「軟着陸」という収拾策の意味を取り違えるな ー 2
家族で家庭菜園を手作りで野菜をつくる、自給を目指す、ということが、「自然」とどのように関わることになるか、そのかかわりの過程が「家族」の心にどのようなものが投影されるか、何が大切か、が分ってくるのだと思う。
食料を安定して供給できるということの意味は、はるかに大切です。それを、家庭の単位で作るということの意味はこれまたはるかに大切なことです。
これが「社会の基礎」になっていると、「心が豊かになる」のです。
闇雲に競争させ会っている社会で、負け組みと勝ち組が出来ることに何の意味があるのでしょうか。その中でゆがんでいく心はどうしてできるのでしょうか。
一人の人間が出来る「こと」は、他の人の出来る「こと」に支えられているのであり、それがどれほど大きな実績を示すものであっても「一人の人間が出来ること」ではないという真実を認識するべきです。
それなのに、そういう真実をゆがめて「一人の人間が出来ること」のように社会化しようとするものは、一体何かをこそ伝えるべきでしょう。
それは、「競争」と「差別」を維持するための「装置」だと思いませんか。誰にとってためになる「装置」なのか。よく目を見開いてみるべきです。競争そのものが問題なのではありません。それが何のために行わされているかということが問題なのです。
つまり、「競争」が最初から「差別を造ることを前提として作られている」という「装置」のことなのです。
「競争」は、「生きることについて廻る事実」です。しかし、それは最初から「差別を意図」してのものではありません。
「生きることについて廻る事実としての競争」と「差別を造ることを前提として作られている装置としての競争」とは全く違うということです。
これを、「混同し」「混乱させ」て、「差別構造」に組み込まれているということです。
その時代、時代の「支配者」は、旨く支配するための装置を編み出しています。江戸時代には、その階級差別を「士農工商エタ非人」という構造を作り、その差別を徹底していきました。
その差別構造に埋没してしまった人にはみえない「差別構造」です。これをまだ差別構造と認識できていない人には反省するいい機会でしょう。
「イチロー」が何故すばらしいか。そういう差別構造から「独立」している姿勢を持ち続けようとしているから、だと私は思うのです。