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500年余の歴史的総括をはじめる

中国の世界征服の始まりを元帝国=モンゴル帝国と鄭和の大航海がもたらした。それが、西欧の大航海時代を準備した「イエズス会」とモンゴル帝国を演出した者達をみる。という視点で次のような研究を見つけたので紹介する。
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歴史研究所世界史・日本史レポート 担当:村岡司浩・裏辺金好・馬藤炊爺・松戸合他・・
第1回 フランシスコ=ザビエル
1.はじめに
 我々徳山高校地理歴史部は、今回の文化祭にあたりサビエルについて調査することにしました。というのも我々は、彼について知っているようで、本当はよく知っていないのではと思ったからです。  
 「1549励めよ、キリスト教」我々はこのことば以外に彼のことを何か知っているでしょうか。サビエルが本当に我々に伝えようとしたのはキリスト教だけだったのでしょうか。彼から学べる歴史は、あの語呂合わせだけなのでしょうか。
 ちょうど今年はサビエル来日450周年(当時)です。この機会にみなさん、彼についてもう一度学んでみてはと思います。     (徳山高等学校地理歴史部)
2.メディナ神父のお話
 我々はサビエルのことを調査するにあたり、一人の人物に巡り会った。その方はフランシスコ・サビエルの姉の直系の子孫にあたる方で、現在徳山キリスト教会におられ、サビエルのことについて、講師をされているメディナ神父という方であった。我々は僭越ながら、やはり、サビエルと繋がる彼から話を聞かなければならないと思い、メディナ神父のいる教会を訪れた。以下は、メディナ神父の話である。
<サビエルの略年表裏話>
 まずはじめに、我々がサビエルのことについて具体的に話す前に、現在知られている年表には載っていない、また、過ちのあることを話していきたいと思います。
 サビエルは、1506年バスク地方のサビエル城に生まれたわけですが、彼の父は、ナバラ王国の総理大臣でした。彼が生まれた頃には、すでに彼の父親は60歳を越えています。
 1521年に兄達がスペインに対して反乱を起こし、それが失敗し兄達はスペインに捕まったわけですが、その時彼らは自分の城のシンボルである塔を自ら壊すという態度を見せ、スペイン忠誠を誓い、財産を戻されています。これは、略年表中では、サビエル城は破壊されたとなっていますが、実のところは城の一部分を自分達が壊したのです。また、スペインが塔を自ら壊すという態度だけで彼らを許したのは、やはり当時のスペイン自体結成されてまだ間もなく、大して組織力がなかったというのもありますが、彼らバスク地方の人達の絶対なる忠誠を知っていたからということもあったでしょうね。その証拠というわけではありませんが、今でもバスクの大多数の人達は政府に対してとても従順です。
 1525年、パリの大学への進学の時のエピソードですが、彼は哲学、といっても当時の哲学は今の哲学とは違い天文学や数学、科学などを学び、つまり全般的な知識を元に物事の考え方を学ぶという所で、当時の大学では、一番難関だったようです。その後彼は、神学のマスターとなるわけですが、ここで一つ、面白い話をしましょう。それは、入学試験のことです。当時、そこの大学では入学試験は二つあり、一つ目の試験の筆記では、2000人中、21番という結果だったのですが、二つ目の教官を接待するという試験の後では、総合なんと1位だったのです。これはおそらく、彼の家にある多大な財産のおかげだったのでしょう。
 その後サビエルは仲間とともにイエズス会を結成し、そこのポルトガル人の状況を改善するためにインドのゴアへ行きました。だから、ゴアへ行ったのは、インド人に対しての大体的な布教活動のためではなく、本来キリスト教徒であるポルトガル人のために行ったのでした。それに、インドでは、イスラム教に属する海の人々やユダヤ教を信じる人々が多くいたのでポルトガル人しか布教できなかったというのもあります。 その後マラッカで日本人のヤジロウに会い、一年間ゴアに帰って教育した後、日本へ上陸しました。 山口でセミナリオ(宗教・教養の学校、後にトルレスに委ねる)を作ったり、教養を広めたりしました。だから山口には教会には当時、教会はなかったということになります。このセミナリオは、後にトルレスに委ねられることになります。その後、こいう行動をとった後に、自分が受け取ることになっていた手紙を受け取るために、府内へ行きました。大友宋麟に会うためということもありましたが、本当のねらいは手紙の方にあったのです。しかしそこには手紙はなく、心配になった彼はゴアまでその手紙を取りに行くようになったのです。 その後中国へ行く途中、病気のため死去しました。
<サビエルでの日本での布教態度>
 サビエルは日本で布教するにあたり「対話」を重視しました。これはイエズス会全体の方針でもありました。筋を通すことを重視し、知識のある人が尊敬された日本においてサビエルは何よりも対話を必要とし、実行したのです。例えば、日本の坊さんと信仰や神について語り合ったり、多くの大学(お寺のこと?)に行き、そこで日本人に問いかけ、思想を求めたりしました。またサビエルは、日本人をよく誉め、寛容を持って日本人に接しました。
 例えば、サビエルは日本人の「好奇心が強い」「素直で嘘を付かない」「悪人(泥棒)が少ない」「富より名誉のために働く」といった面を強化し、またそのことをポルトガルへの手紙の中にも書いています。日本を離れるときには、日本をポルトガルの植民地にしないように、ポルトガル王に頼んだり嘘の手紙を書いています。それだけ日本や日本人をよい国・民族だと思っていたのです。
 そして、自分達の思想と日本の思想が合わない時には、頭ごなしに否定するのではなく、ある程度認めていく形で対応しました。これは、平和的に布教するためでもありましたし、日本人の特徴をよりよく知り、落ち着いて付き合うことが大切だと考えていたからでもありました。日本の中でも地方によって多少の文化の違いがありましたが、それにも寛容を持って接しました。このような布教態度や、元々日本にはキリスト教を初めから嫌う者がいなかった、国内の言語がほぼ1つの民族であった、などという理由から、日本人への布教は(インドなどよりは)楽であったと思われます。
<サビエルが中国を目指したわけ>
 サビエルが日本での約2年半の滞在の後、中国で布教しようと中国に渡った理由としては、3つ考えられます。 1つ目は、日本と中国の関係のためです。つまり、日本の文化はその多くが中国からきたものだし、空海や最澄のように中国で勉強してから日本にその教えを伝えた僧侶もたくさんいたということです。このように中国から日本へという流れがあったため、サビエルも中国が改宗すれば日本人も皆改宗するだろうという見込みを持っていたのです。 2つ目は、日本でのサビエルも布教態度に見られるように、大学や知識者を巡って対話がしたかったということです。中国の方が日本より何倍も大きいし、文化も発達しているので、一層そういう思いが強かったと見られます。 3つ目はパリ大学の学生をもっと多くアジアに連れてこさせるためです。そのためには、中国からシルクロードを通って知識を得ながらヨーロッパへ帰り、大学でそういう魅力的な話をすることが必要だったのです。
<イエズス会について>
 サビエルが学生時代に参加したイエズス会の結成の裏には、当時のヨーロッパの強い歴史的背景があります。その一つとして、レコンキスタ(国土再征服運動)があるでしょうね。
 レコンキスタというのは、十字軍による聖地奪回策が失敗に終わった後、イスラム教の支配により失われたスペインの領地を再び自分たちキリスト教徒の手に取り返すという動きです。実はこの動きに乗じて、国王フェルナンドはローマ教皇、フランス、イギリスと協力して武力で再び聖地の奪回を計画しました。しかし、この計画はフランスの裏切りによりついに実行には至りませんでした。(フランスはスペインがこれにより力を付け、ヨーロッパの中心になることをおそれたのでした。)
 これらつまり、武力を使ったことに対し反省をし、「武力でなく対話で解決を」を基本方針としたイエズス会がイグナチウス・ロヨラを代表に、パリの学生達によって結成されました。当初イエズス会は「聖地巡礼」を基本活動の一つに掲げていたが、オスマン=トルコとヨーロッパ側の商人とが対立して交易が無理であったため、この活動は中止せざるをえなかった。そこで彼らは、まだキリスト教を知らない地域に彼らの神のことを伝えるという海外布教にその重点を置いたのでした。
 イエズス会は、プロテスタントへの対抗の手段としてカトリックの信者が作ったと思われがちですが、それは結果的にそうなってしまっただけであって、前にも行ったようにパリの熱心な学生が聖地巡礼のために結成したのであります。 イエズス会には様々な国の人がおり、そのため、キリスト教に対する考え方もさまざまなものでした。イエズス会にとって海外布教は、このような違いによる内部の対立を防ぐ意味もありました。また、各国政府との関係は作らず、ローマ教皇にのみ従うという姿勢をとりました。 ちなみに、アメリカにイエズス会の宣教師が行ったのは日本よりあとのことです。 また、同時期にフランシスコ会というのも結成されています。
<イエズス会とフランシスコ会の違い>
イエズス会 フランシスコ会
学生参加者商人
神のことを伝える海外布教の目的ボランティア
自立を重視し、厳しい布教姿勢保護と優しさ
学問、教育を与える何を人々に与えるか物品を与える
 フランシスコ会はスペイン系カトリック教会の修道会の一つで、1209年イタリア・アッシージのフランチェスコが創立しました。活動した修道士の多くが金持ちの商人の人たちで、布教と言うよりは貧しい人々を助けるボランティア感覚で、民衆に優しく接し、ものを与えて洗礼を行うというやり方でした。そのため、実際の教義はあまり民衆には伝わりませんでした。ここが、教義を教養とともに厳しくしっかりと人々に伝えるイエズス会と根本的に異なるところでした。また、フランシスコ会は貿易という物質的欲望を先行させる布教態度でした。彼らの布教態度は民衆の集団教化を引き起こしましたが、当時の日本の指導者達には教義が伝わらず、煽動される民衆に対し危機感を持たせることになりました。そしてそのことが日本においてのキリスト教の禁教の原因となったのです。
<当時、他の国でのキリスト教の布教状態はどうだったのか>
 日本よりも急速にキリスト教が広まった国として、メキシコがあります。この国では、アステカ帝国に奴隷制と生け贄制のことで現地の人々は反発していました。そこで彼らは、スペイン人の進入をわざと助けるという行動に出ました。自分たちの恨むアステカ帝国よりもスペインの植民地となり彼らの支配を受ける方がましだと思ったのです。そして、その後アステカ人は進んでキリスト教に改宗しました。 以上が、メディナ神父にお聞きした話の内容をまとめたものである。

