓄積され、フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラムの北進を阻んだ。ペストの流行や気候寒冷化による混乱の中で暗黒時代を経験した中世ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰・洗練され、徐々に力をつけていった。

十字軍
11世紀後半セルジューク朝トルコがパレスチナを占領する。セルジューク朝トルコの脅威を受けてビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは聖地回復を大義名分に、ローマ教皇・ウルバヌス2世に支援を求めた。ヨーロッパ各地に十字軍の結成が呼びかけられ多数の王侯貴族や民衆がこれに応じた。
多くの者が殉教精神から十字軍に参加したが、教皇は東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪[6]、さらに交易が盛んな文化国家ビザンツ帝国への影響力行使を望んだ。
狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、1096年、聖戦の名の下に東方へ進軍した。利害対立によって抗争をくり返していたイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍もまた主導権争いに明け暮れ、ローマ法王やビザンツ帝国との対立も深まり、混迷の様相を呈した。利権をめぐって『敵の敵は味方』とばかり、十字軍勢力とイスラム勢力が同盟する事態さえ発生した。
また十字軍によるイスラム教徒・ユダヤ教徒など異教徒への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気は低下し、堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達は重くヨーロッパ各国民衆にのしかかり、熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。
サラディーンによる反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であったアッコンを失い、聖地から地中海に追い落とされてしまう。

国際交流の発展

マルコ・ポーロの旅路
軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した[7]。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が、イスラムから香辛料や絹等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴い、ビザンツ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネッサンス運動が開始されて近代への扉が開けられた。
モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。
そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245年、グユクハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。
中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験をルスティケロ・ダ・ピサへ口述し、ピサが『東方見聞録』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、インド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の世界への好奇心を掻き立てた。

海外侵略

ニーニャ号、ピンタ号及びサンタ・マリア号の復元船
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来の経済秩序[8]が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
またローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。16世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。

アフリカ・アジア大陸侵略
              
バルトロメウ・ディアスの喜望峰への航路      ヴァスコ・ダ・ガマのインドへの航路 (黒) 、Pêro da Covilhãの航路 (橙) 、Afonso de Paivaの航路 (青) 及び後者2人の共通航路 (緑)
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの侵略を確固とし1415年、ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。
1488年、バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。
1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。その後ガマは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも侵略、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易していたし、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように14世紀から15世紀までに旧世界における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。

アメリカ大陸侵略

クリストファー・コロンブスの4度に渡る中央アメリカへの航路
同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは1486年、フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)と、その妻イサベルがコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、1500年、カブラルがブラジル[9]に到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。

世界周航

マゼラン及びエルカーノ率いる艦隊の世界一周航路
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、フィリピン諸島を探検したビリャロボスが、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来する。

ポルトガル・スペイン間の条約締結
                
 トルデシリャス条約 及びサラゴサ条約 の境界線
 ポルトガル海上帝国の貿易ルート 及び競合するマニラ・ガレオンの貿易ルート

ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。

ヨーロッパ北部諸国による探検

 ヨハネス・ケプラーによる、ルドルフ表に基づいて描かれた1627年当時の世界地図。
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく航海や探検の後押しをする用意が整ったイギリスやフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。
後発海運国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を雇ったイギリスによる北米探検(1497年)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは1534年にカナダへの最初の航海を行った。
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る最短の大圏航路(北西航路)を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る北東航路の探検も行い、ロシア・ツァーリ国との北海交易を始めたり、捕鯨の拠点となる北極海の島を多く発見したりしたが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフが1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア最東端となる岬(後にデジニョフ岬と命名された)を発見した。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを、新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。
新興諸国は、残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)もスペインより先に探検した。1606年にはウィレム・ヤンツ(Willem Jansz)が、1642年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探検家がオーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。
by kanakin_kimi | 2013-07-26 20:49 | 歴史観 | Comments(0)

