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光と陰/明と暗/プラズマと闇

光と闇
 わたしは、以前「東州斎写楽」は、「北尾政美」が「鍬形慧斎」になるキッカケの「絵」を描いた時の「仮名」である事を別の言い方で書いた事がある。
 「北尾政美」は兄弟子の「北尾政演(山東京伝)」から多くを学んだのであろう。そして、兄弟子を深く敬愛している。「北尾重政」の屋台骨を引き受け次の者(重政・豊国などの孫)につなげている。それは、単に「北尾派」だとか「鳥居派」・「豊国派」だとかに拘泥する事なく、才能ある若者を「北尾工房」で学ばせたように思われる。それは、「松平正信」をバックアップする集団によって「田沼意次」を追い落とした事の意味しかない「寛政の改革」が、今日から見ると如何に「百年後退の愚革」であったかを物語っており、「田沼時代」がつづいていたら「明治維新」は必要がなかったわけである事を思い知る。結果論とはいえ、とにかく残念でならない。
 その「闇」を象徴しているのが「東州斎写楽」なのだと思うである。
「多くを知るものは、その知るに溺れると痴れ者になる」ことを認識できないようである。「智の巨人」といわれるが「知」の間違いではないのかといぶかる。
 写楽絵を「肖像画」として受け取れるのは、第一期の大首絵だけであろう。しかも、初刷りだけであろう。これは随分高かったに違いない。庶民が手にすることはできないだろう。今でもそうだから。
 いずれにせよ「光と闇」を次のように見る人もいる。
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浮世絵師「写楽」の謎と真実
 東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく)、世間では「謎の浮世絵師」と言われています。
 江戸中期に登場した写楽は、その素性が明らかになっていないことから謎が謎を生み、様々な「別人説」が唱えられるようになりました。歌麿、北斎、豊国、山東京伝、十返舎一九、谷文兆、司馬江漢、版元・蔦屋重三郎等々、当時活躍した「著名人」達が次々に別人として疑われ、作品特有のデフォルメされた表情ともあいまって、写楽は日本美術史で特別の地位を得ました。

 海の向こうではシェークスピアの「別人説」もあるそうですが、現代のような記録体系のない過去の時代において、特定の人物の素性を確定するのは極めて難しい作業なのです。
 近年、写楽は阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であったとほぼ確定されています。斎藤十郎兵衛であることは、江戸時代の資料にも名があった「本命」であり、様々な「別人説」はこじつけの感がぬぐえません。











(イ)


(ロ)


(ハ)









  ≪おなじみ写楽の有名作品より≫

  (イ)市川蝦蔵の竹村定之進(いちかわえびぞう の たけむらさだのしん)
  (ロ)大谷鬼次の奴江戸兵衛(おおたにおにじ の やっこえどべえ)
  (ハ)三代目佐野川市松の祇園町白人おなよ
(さのがわいちまつ の ぎおんはくじんおなよ)

 写楽作品は、歌舞伎役者を(超リアルに)描いていますが、作品のタイトルは、「演じている役者名+役柄名」のセットになるため長くなります。(ハ)の場合は、女形ですので、男の俳優名と女の役柄名になりますし、画面上に二人の役者が並んでいる作品では、タイトルはさらに長くなります。

 役者名と役柄が判れば、当然「演目」も判明し、さらに「場面」も推測することができます。
 (イ)で言えば、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」という演目で、娘・重の井が犯した不義のために腹を切らなければならなくなった能役者の父・定之進の苦悩を、名優・市川蝦蔵が演じているシーンということになります。
 ちなみに、蝦(正しくは魚偏なのですが文字が見つかりませんでした)蔵の「えび」の字が現代のように「海老」でないのは、五代目・団十郎が養子に六代目を譲るのに際して、自らの存在を雑魚としてとらえ、あえて「蝦」の字を充てたと言われています。

 絵画は「読み解くもの」との考え方がありますが、その絵師の素性を含め、まさに写楽の役者絵は、読み解くものであるのかもしれません。





 
 さて、そんな写楽に関するトピックを、ふたつ。

 まず、写楽に関する「誤解」を解きたいと思います。
 写楽の名が日本美術界で語られるようになったのは、ドイツ人ユリウス・クルトが写楽の研究本“SHARAKU”を1910 (明治43) 年に、ミュンヘンの出版社から刊行したことによります。この本をきっかけとして、写楽が日本だけでなく欧州でも俄然注目され、浮世絵の大量海外流失にもつながっていきます。