3.サビエル記念聖堂ヴィタリー神父の話
 先のメディナ神父の話を聞いてからの後、我々は山口県においてサビエルの重要地である山口市を訪れた。これは、この地を訪れなければサビエル研究については不足であると判断したからだ。そこで我々はサビエル記念聖堂を訪れ、ヴィタリー神父にサビエルに関する質問に答えていただいた。
 以下は、その話をまとめたものである。
<日本の歴史について思うこと>
 日本の歴史は、権力者の側面から見たものだけで作られているものが多いようです。それにともないほかの歴史、例えば迫害された人々の歴史や支配を受けてきた人々の歴史が、その陰に隠れてあまりもてはやされていないようだ。これはなにも日本だけに限らず、私の祖国イタリアでも同様なのだが、日本の歴史では特にその傾向が強いと感じている。
 また、山口県のサビエルについての取り組みに感じたことは山口県はどうもサビエルのことを狭い視野、つまり言い換えれば彼のことを大内文化の一端としてしか見ていないようだ。そんなことだから、サビエルのことを大内文化の中のこととして、どうもその歴史を曖昧にしている節があるように思える。私はサビエルの歴史を見れば当時の時代の流れ、つまり大航海時代すべてを見ることができる重要な世界史の一つと考えている。
<サビエルが日本に対して行った布教活動の真意について>
Q1 日本文化の向上のためだったのでは?
A 日本の文化の向上は考えていたわけではないようです。確かに日本の文化についてはいろいろと現地で学んだり、また学びたかったようなことを書き残していたようですが、それは全て日本人の精神の基礎を知り、彼なりの布教活動のための手段にするのが本当の目的だったようです。その証拠に、日本人の人間性を評価した文章は残していますが、日本人の文化、つまり日本人の作り出したものについては一言も評価はしていません。
Q2 ポルトガルの利益のためにでは?
A それはないでしょうね。イエズス会というのは多国籍の集団です。事実サビエル彼自身も、スペインのナバラという小さな王国の出身ですし。まあ今回の布教に関しては、ポルトガル王の依頼を受けたローマ法王の命令で彼が行くようになりました。形としてはポルトガル国王のために行ったようになっていますが、彼はただローマ法王の代行としていっているのです。こんなことは当時のイエズス会では多くありました。サビエルもそうでしたしほかのイエズス会のメンバーもどこか一つの国のためという心はなく、むしろこの宗教により多くの人々が救われることを願って布教に専念していたのでしょう。
 あと事実として彼はポルトガル国王に大変厳しい内容、つまり無礼な内容の手紙を送っていますし、日本には攻め入る価値がないというような内容の手紙も送っています。王の持つ保護権と任命権のせいで、いくつか誤解をされているところもあると思います。
<イエズス会設立は何のためか>
 これについてはかなりの誤解が生まれていると思うのですが、まず、プロテスタントに対抗するためにできたのではないということと、オスマン=トルコ打倒のためではないということを知っておいてもらいたい。これは、この2つの事柄がイエズス会成立の時と近かったので生じた誤解なのだと思います。成立した当時のヨーロッパ諸国は、とても団結できるような状況でなく、むしろお互い同士いがみ合っていたほどですから。
 あと、先ほど言ったように特定の国家や王のためではないということはもちろんです。
 彼らがイエズス会を設立したのは、初期の頃は聖地巡礼を目的としてのことでした。これは、ルターの聖書崇拝と同様に、当時のカトリック教会の正常化を図る運動とも少しつながりがあるものでした。しかし、結局のところこの計画は、当時のオスマン=トルコの海上封鎖のため、断念せざるをえず、そこから宗教の力で争い事なく物事を解決できるやめの連結部分の役割をになう集団になろうとしたのです。
<サビエルはなぜ、宗教について多くのことに興味をもったのか>
  それは、異教でイスラム教以外の組織化された宗教である仏教に出会ったことが大きいでしょう。彼は仏教という宗教は1つなのに、なぜ宗派によってその基本的な真理が違うのかということに対し、とても多くの困惑を受けたようです。彼は大学では哲学を学んでいたわけですが、当時の西洋の哲学の真理は1つしか存在しないというのが決まりでしたから、なおさら驚いたことでしょうね。ですから、そのことを解明しようと何度か日本の僧と問答しています。
<サビエルの死後、山口での布教はどうなったのか>
彼は日本を出立する前に、ゴアから何人か宣教師を日本によんでいますが、山口には一人もなかったようです。その代わりとして日本で洗礼を受け、洗礼名「ダミアン」という琵琶法師が熱心に布教していたようです。しかし、その後の禁教令のためダミアンと多くのキリスト教徒は処刑されました。
 ですが、その後も山口の地には隠れキリシタンがいて、その信仰を密かに伝えていったようでした。