告発 歴史の見直し

歴史観を歪めているもの

1、西欧の中国支配の掠奪史が今日にまでどのように引きずっているかを読み解く
秦・漢・三国時代
紀元前260年 - 長平の戦い
紀元前246年 - 始皇帝、即位。
紀元前209年 - 陳勝・呉広の乱
紀元前202年 - 劉邦、垓下の戦いにおいて項籍を破り、漢(前漢)を建国。
紀元前154年 - 呉楚七国の乱
紀元前141年 - 武帝、即位。
紀元前80年 - 霍光が専制開始を開始する。
8年 - 王莽、新を建国。
18年 - 赤眉の乱起こる(27年まで)
23年 - 昆陽の戦い。王莽が敗死し新が滅亡する。劉玄(更始帝)が即位。
25年 - 劉秀(光武帝)が即位。(後漢の成立)
36年 - 光武帝、天下を統一
78年 - 『白虎通義』が編纂される。(白虎観会議)
91年 - 班超、西域都護に任じられる。
105年 - 蔡倫、紙を和帝に献上。
141年 - 梁冀、大将軍に就任。
166年 - 第一次党錮の禁
169年 - 第二次党錮の禁
184年 - 黄巾の乱。張角、乱を起こすが鎮圧される。
189年 - 十常侍、董卓、相次いで乱を起こす。
200年 - 官渡の戦い。曹操が袁紹を破る。
208年 - 赤壁の戦い。劉備・孫権が曹操を破る。
220年 - 曹操死去。曹丕、献帝から禅譲され魏を建てる。首都洛陽。
221年 - 劉備、漢の皇帝を名乗り蜀(蜀漢)を建てる。夷陵の戦い
222年 - 孫権、呉を建てる。
263年 - 蜀、魏により滅亡。
晋・十六国・南北朝時代
265年 - 司馬炎、曹奐から禅譲され晋(西晋)を建てる。
280年 - 呉、晋により滅亡。
304年 - 匈奴の劉淵、漢(のちの趙(前趙))を建てる。
311年 - 永嘉の乱
316年 - 西晋滅亡。
317年 - 司馬睿、江南に逃れ晋(東晋)を再興。
319年 - 石勒、趙王を名乗り趙(後趙)を建てる。
329年 - 前趙、後趙により滅亡。
337年 - 鮮卑の慕容皝、燕(前燕)を建てる。
350年 - 冉閔、魏(冉魏)を建てる。
351年 - 後趙、冉魏により滅亡。氐の苻健、秦(前秦)を建てる。
352年 - 冉魏、前燕により滅亡。
370年 - 前燕、前秦により滅亡。
382年 - 淝水の戦い
394年 - 前秦、西秦により滅亡。
420年 - 劉裕、恭帝から禅譲を受け宋(劉宋)を建てる。
479年 - 蕭道成、順帝から禅譲を受け斉(南斉)を建てる。
502年 - 蕭衍、和帝から禅譲を受け梁(南梁)を建てる。
557年 - 陳霸先、敬帝から禅譲を受け陳(南陳)を建てる。
隋・唐・五代十国時代
581年 - 楊堅、静帝から禅譲され隋を建てる。首都大興城(西安)。
589年 - 南陳、隋により滅亡。
618年 - 李淵、恭帝侑から禅譲され唐を建てる。首都長安。
626年 - 玄武門の変
663年 - 白村江の戦い
751年 - タラス河畔の戦い
756年 - 安史の乱
907年 - 朱全忠、哀帝から禅譲され梁(後梁)を建てる。
宋・遼・夏・金
916年 - 契丹の耶律阿保機、大契丹国を建てる。
923年 - 李存勗、唐(後唐)を建てる。首都洛陽。
936年 - 石敬瑭、晋(後晋)を建てる。首都大梁(開封)。
946年 - 後晋、大契丹国により滅亡。耶律堯骨、開封にて国号を大遼に改める。
劉知遠、開封に漢(後漢)を建てる。
951年 - 楚、南唐により滅亡。郭威、周(後周)を建てる。
960年 - 趙匡胤、後周から禅譲され宋(北宋)を建てる。(陳橋の変)首都開封。
963年 - 荊南、宋により滅亡。
965年 - 後蜀、宋により滅亡。
970年 - 南漢、宋により滅亡。
974年 - 南唐、宋により滅亡。
1004年 - 澶淵の盟
1038年 - 李元昊、興慶(銀川)に夏(西夏)を建てる。
1115年 - 完顔阿骨打、金を建てる。
1125年 - 遼、金により滅亡。
1126年 - 靖康の変で宋滅亡。
1127年 - 趙構、臨安(杭州)に逃れ宋(南宋)を再興。
1132年 - 耶律大石、トルキスタンに逃れ西遼(カラ・キタイ)を建てる。首都ベラサグン。
1141年 - 紹興の和議
1205年 - チンギス・ハーンのモンゴル帝国、西夏に侵攻開始。
1211年 - モンゴル帝国、金に侵攻開始。
1214年 - 金、モンゴル帝国の圧迫により中都(北京)から開封に遷都。
1227年 - 西夏滅亡。
1232年 - 三峰山の戦い
1234年 - 金滅亡。
1253年 - 雲南の大理国、モンゴル帝国に降伏。
1257年 - ベトナムの陳朝、モンゴル帝国に降伏。
1259年 - 高麗、モンゴル帝国に降伏。


