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言葉の使用にかけられた意識の洗浄 1

たとえば、「公明選挙」という言葉がつかえなくなった。どこかの党が党名に使ってしまったからである。その党が、その名に値する活動をしていたならば、私は今でも「公明正大」の言葉を使っていただろう。薄汚れた謀略体質を身につけてしまった歴史と、自らの自浄作用すらも失ってしまった組織に使われた言葉は、一般市民が使うことが出来るであろうか。これに類した経験がたくさんあるだろう。
しかし、その言葉を取り返すことができるのではないかと思うようになった。
それが「洗浄」である。
政党政治はもはや崩壊し、破綻したからその言葉を無断使用した組織からその言葉が独立する「洗浄」のときである。
封建制支配体制が破綻し崩壊するとき、その内部に墓堀人が立ち上がり、封建支配体制を葬り、新しい政治体制・代議制統治支配体制を構築した。封建制から民主主義への過程は、封建制の内部で横下向き▽の支配体制がありその中で、横上向き△が生まれた。民主主義の萌芽が、「藩政」のなかで、「村政」のなかで、例えば田中藩や掛川藩の御用商人をしていた大塚荷渓が掛川藩太田藩主の移動で奥州にいく時に一緒に奥州へいき、田中藩へ帰ってからも奥州屋の屋号を継承した。
大塚荷渓は藤枝宿の文化人である。田中藩の儒者石井縄斎とも交流があった。その大塚荷渓が、何故奥州へいったのかについて書かれたものをまだ見ない。わたしは、安藤昌益の秘密塾との交流を感じている。安藤昌益が書き残した書物が今日、研究されてあの当時においてその内容たるや資本論に匹敵するのではないかと言われている。
ウィキペディアより以下に引用させてもらいました。
ーーー 安藤昌益 ーーー
安藤昌益(あんどう しょうえき、1703年(元禄16年) - 1762年11月29日(宝暦12年10月14日))は、江戸時代中期の医者・思想家。秋田藩出身。号を確龍堂良中。

目次 [非表示]
1 生涯
2 思想
3 著書
4 関連項目
5 参考文献
6 外部リンク
生涯 [編集]

秋田比内二井田村(現在の大館市)の農家に生まれた。長男ではなく利発であったことから、元服前後に京都に上り、仏門に入った(寺は不明)。しかし、仏教の教えと現状に疑問を持ち、どういう伝手かは不明だが医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は後世方別派に属する医師である。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚し子ももうけている。

陸奥国八戸の櫓(やぐら)横丁に居住し開業医となった。延享元年(1744年)8月の八戸藩の日記には、櫛引八幡宮の流鏑馬の射手を治療したことが記録に残されている。同年に八戸の天聖寺にて講演を行う。宝暦8年(1757年)にも同寺で討論会を開いている。その後、出羽国大館に帰郷。弟子の神山仙確は八戸藩主の側医。

宝暦6年(1756年)9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった(八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため)。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち(真栄道の弟子)が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻り、そこで亡くなった。

思想 [編集]

身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」)に携わるべきであると主張した。徹底した平等思想を唱えている。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされているが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。またこの書の中で安藤は日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判した。発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをも唸らせたという。[要出典]

後に在日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』が記されることで周知の人物となった。
by kanakin_kimi | 2012-06-12 15:50 | 直接民主主義


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