4.大航海時代とイエズス会進出
 我々はお二方の話を聞いた後、一体イエズス会の真の狙いはどこにあったのかということについて疑問を持ち、独自に調査を行った。以下はその調査内容をまとめたものである。
<胡椒と救霊>
 ポルトガル王ジョアン三世は、その臣下が勇気と冒険とによって勝ち得た東洋の植民地を神の支配に移したいと願い、神父の東インド派遣をイエズス会に求めたのであった。神の支配とは現地の人々をキリスト教に改宗させて植民地支配の拡大と安定を図ることに目的があった。
 これは教義を世界に広げようとするイエズス会の活動目的と連携するものであり、「胡椒と救霊」と後の世に言われたように、キリスト教の布教と胡椒などの富の導入は、植民地政策の両翼をなすものであった。 サビエルはゴアのポルトガル財務官に、「日本の金銀とヨーロッパの品物を交換すれば、多くの利益が得られるでありましょう。もし日本の国王がキリスト教に改宗すれば、ポルトガル王にとっては物質的な利益は著しいものになることと思います。」 という手紙を書いている。このようにサビエルは 日本で集めた情報を、布教戦略に利用すると同時に、ポルトガルの植民地政策のためゴアへ送った。ポルトガルから現地への旅費、生活費の全てを支給されていた宣教師達にとっては、布教とともにポルトガル王の期待に応える使命感も、常にあったようだ。しかし、サビエル個人は後に嘘の手紙(日本は貿易には不向きな国である)を書いたという行為に見られるように、植民地政策に相乗りして自分が、神の使徒としての崇高な目的を遂げようとすることに抵抗も感じていたのかもしれない。
<「潜在的植民地」日本>
 大航海時代の海外布教は、イエズス会をはじめとするカトリック教会が独自の立場で行ったわけではなかった。そこには、スペイン・ポルトガル両国王室の後援があった。しかもそれは、信仰心から起こった、任意の援助ではなく、政治、軍事的のためだけでもなく、ただ教会法に基づくものだった。この法によれば、諸侯(国王・貴族など)は自身の権利として、教会側の保護者としての地位を得ることにより聖職者を任命することができ、その代わりに諸侯は義務として教会を経済的に支え、カトリック信仰の宣布に全力を注ぐことが課されていたのである。
 これを海外への布教に適応したのが、布教保護権であった。大航海時代のスペイン・ポルトガルの海外進出の目的の一つは、レコンキスタや十字軍精神の延長からくる使命感に支えられていたといえる。しかしその布教が着実に行われた裏には、布教保護権による王室の援助があった。この海外の布教保護権とは、新たに発見された異教地域、つまり「布教予定地」のカトリック教会の保護者として、イベリア両国国王を据えたものであり、国王が、その教会運営に保護者として関与するのである。ということは、この保護権が適用される布教地が拡大していかないと、この制度は有効に機能して目的を果たすことができない。よって、ローマ法王は、イベリア(スペイン・ポルトガル)諸侯に布教保護権とともに、未知の世界に航海し、武力で切り開いてそこを奪い取り、植民地として支配し、そしてそこにおいて貿易等を行う独占的権限を与えた。このような世俗的事業がともなってはじめて布教保護権が成り立ったと言ってよい。 その後、非キリスト教世界、つまり布教予定地を二分割し、その一半ずつについて、ポルトガル・スペインがそれぞれ布教保護に基づいて布教を独占的に進めること、及びその地域に対しては、それぞれの国が航海・征服・領有、そして貿易を独占的・正当に行ってよいということが、ローマ教皇の認可により定められた。このときには、日本がどちらの側に属するかは決められていなかったが、日本人の全く知らないところで、日本の領土的帰属が当時においてすでに論じられていたのであった。事実、東半球へのポルトガル・スペイン両国の進出が始まると、日本は両国のどちらの「もの」になるのかということで論議が戦わされることになった。ただし、これまでの地域のように、境界線で分割されたのではなく、各地における両国それぞれの実績と力関係が反映される形で処理されていった。
 1542年、中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着してから40年間ほど、日本はポルトガルの貿易網のなかに包含され、カトリック布教に関しても、サビエルの来日の後ポルトガル系のイエズス会教会が増加の一途をたどった(もっともサビエルには日本はポルトガルの”布教地”であるという明確な意識はなかったと思うが)そしてこの布教実績の上に立って、ポルトガルの日本への布教保護権が法的に定められた。日本教会の保護者がポルトガル王になったということである。
 このことは、単に教会組織にとどまるのではなく、世俗的な部分、つまり征服・領有・貿易・なども含まれている。つまり、日本が潜在的なポルトガル領となったのである。この点を無視して、キリシタン史を「救い主への共通の愛によって結ばれた信徒の共同体である」教会の歴史としては、歴史の重要な一面が抜け落ちてしまう。
 この後、スペインも日本に目を付け、ポルトガル系のイエズス会とスペイン系のフランシスコ会の対立抗争が始まる。これを、布教にあたっての日本人への適応の仕方の違いによって生じた論争だと見る向きもあるが、実際には本国の政治的背景があったものだったといえる。
 根拠として、両教会の宣教師達が持っている日本布教の態度または目的が、スペイン・ポルトガルの勢力変化とともに、サビエルの生きた当時のものとは変わってしまったということがある。例を出すと、サビエル以後の日本布教の中心となった人物、アレッサンドロ・ヴァリニャーノはその手紙に「シナ、日本などのポルトガル国の征服に属する地域」といったような表現をよく使っている。 このことはスペイン系のフランシスコ会においても同じような例が多々見受けられる。また、17世紀頃のイエズス会の記録文書の中にある一文に「日本はポルトガルの征服に属しており、国王陛下はこれをポルトガル特権内に守ることを誓いました。それ故、国王は、日本など東アジアの征服地にスペイン人は行ってはならないというふうな勅令を発布した。」と記述されている。
 これらのことが示すことは、はじめサビエルらが目指していた、非キリスト教者の改宗によって彼らの精神を救い、全世界の平和を願った無償の保証のもとの崇高な行動が、時代が進むごとに、キリスト教者拡大という多大なる利益や、諸侯の介入による政治的手段の一つにつかわれ、当時の堕落したカトリック教会の一部分と成り下がってしまったということである。彼らにはその気はなかったかもしれないが、結果としてその大航海時代という流れの中に飲み込まれていったのであった。