1271年 - モンゴル帝国のクビライ、国号を大元に改める。首都大都。
1274年 - 元、日本に遠征し失敗。(文永の役)
1276年 - 元のバヤンにより南宋滅亡。
1277年 - 元、ンガサウンジャンの戦いでパガン王朝を破る。
1279年 - 崖山の戦い
1281年 - 元、再び日本に遠征し失敗。(弘安の役)
1282年 - チャンパ王国、元に降伏。
1284年 - 元、再びチャンパ王国に遠征。その後、チャンパ、陳朝連合軍の抵抗により敗退。
1292年 - 元、シンガサリ王国に遠征。しかしシンガサリ王国はジャヤカトワンにより既に滅亡しており、元軍はジャヤカトワンを捕らえ撤退。
1351年 - 紅巾の乱
1363年 - 鄱陽湖の戦い
1368年(至正28年)、元朝は江南で反乱勢力を統一し明朝を建てた朱元璋の北伐軍に敗退した。


1368年 - 朱元璋が南京で大明を建てる。トゴン・テムルはモンゴル高原へ逃れ、元は北元として存続。
1405年 - 第一次鄭和の西征。
1407年 - 『永楽大典』完成。
1421年 - 明、北京に遷都。
1449年 - 土木の変
1506年 - 王陽明、貴州へ追放。
1556年 - 華県地震
1592年 - 文禄の役
1598年 - 慶長の役
後金・清
1616年 - 女真族のヌルハチ、金(後金)を建てる。首都はヘトゥアラ。
1619年 - サルフの戦い
1636年 - ホンタイジ、大清皇帝となる。
1644年 - 李自成、北京を占領し明滅亡。
1645年 - 明の呉三桂、清へ下る。
1659年 - 朱舜水、日本へ亡命。
1661年 - 鄭成功、台湾のオランダ人を駆逐し東寧王国を建てる。
1673年 - 三藩の乱
1683年 - 東寧王国、清により滅亡。清、台湾を領有。
1716年 - 『康熙字典』完成。
1725年 - 『古今図書集成』完成。
1735年 - 『明史』完成。
1782年 - 『四庫全書』完成。
1787年 - 台湾で林爽文の反乱。
1796年 - 白蓮教徒の乱
1839年 - 林則徐、アヘンの密輸を取り締まり。
1840年 - アヘン戦争。イギリス、香港島を割譲。
1851年 - 太平天国の乱
1856年 - アロー戦争。イギリス、九龍を割譲。ロシアは外満州を割譲。
1874年 - 日本、台湾に出兵。
1877年 - 左宗棠、新疆の領土を回復。
1879年 - 日本、沖縄県を設置。琉球王国は滅亡。
1884年 - 清仏戦争勃発。フランス、ベトナム全土を植民地化。
1889年 - 張之洞、湖広総督となり洋務運動を進める。
1894年 - 日清戦争。清、朝鮮の独立を承認。台湾と澎湖諸島が日本に割譲される。
1898年 - 戊戌の変法
1899年 - アメリカのジョン・ヘイ国務長官、門戸開放を各国に通達。
1900年 - 義和団事変
1904年 - 日露戦争
1908年 - 宣統帝即位。
1911年10月10日 - 武昌起義
辛亥革命勃発、清は瓦解へ。
中華民国
1912年1月1日 - 中華民国成立し孫文が臨時大総統に就任。臨時首都は南京。
1912年 - 宣統帝が退位し袁世凱が第二代臨時大総統に就任。北京政府成立し、清朝滅亡。
1914年 - 第一次世界大戦勃発。
1915年1月18日 - 日本、袁世凱政権に21ヶ条の要求。
9月15日 - 陳独秀、『新青年』を刊行。
1916年6月6日 - 袁世凱死去、黎元洪が総統に。
1917年 - 府院の争い
1919年5月4日 - 五四運動
10月10日 - 孫文、中国国民党を結成。
1921年 - 外モンゴルが独立、モンゴル人民共和国へ。
7月23日 - 陳独秀、毛沢東らにより中国共産党結成。
1924年 - 第一次国共合作
1925年3月12日 - 孫文、死去。
1926年 - 蒋介石率いる国民政府、北伐を開始。
1927年 - 日本、山東出兵開始。
3月24日 - 南京事件
4月12日 - 上海クーデターにより国共合作解消。
4月18日 - 南京国民政府成立。
5月3日 - 済南事件
1928年6月4日 - 張作霖爆殺事件