 この“SHARAKU”の中で、クルトは、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」として位置づけたとされてきました。
 しかし、クルトのほとんどの著作や論文を確認してもそのような記述は見つけることはできませんでした。そもそも木版画独自の芸術性を高く評価するクルト博士が、レンブラント、ベラスケスという時代もバックボーンも異なる西洋の油彩の巨匠を同列に並べる必然性はなかったのです。
 クルトを犯罪者に例えて申し訳ありませんが、博士にはアリバイがあり、尚かつ動機もなかったのです。

 そして何より、真犯人を見つけることができたのです。
 写楽を「三大肖像画家」に組み入れたのは,大正期に活躍した評論家の仲田勝之助という人物でした。1925年(大正14年)に刊行された仲田の、日本で初めての写楽研究本『写楽』にこんな記載があります。

 写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…(略)…一九一〇年…(略)…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。

 ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の写楽研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし,レンブラントやベラスケスと写楽を並べてしまいました。この後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったのでした。

 来年、2010年は、“SHARAKU”の初版刊行からちょうど100年を迎えます。その前に、クルトの「汚名」をそそぐ必要があるのです。



 ご参考までに、日本で公開されたことのある、レンブラント(オランダ)とベラスケス(スペイン)の傑作を・・・。

(左)レンブラント「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」(1630)
(右)ベラスケス「薔薇色の衣裳のマルガリータ王女」(1653-54)




 二つ目のトピックは、先頃まで両国の江戸東京博物館で開催されていた『写楽・幻の肉筆画』展について。

 ゴッホ、モネ、ゴーギャンらヨーロッパの画家たちに、日本の浮世絵が多大なる影響を与えたことは、よく知られています。では、これらの画家はどうして浮世絵を手に入れることができたのか? つまり、よく言えば「流出」、有体に言ってしまえば日本人の誰かが海外に「持ち出し」て、儲けていた訳です。
 その象徴的な出来事として、昨年ギリシャの小さな島にある美術館で、写楽の「肉筆画」が発見されました(読売新聞は一面トップでビッグニュースとして伝えていました)。写楽は、版画の下絵絵師であり、真筆の「肉筆画」と認められるものは過去に一点しかありませんでした。
 この二点目の「肉筆画」は、写楽が浮世絵師を辞めてしまったあとの歌舞伎演目を主題にしているため、研究者の間でも注目作品となっています。

 で、この「肉筆画」を中心に、(もちろん読売新聞の主催で)先頃まで開催されていたのが、『写楽・幻の肉筆画』展です。
 この展覧会で驚いたことがありました。

 
 まず、写楽の肉筆画の繊細さ。版画と違って、細い輪郭線で描かれた人物像は、不思議なリアリティを持っていたこと。

 次に、北斎、広重、歌麿など実に多数の浮世絵が、ギリシャの美術館にあるということは、一体どけほど「持ち出し」されたことか、とちょっと怒ったこと。
 ただし、ヨーロッパで美術品として大事に保管されていたから我々は観ることができたのであって、日本にあったら捨てられていたかもしれない・・・・・この辺が、悩ましい。
    


ギリシャで見つかった
写楽の肉筆画 「扇面」

「四代松本幸四郎の加古川本蔵と
松本米三郎の小波浪」
(よんだいまつもとこうしろう の かこがわほんぞう と まつもとよねさぶろう の こなみ、寛政7=1795年)



講談社文庫。¥620
1993年刊(親本は1990年刊)

 
 さて最後の驚きは、会場出口の物販コーナーでのこと。
 写楽の画集は何種類も販売されている中で、いわゆる研究本は『東洲斎写楽はもういない』という文庫本一種のみが販売されていました。

 実はこの本、我が師匠の明石散人先生と一緒に1990年に出版したものです(文庫化は1993年)。もちろん、「写楽=斎藤十郎兵衛」説に立脚しています。
 20年を経て、まだ取り扱っていただけるということは、うれしいことです。逆に言えば、この本以降に出た各種の「写楽研究本」で、これに勝るものはなかったということなのかもしれません。







(2009.9.20 )





《追記》

上記の内容をもとに、『大好きドイツ! エッセイコンテスト』という公募に応募したところ、「優秀賞」を頂戴することになりました。
何故ドイツかといえば、もちろん上にご紹介したユリウス・クルト博士が「写楽」を発見したことによります。そして今年がちょうど100年ということになります。

たまたまこのコンテストのことを知り、100年の節目でもあるので応募したところ、幸いにも賞を頂戴した次第です。ちなみに、私個人はドイツへいったことはありません。

もうひとつちなみに、今年は宝石の1カラットが0.2gと決められた明治42年からも100年めです。

上の内容と重複していますが、受賞作品を掲載いたします。










(2009.10.30 )