5.終わりに
 今回、一通りサビエルのことについて調べた後、私たちは時代というものの流れがどんなに巨大で、どんなに恐ろしいものなのかということを身にしみてわかりました。
 確かに彼らの行ったものは自己の良心の信ずるところによってだと思いますが、その時代が終わり、彼らの歩んだ道が歴史として記述される頃、その道は歴史としての体をなすため大きく歪められてしまいました。
 一体何が本当の歴史なのでしょうか。我々が思うに、歴史に虚言はないと思います。その虚言自体も、歴史そのものなのです。  我々はこれからも、その虚言以外の歴史の何かを探し続けていきたいと思います。
 最後になりましたが、今回の調査にあたり御協力くださった方々、特にヴィタリ-神父さんやメディナ神父さんに厚くお礼の言葉を申し上げます。
 1999年度徳山高等学校地理歴史部一同(現・裏辺研究所所員一同) 
 なお、今回のHP転載にあたり執筆者の名前は、ハンドルネームを使用しております。原版と違いますので、その点をご了承下さい。また、この原稿は前述の通り、その他のレポートと共に「発見新事実~地理歴史部5年の歩み」という本・冊子にまとめ、2001年3月に自費出版という形で、出版させていただいております。。
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by kanakin_kimi | 2015-05-28 21:08 | 戦争終焉のマニュアル | Comments(0)

光と陰/明と暗/プラズマと闇

光と闇
 わたしは、以前「東州斎写楽」は、「北尾政美」が「鍬形慧斎」になるキッカケの「絵」を描いた時の「仮名」である事を別の言い方で書いた事がある。
 「北尾政美」は兄弟子の「北尾政演(山東京伝)」から多くを学んだのであろう。そして、兄弟子を深く敬愛している。「北尾重政」の屋台骨を引き受け次の者(重政・豊国などの孫)につなげている。それは、単に「北尾派」だとか「鳥居派」・「豊国派」だとかに拘泥する事なく、才能ある若者を「北尾工房」で学ばせたように思われる。それは、「松平正信」をバックアップする集団によって「田沼意次」を追い落とした事の意味しかない「寛政の改革」が、今日から見ると如何に「百年後退の愚革」であったかを物語っており、「田沼時代」がつづいていたら「明治維新」は必要がなかったわけである事を思い知る。結果論とはいえ、とにかく残念でならない。
 その「闇」を象徴しているのが「東州斎写楽」なのだと思うである。
「多くを知るものは、その知るに溺れると痴れ者になる」ことを認識できないようである。「智の巨人」といわれるが「知」の間違いではないのかといぶかる。
 写楽絵を「肖像画」として受け取れるのは、第一期の大首絵だけであろう。しかも、初刷りだけであろう。これは随分高かったに違いない。庶民が手にすることはできないだろう。今でもそうだから。
 いずれにせよ「光と闇」を次のように見る人もいる。
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浮世絵師「写楽」の謎と真実
 東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく)、世間では「謎の浮世絵師」と言われています。
 江戸中期に登場した写楽は、その素性が明らかになっていないことから謎が謎を生み、様々な「別人説」が唱えられるようになりました。歌麿、北斎、豊国、山東京伝、十返舎一九、谷文兆、司馬江漢、版元・蔦屋重三郎等々、当時活躍した「著名人」達が次々に別人として疑われ、作品特有のデフォルメされた表情ともあいまって、写楽は日本美術史で特別の地位を得ました。

 海の向こうではシェークスピアの「別人説」もあるそうですが、現代のような記録体系のない過去の時代において、特定の人物の素性を確定するのは極めて難しい作業なのです。
 近年、写楽は阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であったとほぼ確定されています。斎藤十郎兵衛であることは、江戸時代の資料にも名があった「本命」であり、様々な「別人説」はこじつけの感がぬぐえません。











(イ)


(ロ)


(ハ)









  ≪おなじみ写楽の有名作品より≫

  (イ)市川蝦蔵の竹村定之進(いちかわえびぞう の たけむらさだのしん)
  (ロ)大谷鬼次の奴江戸兵衛(おおたにおにじ の やっこえどべえ)
  (ハ)三代目佐野川市松の祇園町白人おなよ
(さのがわいちまつ の ぎおんはくじんおなよ)

 写楽作品は、歌舞伎役者を(超リアルに)描いていますが、作品のタイトルは、「演じている役者名+役柄名」のセットになるため長くなります。(ハ)の場合は、女形ですので、男の俳優名と女の役柄名になりますし、画面上に二人の役者が並んでいる作品では、タイトルはさらに長くなります。

 役者名と役柄が判れば、当然「演目」も判明し、さらに「場面」も推測することができます。
 (イ)で言えば、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」という演目で、娘・重の井が犯した不義のために腹を切らなければならなくなった能役者の父・定之進の苦悩を、名優・市川蝦蔵が演じているシーンということになります。
 ちなみに、蝦(正しくは魚偏なのですが文字が見つかりませんでした)蔵の「えび」の字が現代のように「海老」でないのは、五代目・団十郎が養子に六代目を譲るのに際して、自らの存在を雑魚としてとらえ、あえて「蝦」の字を充てたと言われています。

 絵画は「読み解くもの」との考え方がありますが、その絵師の素性を含め、まさに写楽の役者絵は、読み解くものであるのかもしれません。





 
 さて、そんな写楽に関するトピックを、ふたつ。

 まず、写楽に関する「誤解」を解きたいと思います。
 写楽の名が日本美術界で語られるようになったのは、ドイツ人ユリウス・クルトが写楽の研究本“SHARAKU”を1910 (明治43) 年に、ミュンヘンの出版社から刊行したことによります。この本をきっかけとして、写楽が日本だけでなく欧州でも俄然注目され、浮世絵の大量海外流失にもつながっていきます。

 この“SHARAKU”の中で、クルトは、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」として位置づけたとされてきました。
 しかし、クルトのほとんどの著作や論文を確認してもそのような記述は見つけることはできませんでした。そもそも木版画独自の芸術性を高く評価するクルト博士が、レンブラント、ベラスケスという時代もバックボーンも異なる西洋の油彩の巨匠を同列に並べる必然性はなかったのです。
 クルトを犯罪者に例えて申し訳ありませんが、博士にはアリバイがあり、尚かつ動機もなかったのです。

 そして何より、真犯人を見つけることができたのです。
 写楽を「三大肖像画家」に組み入れたのは,大正期に活躍した評論家の仲田勝之助という人物でした。1925年(大正14年)に刊行された仲田の、日本で初めての写楽研究本『写楽』にこんな記載があります。

 写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…(略)…一九一〇年…(略)…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。

 ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の写楽研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし,レンブラントやベラスケスと写楽を並べてしまいました。この後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったのでした。

 来年、2010年は、“SHARAKU”の初版刊行からちょうど100年を迎えます。その前に、クルトの「汚名」をそそぐ必要があるのです。



 ご参考までに、日本で公開されたことのある、レンブラント(オランダ)とベラスケス(スペイン)の傑作を・・・。

(左)レンブラント「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」(1630)
(右)ベラスケス「薔薇色の衣裳のマルガリータ王女」(1653-54)




 二つ目のトピックは、先頃まで両国の江戸東京博物館で開催されていた『写楽・幻の肉筆画』展について。

 ゴッホ、モネ、ゴーギャンらヨーロッパの画家たちに、日本の浮世絵が多大なる影響を与えたことは、よく知られています。では、これらの画家はどうして浮世絵を手に入れることができたのか? つまり、よく言えば「流出」、有体に言ってしまえば日本人の誰かが海外に「持ち出し」て、儲けていた訳です。
 その象徴的な出来事として、昨年ギリシャの小さな島にある美術館で、写楽の「肉筆画」が発見されました(読売新聞は一面トップでビッグニュースとして伝えていました)。写楽は、版画の下絵絵師であり、真筆の「肉筆画」と認められるものは過去に一点しかありませんでした。
 この二点目の「肉筆画」は、写楽が浮世絵師を辞めてしまったあとの歌舞伎演目を主題にしているため、研究者の間でも注目作品となっています。