6月9日 - 国民政府軍、北京に入城し北伐完了を宣言。
12月29日 - 張学良が南京国民政府に帰順。(易幟)
1931年9月18日 - 満州事変勃発。
11月7日 - 中国共産党、瑞金に中華ソビエト共和国の成立を宣言。
1932年1月28日 - 第一次上海事変。
2月18日 - 満州国成立。
1933年 - 福建事変で中華共和国が成立。
1934年 - 中国共産党、瑞金を放棄。長征開始。
1935年1月15日 - 遵義会議
1936年10月19日 - 魯迅死去。
12月12日 - 西安事件
1937年7月7日 - 盧溝橋事件発生、日中戦争へ。
7月29日 - 通州事件
8月13日 - 第二次上海事変
9月 - 第二次国共合作
11月 - 国民政府、重慶に遷都。
12月13日 - 日本軍、南京を攻略。
1940年 - 汪兆銘政権成立。
1941年 - 日本軍、真珠湾を攻撃。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。
1943年12月1日 - 中、米、英3か国首脳によるカイロ宣言。
1944年4月17日 - 日本軍、大陸打通作戦開始。
1945年8月14日 - 日本がポツダム宣言を受諾,全日本軍の無条件降伏。
10月10日 - 国民党と共産党が双十協定を締結。
1946年6月 - 国共内戦が再勃発。
1947年2月28日 - 台湾で二・二八事件が発生。
1949年 - 人民解放軍が成都を包囲、蔣介石は台湾へ逃れる。
中華人民共和国
大躍進~中ソ対立
1949年10月1日 - 毛沢東、北京で中華人民共和国成立を宣言。国家主席に就任。
1950年10月 - 朝鮮戦争に参戦。
1951年 - 人民解放軍、チベットに進駐。三反五反運動開始。
7月27日 - 国連軍との間に休戦協定が結ばれ、朝鮮戦争終結。
1956年 - チベット動乱発生。
1957年6月8日 - 反右派闘争開始。
1958年 - 大躍進政策開始。人民解放軍、中華民国支配下の金門島を砲撃。(金門砲戦)
1959年3月10日 - チベット人と人民解放軍が衝突、ダライ・ラマ14世はインドへと亡命。
(1959年のチベット蜂起)
7月 - 廬山会議が開かれ、彭徳懐らが失脚。
1960年 - 大躍進政策終結、劉少奇が第二任国家主席に就任。
1961年 - 中ソ関係が決裂。(中ソ対立)
1962年 - 中印国境紛争勃発。
1964年10月16日 - ロプノールで初の原爆実験。
文化大革命
1966年 - 文化大革命開始。劉少奇、鄧小平らが失脚。
1969年 - 珍宝島(ダマンスキー島)で中ソ国境紛争が勃発。
10月25日 - 国際連合総会でアルバニア決議が採択され、中華民国に代わり中華人民共和国が国連常任理事国となる。)
9月13日 - 林彪、クーデターに失敗し逃亡中に墜落死。(林彪事件)
1972年2月21日 - アメリカのニクソン大統領が中国を訪問。
9月29日 - 日中国交正常化
1976年1月8日 - 国務院総理の周恩来が死去。
4月5日 - 四五天安門事件発生。鄧小平が再び失脚。
7月28日 - 唐山地震。
1976年9月9日 - 毛沢東死去。華国鋒が国家指導者に。
10月6日 - 四人組を逮捕。文化大革命終結。
改革開放 鄧小平の時代
1978年12月 - 中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で改革開放路線を決定、鄧小平が最高実力者に。
1979年1月 - アメリカと国交正常化。アメリカでは台湾関係法が成立。
ベトナムがカンボジアに侵攻したことに対し、人民解放軍がベトナムに侵攻。(中越戦争)
1989年3月 - チベット人と武装警察隊、人民解放軍が衝突。
6月4日 - 六四天安門事件発生。趙紫陽が失脚。
6月24日 - 江沢民が中央総書記に選ばれる。
1990年9月22日 - 北京でアジア競技大会が開催される。
1992年 - 鄧小平が南巡講話を発表する。
江沢民の時代
1993年3月27日 - 江沢民が国家主席、中央軍事委員会主席に選ばれる。