「写楽」を教えてくれたクルト ==100年目の新事実==

                佐々木幹雄

 ユリウス・クルト(Julius Kurth)……現代のドイツで、この一世紀前の日本文化研究家の名を知る人は、果たしてどれだけいるのでしょうか? ひょっとしたら、知名度は我が国の方が高いのかもしれません。それはとりもなおさず、クルトが「写楽」という浮世絵師の名を世に広めたという一点につきます。

 1910 (明治43) 年、ユリウス・クルトは浮世絵師・東洲斎写楽の研究本“SHARAKU”をミュンヘンの出版社から刊行しました。その後の研究成果を踏まえ、1922(大正11) 年には「第二版」も出版されています。

 江戸中期に登場した写楽は、その素性が明らかになっていないことから様々な「別人説」が唱えられ、いつしか謎の浮世絵師と呼ばれるようになりました。歌麿、北斎、十返舎一九等々、当時活躍した「著名人」達が次々に別人として疑われ、作品特有のデフォルメされた表情ともあいまって、写楽は日本美術史で特別の地位を得ました。近年、写楽は能役者・斎藤十郎兵衛であったとほぼ確定され、まさにクルトが一世紀前に指摘していた通りだったことが明らかになっています。

 クルトは二つの点で誤解され、まさに誤解がもとで、その名が日本美術研究史に残ったと言うことができます。

 まず第一に、クルトは「写楽御用達」ではないということ。1907年、浮世絵師の喜多川歌麿についてまとめた“UTAMARO”を、1910年には“SHARAKU”の前に、鈴木春信を題材に“HARUNOBU”も刊行しています。クルトは日本の詩歌にも通じ、晩年まで日本の木版画史をまとめることに尽力していて、決して写楽だけを研究していたのではありません。日本文化全般を視野に入れ、生涯をかけて研究を続けた人だったのです。

 そして第二に、写楽をレンブラント、ベラスケスと並ぶ「三大肖像画家」として位置づけたとされる点です。しかし、クルトはどこにもそんなことは書いていません。恥ずかしながら、私自身も写楽に関する論考を発表した時、この「三大肖像画家」説を披露しましたが、後にクルトのほとんどの著作や論文を確認してもそのような記述は見つけることはできませんでした。そもそも木版画独自の芸術性を高く評価するクルトが、レンブラント、ベラスケスという油彩の巨匠を同列に並べる必然性はないのです。クルトを犯罪者に例えて申し訳ありませんが、博士にはアリバイがあり、尚かつ動機もなかったのです。

 そして何より、真犯人を見つけることができたのです。写楽を「三大肖像画家」に組み入れたのは,大正期に活躍した評論家の仲田勝之助でした。1925年(大正14年)に刊行された仲田の『写楽』にこんな記載があります。

 写楽に関する功臣は何と云っても独逸のクルト博士である。…一九一〇年…彼の詳しい研究“SHARAKU”をミュンヘンの一書肆から公刊した。それ以来である、写楽が一躍レンブラントやベラスクエスにさえ比肩すべき世界的大肖像画家たる栄誉を負うに至ったのは。(一部省略し、仮名遣いを改めた)

 ドイツ語で書かれたクルトの原文を理解できなかった後世の写楽研究家たちは、仲田個人の見解である「それ以来である」以下の記述をクルトの説と勘違いし,レンブラントやベラスケスと写楽を並べてしまいました。この後、「クルトが認定した三大肖像画家」説が一人歩きを始めてしまったのでした。

 これら二つの誤解をクルト本人が聞いたならば、どんな感想を持つかは、もう知る術もありません。

 来年、2010年は、“SHARAKU”の初版刊行からちょうど100年を迎えます。昨ギリシャで見つかった写楽肉筆の「扇」が展観されている今、写楽の名に付随してクルトの名が、また日本人の目に留まっています。

 私にとってドイツとは、一世紀も前に、日本文化に対してとてつもない精力と情熱を傾けて研究したこのクルト博士こそが、完璧にイコールしています。

 ベルリンの書斎で、訪れたことのない東洋の島国・日本へ、直に接することのできない一世紀前の江戸の文化へ、熱く思いを馳せながら、難解な日本語の文献を繙いていたクルト……。写楽から二世紀、さらにクルトから一世紀を経て、日本に暮らす私は、クルトを通して、訪れたことのないドイツへ思いを馳せています。写楽に魅せられたことをきっかけに、クルトの著作を少しずつ集めていますが、いつかはドイツを訪れ、クルトの書斎を見、クルトを生んだ柔軟な文化を持つドイツの空気を吸い込んでみたいという思いに、強く強く駆られているのです。
by kanakin_kimi | 2015-05-28 12:02 | 写楽鎮魂


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