 で、この「肉筆画」を中心に、(もちろん読売新聞の主催で)先頃まで開催されていたのが、『写楽・幻の肉筆画』展です。
 この展覧会で驚いたことがありました。

 
 まず、写楽の肉筆画の繊細さ。版画と違って、細い輪郭線で描かれた人物像は、不思議なリアリティを持っていたこと。

 次に、北斎、広重、歌麿など実に多数の浮世絵が、ギリシャの美術館にあるということは、一体どけほど「持ち出し」されたことか、とちょっと怒ったこと。
 ただし、ヨーロッパで美術品として大事に保管されていたから我々は観ることができたのであって、日本にあったら捨てられていたかもしれない・・・・・この辺が、悩ましい。
    


ギリシャで見つかった
写楽の肉筆画 「扇面」

「四代松本幸四郎の加古川本蔵と
松本米三郎の小波浪」
(よんだいまつもとこうしろう の かこがわほんぞう と まつもとよねさぶろう の こなみ、寛政7=1795年)



講談社文庫。¥620
1993年刊(親本は1990年刊)

 
 さて最後の驚きは、会場出口の物販コーナーでのこと。
 写楽の画集は何種類も販売されている中で、いわゆる研究本は『東洲斎写楽はもういない』という文庫本一種のみが販売されていました。

 実はこの本、我が師匠の明石散人先生と一緒に1990年に出版したものです(文庫化は1993年)。もちろん、「写楽=斎藤十郎兵衛」説に立脚しています。
 20年を経て、まだ取り扱っていただけるということは、うれしいことです。逆に言えば、この本以降に出た各種の「写楽研究本」で、これに勝るものはなかったということなのかもしれません。







(2009.9.20 )





《追記》

上記の内容をもとに、『大好きドイツ! エッセイコンテスト』という公募に応募したところ、「優秀賞」を頂戴することになりました。
何故ドイツかといえば、もちろん上にご紹介したユリウス・クルト博士が「写楽」を発見したことによります。そして今年がちょうど100年ということになります。

たまたまこのコンテストのことを知り、100年の節目でもあるので応募したところ、幸いにも賞を頂戴した次第です。ちなみに、私個人はドイツへいったことはありません。

もうひとつちなみに、今年は宝石の1カラットが0.2gと決められた明治42年からも100年めです。

上の内容と重複していますが、受賞作品を掲載いたします。










(2009.10.30 )






「写楽」を教えてくれたクルト ==100年目の新事実==

                佐々木幹雄

 ユリウス・クルト(Julius Kurth)……現代のドイツで、この一世紀前の日本文化研究家の名を知る人は、果たしてどれだけいるのでしょうか? ひょっとしたら、知名度は我が国の方が高いのかもしれません。それはとりもなおさず、クルトが「写楽」という浮世絵師の名を世に広めたという一点につきます。

 1910 (明治43) 年、ユリウス・クルトは浮世絵師・東洲斎写楽の研究本“SHARAKU”をミュンヘンの出版社から刊行しました。その後の研究成果を踏まえ、1922(大正11) 年には「第二版」も出版されています。

 江戸中期に登場した写楽は、その素性が明らかになっていないことから様々な「別人説」が唱えられ、いつしか謎の浮世絵師と呼ばれるようになりました。歌麿、北斎、十返舎一九等々、当時活躍した「著名人」達が次々に別人として疑われ、作品特有のデフォルメされた表情ともあいまって、写楽は日本美術史で特別の地位を得ました。近年、写楽は能役者・斎藤十郎兵衛であったとほぼ確定され、まさにクルトが一世紀前に指摘していた通りだったことが明らかになっています。

 クルトは二つの点で誤解され、まさに誤解がもとで、その名が日本美術研究史に残ったと言うことができます。

 まず第一に、クルトは「写楽御用達」ではないということ。1907年、浮世絵師の喜多川歌麿についてまとめた“UTAMARO”を、1910年には“SHARAKU”の前に、鈴木春信を題材に“HARUNOBU”も刊行しています。クルトは日本の詩歌にも通じ、晩年まで日本の木版画史をまとめることに尽力していて、決して写楽だけを研究していたのではありません。日本文化全般を視野に入れ、生涯をかけて研究を続けた人だったのです。

 そして第二に、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ「三大肖像画家」として位置づけたとされる点です。しかし、クルトはどこにもそんなことは書いていません。恥ずかしながら、私自身も写楽に関する論考を発表した時、この「三大肖像画家」説を披露しましたが、後にクルトのほとんどの著作や論文を確認してもそのような記述は見つけることはできませんでした。そもそも木版画独自の芸術性を高く評価するクルトが、レンブラント、ベラスケスという油彩の巨匠を同列に並べる必然性はないのです。クルトを犯罪者に例えて申し訳ありませんが、博士にはアリバイがあり、尚かつ動機もなかったのです。

 そして何より、真犯人を見つけることができたのです。写楽を「三大肖像画家」に組み入れたのは,大正期に活躍した評論家の仲田勝之助でした。1925年(大正14年)に刊行された仲田の『写楽』にこんな記載があります。

 写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…一九一〇年…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。(一部省略し、仮名遣いを改めた)

 ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の写楽研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし,レンブラントやベラスケスと写楽を並べてしまいました。この後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったのでした。

 これら二つの誤解をクルト本人が聞いたならば、どんな感想を持つかは、もう知る術もありません。

 来年、2010年は、“SHARAKU”の初版刊行からちょうど100年を迎えます。昨ギリシャで見つかった写楽肉筆の「扇」が展観されている今、写楽の名に付随してクルトの名が、また日本人の目に留まっています。

 私にとってドイツとは、一世紀も前に、日本文化に対してとてつもない精力と情熱を傾けて研究したこのクルト博士こそが、完璧にイコールしています。

 ベルリンの書斎で、訪れたことのない東洋の島国・日本へ、直に接することのできない一世紀前の江戸の文化へ、熱く思いを馳せながら、難解な日本語の文献を繙いていたクルト……。写楽から二世紀、さらにクルトから一世紀を経て、日本に暮らす私は、クルトを通して、訪れたことのないドイツへ思いを馳せています。写楽に魅せられたことをきっかけに、クルトの著作を少しずつ集めていますが、いつかはドイツを訪れ、クルトの書斎を見、クルトを生んだ柔軟な文化を持つドイツの空気を吸い込んでみたいという思いに、強く強く駆られているのです。
by kanakin_kimi | 2015-05-28 12:02 | 写楽鎮魂 | Comments(0)

戦争終焉のマニュアル

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戦争終焉のマニュアル
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I T C C S Houkoku (google honyaku)
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ニュース速報ブロードキャスト:
で掲示されます 2015年6月9日
カナダは現在進行中の犯罪を隠すために、その虐殺を非表示にします

http://youtu.be/JixBslchmP4
今週、カナダとその教会は公に加害者をexonerates、および継続的な大量虐殺を隠し「公式報告書」で先住民族の子どもの数万の彼らの殺害を白塗り。しかし、20年以上にわたり、カナダのホロコーストを公開しているケビンアネットによれば、キリスト教のカナダと英国の王冠は現在、道徳的かつ法的に無効化され、新しい共和国は合法的に保証されています。