1994年12月14日 - 三峡ダムに着工。
1996年 - 台湾の総統選挙に際し、人民解放軍が軍事演習を行い台湾沖にミサイルを発射。アメリカは空母機動艦隊を派遣。
1997年2月19日 - 鄧小平死去。
7月1日 - 香港の主権がイギリスから返還される。(香港返還)
1998年3月 - 朱鎔基、国務院総理に選ばれる。
1999年5月8日 - 在セルビア・モンテネグロ大使館がアメリカ軍から爆撃されたことに対し、中国で反米デモが発生。
12月20日 - ポルトガルからマカオが返還される。
2001年6月15日 - 上海協力機構が成立。
2002年11月15日 - 胡錦濤が中央総書記に選ばれる。
2003年3月15日 - 胡錦濤が国家主席に、温家宝が国務院総理に選ばれる。
広東、香港、北京などでSARSが発生。
胡錦濤の時代
2004年9月19日 - 胡錦濤が中央軍事委員会主席に選ばれる。
2005年3月14日 - 反分裂国家法成立。
4月 - 日本の国連安保理常任理事国入りに反対するなどして、中国各地で反日デモが発生。
2006年7月14日 - 台風の影響により中国南部で水害が起き、広東省だけで被災者741万人、死者106人、行方不明77人。死者3,000人以上とも。
夏、四川、重慶などで気温が何度も摂氏40度を超えるなど記録的な旱魃。三峡ダム工事の影響が指摘された。
2008年1月10日 - 中国南部、西部で大雪が発生。129人が死亡、166万人が避難。
3月10日 - ラサでチベット族による暴動が発生し、その他のチベット族居住地域にも拡大。
5月12日 - 四川大地震が発生、死者・行方不明は8万人超。
8月8日 - 北京オリンピック開催。
9月25日 - 神舟七号が打ち上げ、中国初の宇宙遊泳。
中国の大航海
鄭和艦隊の進路
1405年7月11日、永楽帝の命により第1次航海へと出る。『明史』によればその航海は下西洋(西洋下り)と呼ばれ[1]、その船は長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)という巨艦であり、船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りに登った[2]。
蘇州から出発した船団はザイトン(現在の泉州)→クイニョン(チャンパ王国、現在のベトナム南部)→スマトラ→パレンバン→マラッカ→セイロンという航路をたどり、1407年初めにカリカットへと到達した。
マラッカ海峡では海賊を行っていた陳祖義という華人を捕らえて一旦本国へ帰国している。この航海によりそれまで明と交流が無かった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。
1407年9月に帰国後、すぐに再出発の命令が出され年末には第2次航海へと出発した。航路はほぼ同じだが、今度はタイ・マジャパヒト王国(ジャワの現スラバヤ)などを経由してカリカットへ至った。帰路の途中でセイロン島に漢文・タミル語・ペルシア語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている。
1409年の夏に帰って来た鄭和は再び再出発を命じられて年末に出発した。今度もほぼ同じ航路でカリカットに到達したが、帰路のセイロンで現地の王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので鄭和は反撃して王とその家族を虜にして本国へと連れ帰り、1411年7月に帰国した。
これまでの3回はいずれもほぼ同じ航路を取り、しかも立て続けの航海だったが、4回目は少し間を置いて1413年の冬に出発した。これまでとは違い更に西へと行くので、準備が必要だったと推測される。
カリカットへ至るまではこれまでとほぼ同じ航路を取り、そこから更に西へ航海してペルシャ湾のホルムズ王国(ティムール朝)やアラビア半島南のアデン(ラスール朝)などに到達した。帰路の途中、スマトラで現地の王の要請で兵を使って反逆者を討ち、1415年7月に帰国した。

