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オーラ・ラインとオーラ・ポイントから何が見えるか 2

前回、オーラは人の思いがなくなると失われる、と書いた。しかし、これは全てではない。どういうことかというと、人間を主にして言えばほぼ正しいが、他の生物を含めて言えば誤りであることが明白になる。
オーラは、人間だけが発しているわけではないからである。とりわけ、日本の寺院・神社・仏閣の基本土台は、「山・岳」「火山」「石・岩」「河川・湖泉・滝・海」のそれぞれの場所とその所に棲息する全ての「生き物」の発する「気」を受け入れる所から出発している。
これらは、天皇制が成立する以前からあるものである。そして、何万年もの時のながれのなかで、連綿と持ち続けているものであり、とりわけ縄文時代の中で成立したといってもいいものである。それは、万世一系というような小さな枠のものではなく、万物の中に宿る精霊を敬うことを旨としたもので、これが今日まで人類が積み重ねてきたものの中で、どれほど平和であるかわかりそうなものである。象徴としての天皇制が「万物の中に宿る精霊を敬う」ことを「司祭」する役割としてのものであるならば全国民に受け入れられるであろう。
世の中には誤解させるものと、誤解させられるものがいる。しかし、物事は「原理」でかんがえればいい。ごかいさせられることもないだろうし、況やだまされたと思うこともないだろう。だから、と言わせてもらうが、漫画「柔道一直線」の主人公の師「車周作」は「万物これ師たらざるはなし」というのである。
つまり「受け取る側がしっかりしろ」といっているのである。発する側は、それなりの根拠を持って云っているつもりなのだ。それが、やたらめったらたくさんいるのである。「受け取る側がしっかりしなければ」、わけがわからなくなるのである。
「情報が氾濫している」と受け取るのは情けない話ではないか。これこそ「受け取る側がしっかりしろ」と突きつけられていることなのである。
自分の中に、全ての事象を、それがどのような原理で生じているかを考える習慣を身につけておけばよいのである。
by kanakin_kimi | 2006-01-30 10:48 | なにかがわかる


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