6月9日に投稿され、2015年には、参照してくださいwww.itccs.orgとwww.kanatarepublic.ca。

追放宣言2014年1月 - カトリ​​ック教会はスカーミッシュ国家と正義のコモン·ロー裁判所の命令の下でバンクーバーから追放され、



で掲示される 「真実和解委員会」、アクション:何をすべきか、APTN、カナダ、カトリック教会、料金は特、児童売買、イングランドのChuch、ローマの教会、コモンロー、イングランドの王冠、CSIS、イングランド、民族浄化、ゲーリー·パターソン、大量虐殺、カナダのジェノサイド、歴史的背景、ITCCS、イエズス会、ジョニービンゴドーソン、ホルヘBergoglio、ジョセフ·ラッツィンガー、ケビンアネット、法的背景、カナダのマスグレイブス、メディア、モホーク·ネーション、教皇の欺瞞、ベネディクト、フランシスコまず、ハーパー首相、司法の公共国際裁判所、公共召喚状、エリザベス女王、ラジオ、ラジオ無料カナタ、レイモンドルサン、RCMP、カナタ共和国、牧師 ケビンアネット、リッキーLavallee、子供の儀式殺人、儀式レイプ、儀式レイプや児童の拷問、ローマカトリック教会、スティーブン·ハーパー、生存者や目撃者の証言、正義の国際慣習法裁判所、カナダ合同教会、バンクーバークラブ、バチカン、ウィリアム·コンブ
カナダは、その継続的な犯罪を隠すために、その大量虐殺遺産を忌避します
で掲示されます 2015年6月7日
キラーズは、剖検を実施した場合、真実を期待してはいけません!

犯罪ケビンD.アネットによる解説

2015年6月6日

戦争の勝者はその公式の歴史を書いて、自分自身に赦免を発音するたびに、結果は悲劇的な、漫画の両方です。政府·ラン」真実和解委員会」(TRC)は、いわゆる「インドの住宅でネイティブの子供たちの何千人もの自家製の教会や状態の虐殺への「公式」報告書を発表したときにカナダはスペードで先週ことを実証しました学校 "システム。

熱狂的な注意にもかかわらず、TRC報告書は、世界のプレスで受信し、それは何も私たちがすでに知っている、と私は個人的にまでさかのぼる1998年6月としてTRCレポートがやったのは何聴覚障害者の世界にして放送されなかったことはないと述べました制度児童売買のような存在、その犯罪を保護するために、過去のカナダの犯罪の周りの厚いベールをキャストします。

無知に、何とかそれは正当な犯罪者が自分自身を調査するために考えの方のために、それは説得力十分ベールです。"のような防腐用語:すべての権利の単語がホラー軟化形容詞によって当然隠さTRC報告書で使用された文化的ジェノサイド」は拷問体、滅菌性器の真実の代わりとなり、違反と引き裂かれた小さな子供たちは、大量に放り込ま夜の墓。50,000死んで罪のない人は、本当に単に「文化的」絶滅を構成することはできますか?

聖公会、カトリック、およびカナダ合同教会 - - に年間与えられたものの犯罪の主な加害者はときに加えて、関係なく、その魅力的な訳の分からない話とあからさまな嘘の、TRC報告書はほとんどの住宅の学校での犯罪についての真実のいずれかのタイプを発掘しなかったかもしれません、有罪の証拠、ゴミ箱または非表示の文書を破壊目撃者を沈黙とその若い被害者を詰め墓サイトを消し去ります。

そのようなことを行うには殺人容疑者を許可された任意の裁判官は明らかに犯罪を支援し、教唆で起訴し、彼のオフィスから削除されます。その取締役これらの同じ教会によって指名された - - 彼らが行うことを許可しかし、それは、TRCがまさにです。

でも、メディアはTRCフォーラムで」のような雰囲気サーカス」と呼ばれるもので、話すことを望んで任意の住宅の学校の生存者は、彼らがそれらを作ることができる前にスクリーニングし、検閲のためのTRC役員にその文を提出しなければなりませんでした。それから、彼らは彼らの声明をするためになんと10分を得ました。まだ「我々は唯一の良いことをしようとしていた "プロパガンダを噴出するためのフォーラムを使用し、教会の関係者は、それらの上に置かれ、そのような時間制限がありませんでした。「それは私の強姦犯と同じ部屋に座って、もう一度それを通過するようなもの、嫌だった」1古いカウチン女性ビクトリア、紀元前にTRCイベントの後に私に言いました。

生存者は彼らの拷問者や子供を殺したのだ人の名前を挙げるたびにさらに悪いことに、それはすべて慎重にTRCの転写物から襲われました。グローバルメディアは無視しているように見えるもの:一人でいるという事実は、正当性や適法性にいかなる請求からTRCを失格する振り切ります。

「このすべてのがらくたは私たちの大虐殺の総白洗浄以外のものを生成することができますか?」バンクーバーの早期TRCフォーラムを通して座った後、私にはスカーミッシュチーフジェリーKiapilanoを嘆い。

白洗浄はTRC報告書は7年後、生成し正確に何です。一つは気晴らしとパディングであるその多くは政治的に正しい、弁護士に細工されたページ、その数百をふるい胃できる場合でも、レポートの最終的な戦略が出てくるん:すなわち、ように住宅の学校の総死体の数を最小限にするためにジェノサイドが意図的ではなかったことを「証明」します。意図がない場合には、法の下で、何の罪がありません。

ハーフの子供死者,それらの十分の一は、単に「過失」であるのに対し、明らかに意図的な虐殺です。だからTRCスピン機は、ことはなく、ほぼ一世紀のための規範であった一定の40%プラス、死亡率の簡単な計算によって得られた50,000、より死んだ子どもたちの姿私たちを説得するために動作するようにするだけで、「4を行ってきました5000「子供たちが実際に死亡しました。

百以上の住宅の学校に広がって、低図は、TRCによると、という意味だけで50人の子供が毎年、システム全体で死亡、または毎秒学校に1人が死亡!このようなグロテスクなホロコースト否定は不条理が、日常的に、特に西で、毎年各学校での死亡数十を報告したレコードのすべてによって反証だけではありません。

与えられたようなハゲは詐欺に直面し、それは驚くべきことだTRC会長、マレー·シンクレアという名前の肥満人形インドは、最近、「(カナダ)政府は1920年に住宅の学校の死の記録を公開停止」という嘘を発行したこと。私は時間を持って、再び発見され、私もマレーにそれらのコピーを送信された1969年までに1889年にまたがるような政府の死の記録を公開するので、それは、あっても売り切れのために、作るために奇妙な主張です。

これらの「学校」の意図が大量虐殺はな ​​かった場合は、なぜ40%〜60%の巨大な死亡率が治まることはありませんでしたことを、十年十年後?そして、なぜそれが西部の住宅の学校は1889年に、オープンしたことは非常に最初の年を提示したのか?(www.itccs.org)

TRC、また議会やメディアや大学の誰でもないが、これまでにこれらの問題に対処するために気にしている、彼らはカナダ全土私が文書化された28集団墓地のもの行方不明の子供のすべてを検索しているよりも、それ以上。:実行するためにはそうTRCを回避するために設立された明らかな結論に向かって指すようになり、カナダとその教会は意図的に数十人の子供の何千人ものを根絶することを、この虐殺機がオフされていないこと。