 鄭和はインドから更に西進し、スリランカからアフリカまで到達した。
5回目は1417年の冬に出発し、本隊は前回と同じくアデンまで到達したが、途中で分かれた分隊はアフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達したという。1419年8月に帰国、ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れ帰っている。特に永楽帝を喜ばせたのはキリンであり、これは王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「麒麟」として紹介されたからである。現地のソマリ語で「首の長い草食動物」を意味する「ゲリ」が、伝説上の動物「麒麟」の音に似ていたことから、これが本物の麒麟だとして珍重された。現在の日本語でキリンをこの名で呼ぶのは、この故事によるものである。ちなみに現在の中国語ではキリンは「長頸鹿」という。
6回目は間があいて1421年2月になる。それまでとは異なり、朝貢にやってきていた各国の使節を送るためのものである。今度もほぼ同じ航路を取って、帰国は1422年8月だった。
7回目は永楽帝の死後に彼の孫の宣徳帝の命令による。出発は1431年12月で、既に鄭和はかなり年を取っていたが、彼に代わる人材はいなかった。この時に別働隊はメッカに至ったという。帰国は1433年7月。帰国後にほどなくして死去した。
大航海の理由
なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。その代表的なものは以下の通り:
靖難の変の際に南京から脱出した建文帝が南海に逃げたかもしれないのでそれを捜索するためとする説。
西のティムール朝の伸長を恐れた永楽帝がティムールの後ろの勢力と結んで挟撃するためという説。
朱元璋が明建設の際に滅ぼした陳友諒の配下だった水軍勢力が反抗することを恐れて、これをまとめて南海に派遣したという説。
1の説はあり得ない話ではないが、主目的だったかには疑問がある。2の説についても、ティムールは第一次航海の年に死んでおり、ティムール個人の権威に基づいたティムール王朝は、彼の没後、急速な分裂に向かったので、何度も航海を実施した理由としては適当でない。3の説は朱元璋が陳友諒を破ってから長い時が流れすぎており、これも考えにくい。
他に考えられる理由としては簒奪という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために他国の朝貢を多く受け入れる儒教的な聖王を演出する事によって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。
政治的な理由よりも、中国艦隊が南シナ海やインド洋における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促するのが主目的だったとする説もある。費信などの記録を見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。
しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物を上回る下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益に繋がる訳では無い。朝貢とは、皇帝が己の徳を示すため、朝貢してきた国が持ってきた貢物の数倍から数十倍にあたる宝物を下賜する必要がある。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態は、明にとってはむしろ不利益となる。
鄭和死後の明は再び鎖国的になり、航海は行われなくなった。成化帝の時代に「再び大航海を」という声が上がったが、航海にかかる莫大な費用と儒教的モラルから官僚の反対にあい沙汰止みとなった。
この大航海の記録は第4次航海と第7次航海に同行した馬歓の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』や費信『星槎勝覧』・鞏珍『西洋番国志』などによって現在に残され、この時代の東南アジアの非常に貴重な資料となっている。これらは民選の物で、鄭和の航海の公式記録は「鄭和出使水程」という記録に編纂され、宮中の資料庫に保管された。これは船団の編成、名簿、航海日誌、会計などの記録を網羅した膨大なものだったといわれる。しかし数十年後に成化帝が調査させたところそっくり紛失しており、理由は現在も謎となっている。一説には航海の巨額の費用が民を苦しめ国家を衰退させることを憂慮した劉大夏という役人が、同様の大航海の準備資料とされないようひそかに持ち出して焼却したともいう。
上述の通り、大航海自体の経費に限らず、朝貢貿易において明は多額の出費を必要とする。永楽帝以後の明は財政緊縮の観点から朝貢貿易に制限・制約を加え、結果として朝貢国は激減している。
この大航海はヨーロッパの大航海時代に70年ほど先んじての大航海であり、非常に高く評価される。彼は後世に三保太監・三宝太監と呼ばれ、司馬遷・蔡倫と並んで宦官の英雄として語られる事になる。また鄭和が寄港した各地の港でも鄭和の評判は非常に高く、ジャワ・スマトラ・タイには三宝廟が建立されて祀られている。
鄭和艦隊は当初からマラッカ海峡に建国されたばかりのマラッカ王国をインド洋渡航のための根拠地として重視し、マラッカ国王を招撫した。このため、マラッカ王国は鄭和艦隊の保護下で成長し、中国艦隊の来航が途絶えた後も東西貿易の中継港として繁栄を極めた。
by kanakin_kimi | 2013-07-26 17:04 | 歴史観 | Comments(1)