政府の「子育て」と里親ケアシステムを通じて先住民の子供たちの大規模な人身売買や拷問。自分たちの土地や資源のための準備金のインド人の継続的な殺人事件。半ば世紀によって彼らの現在のレベルの1/10に先住民族の国の人口減少の「アジェンダ21」計画は、TRCを隠すように設定されたことを、これらの継続的なカナダの犯罪のハード指標です。

幸いなことに、これまでニュルンベルク判決以来、国際法と呼ばれる小さな問題があり、明らかにカナダのような実績のある刑事政権下での市民が義務付けが、それは税やその法令に従わ支払わない必要とされるだけでなく、と述べています。このような体制は、実際には、支配する権利を失っている、それは合法的であり、それは国民の意思を反映した新しい政治構造に置き換える必要があります。

要するに、より多くのダメージコン ​​トロールは、TRCの大失敗での作業でした。イングランドの冠と呼ばれるその企業の冗長性の非常に生存は特に今の愛国者がそれに代わるものを宣言しており、かなたの共和国の新たな共通法の管轄権を介して、カナダを大量虐殺することが、危機に瀕している。(www.kanatarepublic.ca)

子供たちの何千人もが自分の手で死んだことを確認することにより、刑事俳優が有罪判決を受けたとしてきちんと解像度はその血に浸した作成者のために期待するのではなく、TRCは、知らず知らずのうちにカナダの政教disestablishmentへの扉を開きました。私たちのどれも大量虐殺機関と協力せざるを得ませんし、実際、そうすることは、人類に対する犯罪で共謀することです。

同様の英国の王冠に対して革命と1778年にその専制政治の中、トマス·ペインは、自分の破壊を求めているかのように崩壊している制度は、ますます自殺している意思決定をする傾向があることを観察しました。クリスチャンカナダ、ロンドンとローマのそのスポンサーは、この公理を裏付けています。唯一の問題は今かどうかである我々かなたの人々は、このような歴史的な機会を活用し、一度、制度大量殺人のその遺産のすべてのために私たちの国を清めます。

KevDocs 006KevDocs 007
ラジオ·フリー·カナタのこの日曜日:
で掲示されます 2015年6月5日
「死亡率は五十パーセントを超えている...これは国家犯罪です。」
- ピーター·ブライス、インディアンのための医療インスペクタ、オタワ、1907年11月9日
「諸国民の法に基づき、刑事政権は統治する正当な権利を持っていない、と国民は、彼らへの忠誠から免除されています... "
ロバート·ジャクソン、ニュルンベルク裁判で主任検事アメリカ、1946
http://www.henrymakow.com/upload_images/kevinannettjusice.jpg

なぜカナダが溶解する:政府教会が虐殺を認めています
独占インタビュー
カナダは公にそれとそのパートナーの教会は、先住民族の子どもたちの世代に大量虐殺を犯し、インドの住宅の学校制度における死亡者の「数千人」を引き起こしたことをこの一週間入院します。この入院で、カナダは国際法の下で、その不当性を認識し、その合法的な交換、カナタの共和国のための「完全な蒸気前方」を発表しました。
独占インタビューでは今週の日曜日、誰もが20年の間にカナダからのこの入場を余儀なく以上の男性、ケビンアネットは、再集計する方法と、それはすべて、約来た理由:それは私たちの仕事今日の何を意味するのか。彼は積極的に「キリスト教カナダ」として知られている犯罪者政権をdisestablishingているオンタリオ州の他の共和国の市民が参加します。
太平洋午後3時、東部で午後6時で、この6月7日(日曜日)でチューニングwww.bbsradio.com/のradiofreekanata、および歴史を作るのに役立ちます。
かなた共和国の暫定評議会によって発行されました
www.kanatarepublic.ca、www.itccs.org

ニュース速報:2015年6月2日
で掲示されます 2015年6月2日
罪を犯しました

独自の虐殺のカナダの精巧な隠蔽工作にもかかわらず、罪悪感、政府、教会の刑事意思証明
」...彼らが存在する彼らの法的および道徳的権利を失った」を-ブリュッセル裁判所

オタワ:

公設「真実和解委員会」(TRC)がより多くを隠さ殺人インドの住宅の学校のシステムにその最終報告書を発表したとき、先住民の子どもたちのその大量殺人をごまかしするカナダの高価な、7年間の試みは、昨日の嘘と恥で終了しましたそれが明らかになった - とカナダの歴史の中で最悪の犯罪の責任を負い誰もが保持されていません。

6800万ドルTRC報告書は大虐殺が実際にカナダで行われたことを認めたが、何の加害者の名前はありません、この犯罪の法的結果を無視して、効果的にオーバースパン先住民の子どもの全身レイプ、拷問や殺害のためにカナダとその教会を免除世紀。

汚職に悩まさと目撃者をmuzzlingと決定的な証拠を破壊することによって、国際法とデュープロセスをスナバ公然改ざん、および、TRCは、子どもたちの何千人」が有していてもよい」ことを報告することにより締結し、数十の証拠を確認し、独自のにもかかわらず、インドの住宅の学校制度で死亡このような死亡、数千の。

彼は(カナダ)政府は1920年に住宅の学校の死の記録を公開停止」と主張した場合に正義を妨害し、大量虐殺行為を隠蔽する2013年に国際裁判所によって起訴されたTRC会長マレーシンクレアは、この真実の回避を正当化、昨日公に嘘をつきました"。実際には、学生の死亡、および%60%40との間の一定の死亡率のレポートは、継続的に1998年に独立した研究者牧師ケビンアネットによって証明されたように、少なくとも1969年までは政府の発行し、続きました。

今日発行とYouTubeで放送される公式声明では、ケビンアネットは述べ、

「TRCが認めていることをカナダのホロコーストの真実のほとんどは、単に私が最初に私たち自身の独立した調査で、1998年6月に公開され、すべての蒸し返しです。TRCは、単に一緒に50,000人以上の子供たちを皆殺し教会や政府の公共赦免をステージ管理しています。誰がこれらの殺人のために刑務所に行くことになります:TRCはそれを確実にするために設立されました。これは、さらに別の国家犯罪です!」

TRC報告書、教会と国家(ITCCS)、2012年と2013年にカナダと大量虐殺のために教会を起訴体の犯罪への国際法廷の広報担当者にブリュッセルからコメントし、今日言いました

カナダで起こっているように、「このような恐ろしい犯罪を犯したと隠さ教会と政府は、自分自身の自己管理」のお問い合わせ」を実施する国の法律の下で権利はありません。そこで、TRC報告書法の正義の明確な妨害を検討し、それは、これらの戦争犯罪のために、1イオタにより、カナダとその教会、ロンドン、ローマでのスポンサーの刑事責任が低下することはありません。率直に言って、これらの機関が存在する道徳的、法的権利を失っています。 ""

ウィニペグでは、とTRC報告書に応答して、カナタの合法的自称共和国の暫定評議会は、「カナダと呼ばれるこの刑事陰謀を解体し、教会と国家の30の指導者でに対して立って市民の逮捕状を執行する新たなキャンペーンを発表しましたTRC会長マレーシンクレアを含むカナダ」、。

「彼らは罪を認めたし、法の下で非難立っています。今では「子殺しの彼らの遺産の私たちの国を清めるために、私たちまで、これらの犯罪者とそのシステムを処罰する人々の今日のケビンアネットを述べました。