キングダム・イギリスの聖書考古学はなんのために

何を守るのかギリシャを破壊し、エジプトを掠奪し、シュメールを掠奪し、トルコの遺跡を掠奪しようとしている
考古学が新事実を発掘する遡及速度は万年から億年へと滑り込み始めた。それは、地球階層構造考古学が宇宙階層構造考古学と連結し始めたからである。このような認識はまだ一握りのものかもしれないけれど、様々なところで戸惑いを見せているのがそれである。たとえば、現在の天文学は太陽系の惑星や太陽そのものでさえも「地球との距離・自転速度・公転速度・その軌道・光エネルギーと質量・潮汐と暦など」からすこしも出ているように思えない。だから、UFO や宇宙探査のデーターによって出現している従来の天文学をこえている事実を受け入れる事が出来ず右往左往しているようにみられる。
それは、いずれもの国の歴史事実の叙述における基本的考え方の間違いに由来しているのであろう。「人と物の交流」は「水運と陸運」の両方の事実によるものであるから、その「運送事実とその技術」が歴史事実の中心になっているはずなのである。したがって、東洋の大航海記と西洋の大航海記は正確に把握されなければならないのである。ところが、イギリス帝国がエジプト史を掠奪し、ギリシャ神話を作り、大英帝国の依り代としてから、四大文明といわれたものもその依り代の中に包含させる「掠奪史」を構築させたのである。その出発は、「東洋の大航海記の抹殺」に端を発している。






















by kanakin_kimi | 2013-07-25 13:06 | シンドローム | Comments(0)

「月爆撃」に対する責任

知らないではすまされない「月爆撃」 地球に住まう人類の責任は、地球を爆撃されたらどう感じるか、何故「月爆撃」ができるのか

わたしが、月にエイリアンが基地を作っている事を知り、それを認識する事になったのは、せいぜい二三年の事である。2013年の今明確にブログに書くという行動をする認識になったぐらいである。もちろん、早くから知っている人もおられ,みんなに知らせる努力をされていた人々もおられる。しかし、直接知る事が出来る関係者以外はよっぽど追跡調査をしている人でなければ知る事は出来ないだろう。
だから、他のおおくのひと人も、大同小異であろうと思われる。それというのも、NASA などの情報が公式であれ非公式であれ公開されなければ知る事が出来ない情報ばかりだからなのである。
わたしが UFO についてこのブログで書き始めたのが昨年2012年10月であるようだから、注目はしていても真正面から向いた姿勢になったのはその時なのだろう。そのわたしが、先月から「月爆撃」をNASAがやったようだという情報を知った。

http://www.youtube.com/watch?v=VTCcr_TS14w&feature=share&list=TLw05eyBM-yps

http://www.youtube.com/watch?v=qsS9QRG_Q2c&feature=share&list=TLw05eyBM-yps


















by kanakin_kimi | 2013-07-24 17:00 | 洗い出せ・そして公開せよ | Comments(0)

闇NASAの月爆撃

何故月を爆破しようとしたのか、英イルミナティの自己防衛
英国の「掠奪史観」の「威信と自己防衛」が「暴露される遺跡」は地球でも「破壊されてきた」その延長線上に「月爆破」が起きてしまったのだろう。最早英国王室とロスチャイルド・イルミナティの信用失墜は決定的だロウ。





宇宙人の種類は57種類以上が知られている
宇宙の歴史を正しくすれば、「億年の距離も縮められ、克服できる」知恵は生まれる。
















by kanakin_kimi | 2013-07-23 22:41 | 洗い出せ・そして公開せよ | Comments(0)