共和国の逮捕とDisestablishmentキャンペーンのアップデートに伴いケビンアネットさんの解説の完全な放送は、YouTube上ですぐに従います。www.itccs.orgとwww.kanatarepublic.caを参照してください。

ITCCS(ブリュッセル)とカナタの共和国が発行した共同声明。

2015年6月2日

警察はホルヘBergoglioに対する逮捕状を執行するように求められます. ニューヨーク:

バチカン犯罪を停止するには、連合は、アメリカへのフランシスコの訪問、この9月に対向するように形成されています。
連合が原因アルゼンチンの人道と人権侵害に対する犯罪の彼の共犯のアメリカの土壌にに、法王、ホルヘBergoglioの入場を防ぐために努めてまいります。ニューヨークとワシントンの警察は、ブリュッセルのコモンロー裁判所によって2013年にBergoglioに対して発行立って市民の逮捕状を執行するために連合によって求められます。
連合は、アメリカ全体の人権団体、カトリック教会の犯罪の被害者、および憲法修正第一条の権利活動家が含まれています。
"我々は、米国議会がそれに話すように有罪判決を受けた重罪と子どもの人身売買シンジケートの頭を招待したことが恐怖だ」ニック·オブライエン、連合との主催者は述べています。。
「それに、オバマ政権は、憲法修正第一条の下で、議会がどの宗教団体にえこひいきを示すことは禁止されていることを忘れている - おろか人間の歴史の中で最も暴力的な宗教?」
フランシスコは、9月24日、米国議会の合同会議にその後、国連で講演する予定、とされています。
連合がローマ法王の訪問中の国連での直接の非暴力的なアクションと一緒に、ワシントンDCで、教皇の訪問を停止するには、両方の法的な手段と政治的なロビー活動を目指します。
連合の主催者は、前の秋のアクションに広い公教育キャンペーンをマウントしています。
連合に参加したり、支援するために、で、教会と国家(ITCCS)の犯罪に、その関連会社及び資金提供団体、国際裁判所を通じてご連絡itccsoffice@gmail.com。

ホルヘBergoglioとバチカンの刑事共犯の詳細については、を参照してくださいwww.itccs.orgを。

2015年5月22日発行 KevDocs 013

で掲示される 処置:何をすべきか、
スピンは再び、開始してみましょう:で掲示されます 2015年5月21日

カナダのメディアは、最終的にインドの子どもたちの集団墓地を "発見します". ケビンD.アネットによる解説

2011年11月ブラント住宅学校大量の墓で見つかった骨のサンプル
これは、政府文書、そこに子供を埋めた目撃者の発言をもとに、18年前、私が最初にバンクーバーサン紙エディタにカナダ西海岸のインドの住宅の学校の子供たちの可能性大墓のサイトのリストを渡し今月ました。のみならず、その後、私たちは、同じ新聞にそのような証拠を提示し、その後の年間で、他のすべての時間:私は、これらの証人は、きっぱりと無視されました。
年後の年、私たちのすべての公共の抗議、フォーラム、およびこれらの子供たちの集団墓地の場所の文書化にもかかわらず、カナダの歴史の中で最悪の犯罪バンクーバーサンの無関心は続けました。そして、この同じ盲目の目のアプローチは、カナダの他のすべての "主流"メディアアウトレットによって複製された - 2011年12月に、これらのメディアは、私からブラントフォード住宅学校大量の墓から出土した骨や衣料品のサンプルの証拠を受け取った場合でも、。 しかし驚くなかれ!私は彼らに話さことがなかったかのように突然、この一週間、サン紙は、最終的に住宅の学校の墓に報告しました!私は、もちろん、その資料に記載されていませんでした。も言葉「ジェノサイド」、または私たちの仕事は、1997年以降に声を与えたこれらの犯罪に対する証人の何百ものいずれかでした。
私たちは3月忘れサン紙に名前のあった、非常にサイトの一つ:その代わり、若い、新鮮な顔をした大学院生の誰もが今まで彼女はブランドンのユナイテッド教会、住宅、学校で子どもたちの墓の「識別」はずのために受信フロントページへの課金のことを聞いていないです2008年。 誰かがスピンドクターを言いましたか?
この一週間、私はバンクーバーのダウンタウンの東側で私たちの目撃者を探していました。私はそれらのいずれかを見つけることができませんでした。彼らはすべてのいずれかで、今行って死んで、オフを買ったかどこか​​漂っています。だから、どこにも私たちを導くない慎重に手入れされたメディアの物語を通して、彼らの犠牲者の紛れもない大量埋葬地について話をする教会と国家における殺人のためのこれらの日安全です。
それは結局、有罪は何をすべきかです:彼らは正常に行うには、脅しに屈した無関心だけでなくアップ薬漬けの公共の5第二の記憶のおかげで、私たちの家に成長ジェノサイドに関する学術 "専門家"のために買ったと有料の軍団それは数十小さな子供たちの何千ものを殺しました。
公式真実ように、歴史を書き換えて、再フレーミングされますように見ていた土地、すべての構成は同じ血まみれの手の中にとどまる:これらの日、私は多くの孤独な失われた大陸の生き残り、または人のように感じます。しかし、私の古い友人ジョーHendsbeeように、ブラックリストに載せられた共産港湾労働者は、私に伝えるために使用します
「彼らは何度も、彼らのビッグ嘘を言っておくなきゃとき、それはちょうど彼らが必死にクソしている証明しています。」
言い換えジョー、戦争、孫子のアートの著者は、一度書きました、

敵の司令官が繰り返し彼の人々に癒しが、偽reassurancesを話すなら、彼は自分の力を失ってしまいました。
1ビットを変更しないすべての王の馬とすべてのメディアが回転するもの:ロンドン、ローマでのスポンサーと一緒に、カナダの確立が真実でその力を失っている、とスタンドが破損し、殺人政権として公開します。そして、何も免除されず、何も非難幽霊のように、限り、上の政権tottersとして、癒さすることはできません。
そしてそれは、親愛なる読者は、あなた自身の震える手に問題を残します。あなたが信じている、またはファンド、または高オフィスの殺人者、またはそれらの法律を遵守するための説得力のあるものは何もありません。これらの大量虐殺の犯罪を知っているあなた方の多くがそうし続けるなぜ、私は習慣的な行動ではなく、意図的な共謀までぎっしり。しかし、最終的に、それは当然のことながら、何の防御ではありません。何のために免除し、何も癒されていません。
私はそれを繰り返してみましょう:何も免除しないと、何が治癒されていません。
すべての犯罪は、すべてのアクションのように、否定することはできません、その結果を持っている:それは、単に自然の法則です。それで、1、これらの日の、有給ジャーナリズムのハックと一緒に事務ローブを着た子殺し屋が彼らのために、またはそれらの行為のための逃げ場がないという事実に目覚めたときに、私たちが目撃します - でも、ここカナダで - 美しいものの一つ歴史的な瞬間の大きな玉座にほとんどたわごとタンブルと落ちます。そして、それは私たち次第です。
で掲示される 「真実和解委員会」、何をすべきか:アクション、
- ラジオ·フリー·カナタ共和党の法廷用ケース:「カナダの正義はありません. で掲示されます 2015年5月16日
by kanakin_kimi | 2015-05-27 21:17 | 戦争終焉のマニュアル | Comments(0)